長い日曜日(六)
真治の提案に対し、香澄の返事はとても早く、そして、とても元気良く答えた。
香澄が真治を見つめているのは『一緒に食べて行くのかしら』『私のお部屋でかしら』『確か今日は、三時以降生徒さんいないから!』と、色々と考えているからだ。
しかし、一方の真治は、別のことを考えていた。
きっと三十分位はピアノの練習を後ろ倒しにできるだろう。
それに、初めて訪問したお宅に『手土産の一つ』も持って行かないとは。やべぇ。これは『常識がない奴だ』と思われる。
と、うだうだの後悔しきりである。
そこはとりあえず『まさか玄関まで入るとは思っていなかった』というのを言訳にして、グチグチ考えるのを一旦横に置く。
それより真治は『リビングの大きなピアノ』のことや、『防音効果』について、もっと聞いてみたかった。
しかし当の香澄が『笑顔を使い分けてまで』、ピアノのことを忘れたそうにしているのだ。ピアノの話はここまでにする。
「日記帳はどんなのにするの?」
話題を変えて、並木道の歩道を歩きながら真治は聞いてみた。
「かわいいのが良いです」
憧れがあるのか、香澄が答えた。真治は首をかしげて聞く。
「今風? それともクラッシック?」
「クラッシックって何ですか?」
日記帳の分類学を極めている訳ではないのだが、何て説明しようかと考えた。
「えーっと、中世ヨーロッパの暖炉の上に置いてある感じで、分厚い表紙に金の淵がくるくる付いてて、カギが付いている感じの?」
「そういうのも良いですね」
香澄には通じたようだ。それどころか前を見て、もう『書いている所』を、夢見ているようだ。
「あるかどうかも、判らないけどねっ」
真治は笑って香澄を見た。しかし香澄は、まだ夢から帰って来ていない。香澄はとても楽しそうに口を開く。
「でも、そう言うのを買ったら『羽根つきのペン』とか、『インク』とか。そうだっ! インクを吸い取る『ごろんごろんする奴』とか、買わないとだめかも?」
香澄が閉じた右手を一本づつ伸ばして一、二、三まで数えた後、手で半円を作ると、丸い方を下にして揺りかごのように動かす。
「そんなにお金、持ってきてないや」
冗談だとは判っている。左右を見て細道を渡った。
「『ごろんごろんする奴』って、売ってるんですかね?」
香澄が聞いて来た。真治は頷く。
「お店の人に聞いて見るぅ?」
悪戯っぽい言い方。思わず香澄が聞き返す。
「えっ『ごろんごろんする奴』って、言うんですか?」
「そう。どっちが言う?」
にやっと真治が笑う。慌てた香澄が真治の腕を下に引っ張ると、日傘が揺れる。
「えー、言って下さい!」
「嫌だよ。言ったら、買わないといけなさそうじゃん」
「買って下さい。私、あれ使ってみたいです」
香澄が笑顔で答えた。真治は『本当?』という顔をする。困った。
「じゃぁ、誕生日とかの記念日にあげるよ」「えっ、要らないです」
間を置いての提案に、香澄は急に主義を変えた。笑顔も消える。
香澄は今まで貰った誕生日プレゼントの中で、一番謎な物体だと思ったからだ。それに、真治から貰えるなら、もっと素敵な物だ!
「絶対、要らないです」
念押しで香澄は言った。腕を左右に揺すって日傘を揺らす。
真治は笑っているだけで『了解』の返事がない。そんな真治の目を見て、香澄は微笑む。
その『ごろんごろんする奴』には悪いが、二人ともそれを買う気はないことだけは、確信していた。
すると駅前広場に来た。そこはロータリーはなく、タクシー乗り場の白線が引かれているだけである。
二人は忙しく出入りするタクシーを避け、牛丼屋の前を通って切符売り場に到達した。
正面に、スーパーマーケットの『アイランドA』が見える。
真治は右手に持っていた日傘に左手を添えて、そっと畳んだ。
香澄はずっと掴んでいた真治の右手を離し、右手で日傘を受け取ると、パチンと細く縛ってカバンの紐に引っかけた。
駅まで、あっという間だった。走った時よりも速く感じる。




