親友と(九)
「もう一つね」
母の声に、香澄は頷いて卵をそっと手にした。そしてボールの淵でコツコツと叩く。ちょっと弱い。勢いを付ける。
「男の子と食べるの?」
『ぐしゃっ』と、めり込んだ卵が返事だとしたら、みるみる内に垂れて来る白身は何を表すのか。
香澄はそのまま、しばし呆然としていた。
「おかぁあさーん」
それは、香澄が母親を咎める、特徴のある言い方だ。
そう。私は悪くない。まるで『変なことを言うからこうなった』と、言わんばかりだ。
母は香澄と『喧嘩した』つもりはなかったのだが、それでもさっき『傘の件』で仲直りをした。
どういう風の吹き回しかと思ったのだが、嬉しかった。
それがこのままでは、またぷんぷん怒り始めそうだ。
「あら、ごめんなさい」
母は笑いながら、素直に謝った。香澄はもう前を向いている。
「ちぃがぁぁうかぁらあぁっ!」
突然そう言ったかと思うと、香澄は下唇を噛み、押し黙る。どうやら『ちゃんと否定』したかったらしい。
そんな香澄の様子を見て、母は安心した。
髪を縛り三角巾を被るから見えている香澄の耳が、それはもう真っ赤になっているのが、見えたからだ。
真衣ちゃん以外のお友達について、話を聞いたことがなかった。
それに、一緒に入った吹奏楽部は『随分な大勢さん』らしいが、初めて吹くクラリネットで、馴染めているのかも心配だった。
良かった。やっと『お友達』が出来たのだろう。
「もう、殻、入っちゃったじゃーん」
文句は言うが、照れ顔の香澄に『怒った様子』はない。また下唇を噛んだ。やれやれだ。別に『お友達』としか、聞いていないのに。
「カルシウムよ」
その言葉に納得したのか、それとも殻を全部取り終わったからか、香澄は菜箸を『ガッチリ握って』かき混ぜ始める。
確かに香澄は、箸が苦手である。それでも、そのおかしな箸使いを見て、思わず母からの助言。
「その、泡立て器を使いなさい」「はーい」
自分でも『使い辛い』と思っていたのだろう。
躊躇なくカランと菜箸を流しに放り出すと、目の前にぶら下がっている泡立て器を取り出し、そのまま使おうとする。
「洗って!」
とっさに母が言ったので、香澄は水道でシャシャっと泡立て器を洗い、小さく二回振って水を切る。準備完了だ。
『シャーカ、シャーカ』
割と、いや随分ゆっくり目に、卵をかき混ぜ始めたではないか。
母は頭痛がして、手を出したくなった。
しかし、何を夢見ているのだろう。それはもう、楽しそうに卵をかき混ぜる香澄を見て、手伝うのを思い留まる。
自分も、昔からピアノばかり弾いていた人生だったので、料理は結婚してから覚えた。
それで別に、後悔なんてしたことはないのだが。一度だって。
まだ『卵をかき混ぜているだけ』なのに。しかも、それさえ良く混ざってはいない。
良い? 卵はね、卵白をカットするように、もっと速く。
いや、好きにやらせよう。香澄にも『自分のリズム』がある。
頭と腰を左右に振り、鼻歌と共に卵をかき混ぜ続ける香澄を見てしまったら、そう思えてならないではないか。
随分楽しいんだね。その気持ちも、判る。判るよ。
すると、香澄が瞳を輝かせながら、母の方を向く。
「こんな感じ?」
その直後、今度は目が糸の様に細くなる。
『香澄が笑った』母はその笑顔を、三年振りに見た。
嬉しくて、卵の方は見ていない。
それから母は、毎日ピアノの練習時間を削っては、卵焼きを香澄に教えた。




