長い日曜日(十七)
何かに怯える表情をしていた香澄に、笑顔が戻った。
真治はそんな香澄の笑顔に惹かれつつも、本当に、安堵した。
ほんの数秒前、香澄の表情から笑顔が消え、目が閉じられた。
その瞬間、息が詰まる程の緊張感を覚えた。
そして全身から、一流の者だけが纏うオーラが立ち昇り、見開いた目からは、殺気にも似た『気迫』が感じられた。
それは、明るくなったステージ上で、一曲目の一音目を出す、あの時の緊張感そのものだ。
しかしそこに、違和感も感じていた。
香澄はクラリネットで、まだステージに立ったことがない。それに、合奏する場合、指揮者を凝視するので、目を瞑ることはない。
真治は直ぐにピンと来た。ピアノだ。
しかもこれは、協奏曲ではなく、大ホールでのピアノソロだ。
大観衆が見守るべき『価値あるステージ』に、贅沢にも自分一人。
香澄はその秘めた実力を、全力で自分だけにぶつけて来る。それを自分は、しっかりと受け止めるのだ。
やがて、高々とあげられた右手。そして添えられた左手が、ホール全体に、荘厳なる旋律を響かせ始める。
真治は、一瞬で香澄の演奏に魅入られた。
それはある程度『予測されていたもの』なのか、それとも『予期していたもの』なのか、あるいは『期待していたもの』なのか。
そんな、まるで人を『評価』でもするような邪心は、香澄の演奏の前には無力。
この心地良さは、筆舌に尽くし難し。
そう。香澄は今、和食でピアノを弾いているのだ。
自分一人の為に作られた特別な一曲を、だ。
それは優雅で美しく、そして艶やかに。
真治は、いつも時間を気にしている。しかも、それだけではない。
周りを観察し行動の先を考える。緊張感を保ち続け、如何なる事態に遭遇しようとも、冷静であることを常とする。
そもそも『実際に時計を見る』のは、正解だと確認する行為だ。外したことはない。
しかし、香澄を眺めていると、頭の中で『コチコチ』と鳴り続ける音が、段々と静かになって行く。
いつになくゆったりと流れて行く、このひとときを、真治は、香澄との時間を楽しんでいた。
だから『どうしてこうなった』とか、そんな理由も、『今まで、何していたんだろう』とか、そんな後悔も、消えて行く。
とにかく今は、もう、そんな『些事』はどうでも良くて、残ったのは、ただ会話を楽しみ、ただ笑顔で見つめ合う。それだけだ。
それが、心地良かった。




