雨の帰り道(二)
「あぁあぁあ」
慌ててのけ反った真治を見て、香澄は笑う。香澄が笑っている所を見た者は数少ない。しかしそのときは、傘を何とか持ち直すのに必死で、真治は香澄の笑顔を拝むことが出来なかった。
左手にカバンを持ったまま傘の柄を持つと、右手で傘を少し閉じて校舎の外に出て行く。
外は雨が強くて風も強い。だから、少し肌寒い。
「あ、あの、えっと、前に」『ボンッ』
何かを訴えるように言う香澄の声は、また小さかった。それもまた理由がある、のだが。
しかし、そんなこととは関係なしに、真治が広げた傘の音で、簡単に掻き消される。真治の耳には入っていないようだ。
振り返らない真治を見て、仕方なく会釈をするしかない。
「お疲れ様でした」『バチバチバチバチバチ』
今度は傘に当たる雨音で掻き消されたのか、真治は傘を少し上に上げると空を見上げる。まだしばらくは降り続くだろう。
置いて行かれた香澄もつられて、ガラス越しに空を覗き込んだ。そして、溜息がこぼれる。いつも通り届かない。
不意に、真治が振り返る。右手に持った傘も回転して、また香澄の方に戻って来た。
「もしかして、彼氏さん待ち?」
冗談っぽい言い方で、声もでかい。
驚いた香澄は、息の吸い方で混乱しつつ、右手を左右に振り千切った。顔が少し赤くなったかもしれない。
それなのに、そんな香澄を良く見ていたはずなのに、真治はただ頷いた。しかも、口を尖がらせて『なーんだ』という顔をしている。
「もう暗くなるからさぁ」
チラっと外を見て、香澄から目を逸らす。ちょっと見ていられなかったのは事実だ。
言い掛けた真治は、そのまま傘を上下に軽く揺すっている。
「入って行くか、傘ぱくって行くか、どっちかにしなよ」
言われた瞬間、香澄は真治を見ていた。いや、見えていた。それに、真治の視線とは合わない。合わせられない。
何故なら、そんな選択肢を急に提示されて、香澄は考えていたからだ。どうしよう。どうすべきか。
返事が遅いからだろう。それでも考えている様子を、真治は笑顔で見守っている。
見られた香澄は悩み続ける。混乱もしていた。困ってもいた。そして、迷ってもいた。
『どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう』
『どっちにすんの?』
気持ちを声にしたらそうだろう。しかし、まるで声にならない二人の会話だ。そんな香澄を眺めながら、真治は首をかしげる。
『来いよっ』
首の傾き具合と頭が指し示す方向が、それに、ゆっくりとまばたきした目も、そう語っている。いやいや、香澄の勘違いかも。
でも、仮にそうだったとしても、香澄が笑顔なのは間違いない。