雨の帰り道(三)
香澄は向かい風に抗ってもう一度、一歩を踏み出す。
息を止め下を向き、真治の隣に駆け寄ると、傘の下で立ち止まった。雨はまだ降っている。
「じゃあー、帰りましょー」
アウフタクトのメロディで始まった呑気な歌は、直ぐに大きすぎる雨音のドラムロールで掻き消された。
それでも真治二拍子、香澄三拍子の歩みで揃っている。
真治はトランペットを吹くように前を向いていたが、その右で香澄は、クラリネットを吹くように下を向いていた。
真治の右手に持つ傘の柄が指揮棒に見えた香澄は、八小節目で見上げたのだが、真治と目が合うと我に返り、息を止め、直ぐに下を向いた。もし、誰かに見られたら恥ずかしいではないか。
いや、既に恥ずかしい。それだけだ。
県道からガソリンスタンドのある信号で右に曲がる。
畑の中を緩やかにカーブを二つ三つ曲がると、左側に通称『パン屋』という名の雑貨店があって、そこに中学校前のバス停がある。
校門から見て駅とは逆のやや左だ。
真治と香澄が校門まで辿り着いた時、加速して行くバスが左から右に通り過ぎて行った。
歩道の終端から流れ落ちる雨水は横断歩道を川に変え、バスが起こした波しぶきが水藻に映した街灯を白一色に変える。そして、ゆらゆら揺れながら薄暗い雲の色に還り、街灯がオリオン座のように並ぶ景色に戻った。
「バスに乗っても良かったね」
「そうですね」
真治の問いに気が付いて香澄は答えた。
駅まで一直線に続く並木道を遠ざかって行くテールランプ。名残惜し気に二人は揃って見つめている。
真治は笑いながら香澄を見る。
「でも、バスの時刻なんて覚えてないよね」
「そうですね」
視野の上限に真治が見え、少し上を見て香澄は答えた。目は合わせられない。
しかし、確かにそうだ。一時間に一本で、次が終点のバスに乗る生徒はいない。駅までは歩いても七分か。近い。
毎朝、駅からぞろぞろと歩いてくる生徒達の姿が、この町の風物詩となっている。
「この辺で渡ろうか」
「そうですね」
真治が右左右と素早く確認した。香澄は一拍遅れたので、真治の陰から左側だけ確認する。
川となっている信号のない横断歩道を少しだけ避けて、足早に駅前通りを渡った。
並木道の広い歩道に辿り着いた二人は、ふうと揃って息をして少し安心する。そしてゆっくりと歩き出す。
「さっきから『そうですね』しか言ってないね」
真治が香澄の目を見て言った。
笑っている真治を見ていた香澄は、何か面白いことがあったのか、理解できていない。真治と顔を合わせたまま、きょとんとしている。
その顔のまま右後ろになった校門を振り返り、今歩いて来た所を見て、もう一度真治の顔を見た。気が付く。
「え? あ、そうですね」
「あはは、また言った」
真治の笑顔を見て、香澄もつられて笑った。雨は降り続いている。
「そーんなに緊張しなくても、良いのにー」
真治が右手首を使って、左右にぐりぐりと傘を振りながら言う。
「すいません」
香澄は確かに緊張していた。緊張し過ぎていた。
だから何だか可笑しくなって苦笑いし、左手で額にかかった前髪を後ろに流す。どうして髪を触ると緊張が解けるのかは良く判らない。多分無意識だろう。
真治は毎朝音楽室の入り口にいて、出席を付ける係だった。
後輩には、のんびりとした口調で『おはよー』と声をかけている。本人にしてみれば、優しい先輩のつもりだ。
しかし二人は、お互いに『おはよう』以外の言葉を交わしたことがなかったのだ。今までは。
「あ、あのっ、まっ」
「クラリネット、どう? あっ、楽しい?」
「えっ、あ、そうですね」
何だか話が噛み合わず、互いに目を合わせて笑う。
真治が笑顔で発言権を香澄に譲った。香澄は迷ったが、真治への回答を優先することにする。
「普通のドレミファソラシドは良いんですけど、合奏になるとぐしゃぐしゃになります」
少し困った顔をして香澄は答えた。真治は思わず首をかしげる。




