雨の帰り道(五)
人数の割に狭い音楽室で演奏する時、全員分の譜面台を設置する余裕はない。一人しかいないオーボエとかでなければ、同じパートの奏者と共有するのが普通だ。
それは香澄も、例外ではなかった。例え自分だけが『A菅』であったとしてもだ。
だから、香澄の楽器用の音階になっていない楽譜を、『頭で転調しながら演奏』を、していることになる。どの曲も、ずっとだ。
真治は違和感の理由が判った。納得だ。沢山練習していたのだ。
見た目『普通に演奏している』ように見えたのは、裏側でそんな苦労があったからなのだ。凄いではないか。
真治は、ふと不思議に思った。
何故、香澄が合奏の時は『譜面台を共有している』ということを知っているのだろうか?
指揮者から見て、クラリネットは中央から左側一帯。前列からファースト、セカンド、サードと並んでいる。
一年の香澄は、中学からクラリネットを始めた初心者で、どの曲もサード。席は一番後ろだ。
一方のトランペットは、指揮者から見て正面奥の方。右からファースト、セカンド、サードと並んでいる。
小学生から『プースカ』していた真治は、どの曲もファーストで一番右に陣取っている。まぁ、定位置だ。
二人の席は『音楽室の対角線に近い場所』ということになる。申し訳ないけど、正直見ている余裕もないし、見えやしない。
全体練習が終わって人が少なくなるか、そうねぇ。ソロのときなら立ち上がるから、見えるかもしれない。見る訳ないが。
三年生は『コンクール用の曲』を練習していたが、それ以外の一、二年生は『三曲の練習曲』が与えられていた。
その中で香澄は二曲目が好きだった。
二曲目の百八十小節目が『秘密のロングトーン』である。
通常クラリネットは両手で演奏するが、この時だけ左手のみでロングトーンを演奏する。
その時を見計らって、体を捻りながら右手を伸ばして譜面のページを捲るのだ。
香澄はクラリネット最奥壁際、スネアドラムの前で演奏していたが、その時だけ、指揮者を横目に見ることになる。
視線の先にはクラリネットの横顔が並び、その先は休符で楽器を降ろしたホルンが見える。
そして、その先、ホルンが休符で楽器を降ろしているからこそ、隙間から真治が見えた。
トランペットは右手で演奏する。だから左手でページを捲るため、体を右に捻り左手を伸ばす。自然と右を向く。
譜面を捲るその瞬間だけ、真治と香澄は向き合って、目が合う。
いや、そんな気がしているだけかもしれないが。
いやいやいやいや、違う違う違う。気のせいだ。
「そう言えば、今日、リードミスしてたでしょ」
「え、何でバレたんですか?」
香澄は飛び上がらんばかりに驚いて、思わず聞き返す。
リードミスとは、クラリネットを演奏中に思いがけず『ピッ』と高音を出してしまうミスのことだ。
これをやってしまうと、結構恥ずかしい。
しかし、クラリネット初心者の集まりで、この時期、まぁ、演奏毎に『誰かやらかす』のは普通だし、知らぬ顔をしていれば、誰がやらかしたなんて、判る筈もないのだ。
それが判ったなんて。しかも『真治が』である。
「あれ? 何で判ったんだろうね。あれ?」
香澄に問われたが、真治には『理由』が思い当たらない。不思議に思って、笑いながら首をかしげた。
一方の香澄は下を向いて、口をもごもごするばかりだ。真治からは見えていないが、顔も耳も赤くしていた。
今日は『秘密のロングトーン』の時、右肘が譜面台に当たって驚き、リードミスをした。確かに『その時』だけなのに。
だから今日は『真治と目が合わなかった』のだ。
何か、残念に思ったのも、良く覚えている。
それが、それでも、『真治が香澄を見つめていた』で、あろうことは、理解できた。
それはもう、日本語では何とも言い難い恥ずかしさと、形容し難い嬉しさだ。ただ心音だけがどんどん大きくなり、雨音を超えて行く。そして、遂に『フォルテシモ』になった。
もう、呼吸の、仕方が、判らない、では、ない、かっ。