長い日曜日(三十二)
「ピアノ教室されているんですね」
やっぱり気になる大きなピアノ。真治は聞いて見た。
「ええ。家はまだ引っ越ししてきたばかりだから、生徒さんの数が少ないのよぉ」
恵子は右手を振りながら、謙遜して答えた。
「今朝、小さいお子さんが弾いてましたが、ヤマハともカワイとも違う感じの音でしたね」
真治はピアノに詳しいのだろうか。恵子はにっこり笑う。
「ベヒシュタインというのよ。ご存じ?」
「いえ、知らないです。外国のですか?」
真治は首を横に振って答えた。そうでもなかったらしい。
「そうよねぇ。一応『三大ピアノメーカー』なんですけど、日本じゃあまり有名じゃないのですよねぇ」
「日本だとヤマハ、カワイ、カシオでしょうか?」
「カシオは電子ピアノですわ」
にっこり笑って答える真治に、恵子は冷静に突っ込みを入れた。
恵子はピアノの方を向いて、話し始める。
「ドイツにいた時に気に入って、持って帰って来た物なんですよ」
「それは凄いですね」
すると、渋い顔でこちらに振り返った。
「輸送費だけで、結構な額になってしまってねぇ。どうです? 弾いてみます?」
パッと笑顔に戻った恵子が、そんな簡単に言うものだから、言われた真治は急いで遠慮する。
「いえいえ。そんな恐れ多いです」
「あら、小さい子だって弾いてるんですから、遠慮なさらないで良いんですよ?」「いえいえ。大丈夫です。はい」
「ピアノ習ってらしたんですか?」
「いや、引率でピアノ教室にお邪魔していただけで、私は習っていないんです」
真治は頭を掻きながら答えた。どうやら習ってはいないらしい。
しかしそれでは、遠目に見て『ピアノ教室に通っている』と、思われても仕方ないだろう。
まさか『行っているだけ』なんて、誰も思わない。
「そうなんですか。じゃぁ香澄さん、何か弾いて差し上げて」
「はーい」「宜しいのですか?」「どうぞどうぞ」
笑っていた香澄が、無邪気に答えている。恵子は香澄に向かって頷いて促した。香澄は言われる前から弾く気だったのだろう。手を拭いていたお手拭きを置くと、直ぐに立ち上がる。
トコトコと、ピアノに向かった。やっぱり、すっかり弾く気だ。
椅子に座ると蓋を開け、準備を整え始める。最後にイスの高さを慣れた手つきで調整すると、笑顔で振り返った。
「何にしましょうか?」
何って、凄いな。それでも真治は、ちょっとだけ考えて答える。
「『子犬のワルツ』をお願いします」
香澄は頷いてピアノに正対すると微笑んだ。指慣らしもせずに弾き始める。直ぐにリビングで『子犬』が踊り始めたではないか。
あらあら、とっても上手だ。




