長い日曜日(十六)
そうだ。ピアノだって最初は『ゆっくり』と練習するではないか。
箸だって、ゆっくりやれば良いのだ。
香澄はちょっとだけ目を瞑った。
目の前にあるのは、ピアノだ。ピアノだ。ピアノだ。
そうおまじないをする。
目をカッと見開く。演奏開始だ。
香澄は右手で箸を上から持った。そしてゆっくりと持ち上げ、左手で支える。難しいことではない。
右手をゆっくりと離して下から持ち直し、ごにょごにょといつもの箸の持ち方をした。ちょっと難しい。
その瞬間、香澄は『しまった』と思った。
最初は『両手でみそ汁椀』ではなかったか?
ピアノに例えるのがちょっと遅かった。
最初の方の記憶は、何に例えるでもない『単純な記憶』でしかなかったのだ。
ピアノに例えるようになった今なら、『楽譜として残す』ことも可能だったのに。
「ふろふき大根、美味しいよ」
真治の声に反応して、香澄はカッとした目のまま、真治の方を見たが、そこから僅か『一万分の一秒』で、笑顔に戻す。
「はい」
みそ汁椀にチェンジするのは中止だ。
そして考える。『ふろふき大根』って、どれですか?
多分、このハンバーグの崩れた、ひき肉が乗っかっている『ひたひたの茶色いの』が、お目当ての『ふろふき大根』に違いない。
目を凝らせば、確かに見える『縦の筋』。しかしそれは、大根にしては色が茶色い。きっと、そういう品種なのだろう。
香澄はフォルテで大根に箸を入れると、思いがけない柔らかさに気が付いた。
まるで、鉛の入った重い鍵盤のピアノで練習した後に弾く、コンサートピアノのようだ。
どんどんと下まで箸が下がって行く。慌てて箸をリテヌートさせたので、箸と器が衝突するのだけは、避けられた。
音を立てずに食べるのは、東西共通のマナーだ。
「良く煮えてるよね」「そうみたいですね」
香澄は、内心びっくりしていた。
真治の感想に答えながら、崩さないようにそっと掴んだ。
うっ。もう指がつりそうだ。震える指を何とか抑え、お上品に食べる。もぐもぐ。あら、これ、美味しい、じゃ、ありませんか?
口の中に広がる肉の旨味と、それに続く大根の甘みと苦み。そして、最後に広がったのは、かつお出汁の『豊かな風味』。
そう! 私には判る。これは、大根に『ふろふき』という『海』を、ギュッと閉じ込めたもの! なのだっ!
「美味しい?」
「はい。何だか判らないのですが、とても美味しいです!」




