雨の帰り道(四)
「クラリネットもB菅だよね?」
「はい。学校のはそうなんですけど、なんか私のは違ってて、A菅なんです」
何故か吹奏楽部では『ドイツ音階』が使われている。
B菅のトランペットとクラリネットで、教本に従い『ドレミファソラシド』を練習する。そこまでは良い。
そして『ハ長調のドレミファソラシド』の合奏は『レミファ♯ソラシド♯レ』と演奏するのだ。
流石に『ドレミファソラシド』と書いてある楽譜を見て『レミファ♯ソラシド♯レ』と演奏するのは、ちょっと辛い。
だから『B菅用の楽譜』は、最初から『レミファ♯ソラシド♯レ』と書いてある。これならまぁ、教本通りだ。
しかし香澄は、その『レミファ♯ソラシド♯レ』と書いてある楽譜を見て、『ミ♭ファソラ♭シ♭ドレミ♭』と、演奏しなければならない。そう言っているのだ。
「ありゃ、そんなことあるの?」
真治は驚いて香澄を見る。
「あるんですよー」
香澄は困った顔を真治に向け、肩をすくめる。
「パ、父から貰ったクラリネットなんですけどー」
『パパ』と言いそうになって言い直した。
「へー、とーっても大事なクラーリネット、ですな」
言い直したことに触れはしなかったが、歌で返したことで指摘したも同じであろう。香澄は頷いて、口を開く。
「そーなんですよ。本当に、最初は壊れてると思ってー」
香澄は、急に左腕を振り始めた。
「教本の指番号通りに吹いても出ないしぃ」
余程鬱憤が溜まっていたのか、語尾が強く伸び始める。
「ドレミファソラシドがっ。でぇ、良く見たらぁ、教本のクラリネットとぉ、私のクラリネットがぁ、全然、違うんですよぉっ」
今までで一番長いセリフを吐くと、真治を見て笑った。
「先輩も判らなくてぇ、先生に聞いたらぁ」
おや、まだ話が終わらない。しかし真治は遮らない。
「うんうん。何て?」
笑顔で話の続きを催促する。すると、香澄の顔つきが変わった。
『あぁこれオケ用だな。頑張れば良い音出るからぁ。ハッハー』
目をくりくりさせる。先生の真似だと、直ぐに判った。
「もぉっ。これですよぉ」
肩を竦めて困った顔になる。苦笑いも可愛い笑顔の内だ。
「へぇ、そんなことがあったんだぁ。酷いねぇ」
真治は笑いながら同情する。笑ったのは、香澄の言い方がちょっと似ていると思ったからだ。
香澄も笑っているので、その思いは通じただろう。
この『オケ用』とは『オーケストラ用』のことだ。
笑いながらも、真治は真剣に考え始めた。
そう言われてみると、トランペットにもC菅がある。
もし、そんなトランペットを渡され、今の楽譜を見ながら『直ぐに合奏しろ』と言われたら? 出来るだろうか。
いや無理だ。時間を貰って楽譜のコピーを取り、自分専用に転調して書き換える。いや、だとしても、果たして新しい楽譜が渡される度に、それをするだろうか。
真治は、香澄の困りようを見て『何だか不思議な違和感』を感じ始めていた。
「あれ? でもさー、何かみんなと一緒にふつーに演奏してない? 三曲ともさ。結構ピロピロするよね、クラリネットって」
真治は傘を持つ右手の指を、クラリネットを吹くみたいに動かす。そして首をかしげて香澄を見た。
香澄はトランペットの真治から、そんなことを言われたからなのか、ただ驚くばかりだ。返事がないので、真治が言葉を続ける。
「それじゃー、結構、頑張ったってーこと?」
「はい! 頑張りました!」
今度は、雨に負けない元気な声で、答えがあった。しかも、左手でぐっとガッツポーズをしている。余程嬉しかったのだろう。
確かに香澄は『自分の努力を見てくれていた』と、そんな人がいて、凄く嬉しかったのだ。
クラリネットを頑張って良かった。とも、思っていた。
一方の真治は、そんな香澄を見て『随分とまぁ器用な人だなぁ』と思っていたのだが、直ぐに『そうではない』と気が付いて、思いを打ち消した。
夕練の後、香澄が音楽室の鍵を閉めるまで、いっつも残って練習していたのを思い出したからだ。
そうだよ。今日も最後まで練習していたではないか。『器用』で片付けるなんて。それは失礼だ。
つまり香澄は、凄い努力家だったのだ。




