長い日曜日(三十三)
「あぁ、良い音ですねぇ」「ありがとうございます」
紅茶を飲みながら真治が呟くと、恵子も微笑んで答えた。真治はクッキーを口に頬張って、また紅茶を飲んだ。
真治にしてみれば、この上ない至福のひとときである。
「こんなに良い音のするピアノを弾くなら、良く練習してからでないと、恐れ多いです」
「あら、そんなに遠慮しなくても、良いんですよ」
『ピアノ教室の引率、習わぬピアノを弾く』のことわざ通り、真治も少しは弾くのだろう。
しかし、笑顔で首を振る真治の仕草が、恵子には面白かった。
「素晴らしい、優雅な時間ですねぇ。良いなぁ」
しみじみと答える真治に恵子も嬉しかった。
曲は高音域になって、香澄は右手を伸ばして鍵盤を叩く。
切れの良いその音は、真治が通わせていたピアノ教室では、残念ながら『聞いたことのない音』だった。
「高音が『キンキン』言わないんですねっ!」
「そうなんですよ。良い音でしょう」
今まで笑顔だった真治の顔が真剣になり、耳がピンとなっているのが恵子にも判った。その直後に弾き終わった香澄がこちらを見たので、真治は直ぐに笑顔に戻って拍手をする。
そのとき真治は後悔していた。もうちょっと『長い曲』を、リクエストすれば良かったと。
「素晴らしいお嬢さんですね」「ありがとうございます」
子供の意見とは言え、褒められれば嬉しいものだ。
「何だか今日は、凄く楽しそうに弾いていて。久し振りですわ」
拍手をしながら笑顔の真治に言われて、恵子も答えた。もちろん、本心だった。香澄がこんなに楽しそうにピアノを弾くなんて。
「それにしても、いやぁ、このピアノは良い音ですねぇ。持って帰りたくなるの、判ります」「判って頂けます?」
「判ります。こぉれぇは、私も、家に持って帰りたい!」
そう言って真治は恵子を見た。恵子は笑っている。
「この子なら良いですよ?」
恵子が、丁度ピアノから戻って来た香澄を捕まえて言う。
これには香澄も真治も、驚くしかない。
するとすかさず、真治が返事をする。
「お母様、今なら、ピアノも付いてきますか?」
笑いながら、真剣とも取れる表情である。
「残念っ! ピアノはお付けできません!」
笑顔だった恵子は、眉間にしわを寄せ、首を大きく横に振った。
「あぁー」
恵子の言葉に、真治が残念そうな声をあげた。余りにもショックだったのか、両手で頭を抱えるとソファーの後ろにひっくり返った。
「おかぁあさーん」
香澄が右手で、可愛くパチンと恵子の肩を叩く。『ピアノくらい付けてよ』と、言いたかったのだろうか。
そんな香澄を見て、恵子はまた笑っていた。




