雨の帰り道(六)
不意に、真治の足が止まる。傘を持つ手を香澄の前に出そうとしたが、胸の辺りだ。それは無理。
だから、下を向いていた香澄は気が付かず、傘から出て行く。
「危ないよっ」
咄嗟に傘を前に倒す。その傘が視野に入ったからだろう。真治の五十センチ先で香澄の足が止まる。パッと顔を上げた。
しかしそこは、街道の交差点五メートル手前。しかも信号は赤。
何が『危ない』のか、全く判らないではないか。
その矢先、右から大きくなった光が。前に垂れた髪の隙間から見える。すると直ぐに黒い塊が視界に入り、左へ走り抜けた。
瞬間的に『雨音とは違う水の音』がしたのは理解した。するとその音と共に、目の前で『翼』が舞い上がったではないか。
香澄の目線まで躍動したそれは、光が駆け抜けた後の闇の中、白く光る波となってこちらに向かって来る。
確かに危ない。その通りだ。
真治は、それが予想できたからなのか落ち着いている。それどころか『翼が羽ばたく距離』まで、予想出来ていたようだ。
だから真治から一メートル先の着地地点ではなく、過ぎ去った車の行先、香澄が立つのと反対の方を目で追っていた。
通り過ぎて『危なかったね』と、言おうとした正にその時。まるで『手品』のように、香澄がいなくなっているのに気が付いた。
それからのことについて、のちに二人は語っている。
あの時『何がどうしてそうなったのか』は、全然判らない。
しかし、今になって思えば、当時の二人にとってそれは『とても重要な瞬間』であったと思わざるを得ない。
『もし、その瞬間がなければ、今の二人の関係は無いか?』
そんな問いに対し、二人は目を合わせて『はい』と答えた。
『では、もう一度再現できるか?』
次の問いに二人は、目を逸らせて『いいえ』と答える。そして、吹き出しそうな笑顔になるだけで、詳しくは語らなかった。
驚いた香澄は右足を着地させる前に、思わず左足で飛び跳ねる。そして、右足で着地しようと素早く右足を後ろに戻す。
しかし右足は、右手のカバンに妨害された。よりによって、足を十分後ろまで、引くことができない。
そのまま右足は、なんと『体を支えきれない状態』で、固定されてしまったのだ。これを『不覚』と言う。
それでも左足は、右足の状態を考慮せずに動き続ける。止まらない。左足の踵は、そのまま地球を押し続けるのだ。
そこにあるのは、四月から履き始めた新品の通学靴。
それは、梅雨のこの時期、まだ踵の角がピンとしていて、全然減っていない。
その踵の先『二ミリ』だけが、辛うじてマンホール表面のギザギザの『ギザ』に引っかかっていたのだった。
香澄の左膝が伸びて、太ももとふくらはぎのベクトルが変化して行く。すると当然、荷重が踵にかかるにつれ、踵の素材がゆっくりとつぶれて歪みだした。歪む。まだ歪む。どんどん歪んで行く。
そして、遂に歪みと『ギザ』との摩擦係数について『限界点』を突破する。そのことを香澄は、まだ知らない。
しかしそれでも香澄の意思とは関係なく、左足はなおも伸び続ける。踵は踵でマンホールの上を、鋭く水を切りながら軽快に滑走し始めた。
ブイワン。ブイツー。そして、雨のテイクオフ。
踵は遂に、大空へ飛び立ったのだ!
一方真治は、傘の柄より後ろを見た。
すると香澄がそこにいて、大きく開いた口と、大きく見開いた丸い目が。今まで見たことがないのは確か。しかし、直ぐにそれは香澄の髪によって遮られ、視線も切れる。
それでも、香澄の手が真治の腕を掴もうと伸びてきた。しかしそれは、指先が軽く当たっただけで空を切る。
カバンと傘を放り投げた。カバンにかかる空気抵抗は殆どなく、真っすぐ下へ落ちて行く。
一方の傘は、ふわりと宙に舞い上がった。そのままくるりと、縦に回転し始めた。
すると百八十度回転する途上で、傘から飛び散る水滴と空からの雨粒が、一粒づつ九十度でクロスして行く。
そんな瞬間を、右から左に差し込んだライトが照らし始める。
水滴のひとつづつを、左回りに反射して光らせながら、空に沢山の小さな十字架を映し出す。
香澄には『空に浮かんだ沢山の十字架』が、はっきりと見えていた。そして、穏やかな気持ちになって行く。
素直に『奇麗だなぁ』という気持ち。それはまるで、全てが終わる瞬間のように、ゆっくりとした時間の中で。
そして、確かに見えたのだ。『スーパーマーケット・アイランドA』の黄色い文字が。
それは、ゆっくりと回転を続ける傘の文字。電話番号も添えて。
突然、香澄は首から右腕にかけて確かな支えを感じた。
目の前の髪が、今度は自分の顔とすれ違うのが判る。そして、その次にやってきたのは、真治の顔だった。
傘に焦点が合っていた香澄の瞳は、瞬間的に真治の眼差しへと吸い込まれて行く。思い出されるのは、これまでの二人だ。
『そうですね』『そうですね』『そうですね』『そうですね』
さっきまで、それだけの関係だった二人。
しかし、それはもう『忘れ去られた遠い遠い過去の話』だ。そうに違いない。違いない。違いない。違いない。
香澄が運命を感じ、想いに浸っていたその瞬間だった。
『ゴンッ!』
さらに百八十度回転した傘が、真治の学生帽の上に直立する。
二人は、そのまま雨も忘れて固まった。
傘も、それは見事なバランスを保ち、真治の頭上にある。
何も聞こえない、二人だけの世界がそこにある。
静かだ。とても。雨はもう、止んだのだろうか。