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雨の帰り道(十四)

 香澄に残された確認方法は、頭の中で『目に焼き付いた真治の行為』について、時間を巻き戻し『スロー再生』させることしかない。

 しかし香澄には、それが可能だった。何度でも、何度でも。


 真治が、手の平で、口を押えた後、香澄に向かって、素早く腕を、伸ばす! 伸ばす! 伸ばす!


 香澄は何かが、強烈な何かが、心臓を一撃で突き抜けて行ったのを感じる。その勢いで、長い髪が今頃『水平』になっていることだろう。それも感じる。

 そして、全身の血が一瞬にして沸き立ち、頭上の煙突と、両耳から熱い蒸気となって吹き出している。実感があるし、間違いない。


 もうこれを『即死』と言わずして、何と言おう。


 香澄は、そのまま力が抜け、ゆらゆらと倒れ込む。

 しかし、右手が辛うじて手すりに引っかかると、それを回転軸として、椅子の一番端に崩れ落ちた。


 電車は加速する。闇の中を左から右に流れ行く『里わの火影』が、まるで流れ星のように見える。ふわふわ宇宙旅行だ。


 真治との『これまでのこと』が、走馬灯のように頭の中で回り始める。そこで今までに、何度も見つめ合ったことが思い出される。

 だから、自分を落ち着かせようと深呼吸をしても、肺の奥まで息が入らず、浅い呼吸しかできないではないか。

 今度は、窒息死を覚悟する。


 遠くになっていた目のピントが、少し落ち着いて近くになったとき、見覚えのある顔が目に入った。

 その顔は目を見開き、大きく口を開けた自分の姿だった。そんな顔が、向かいの窓ガラスに映っているのに気が付く。


 ハッとして、直ぐに口を右手で押さえる。

 恥ずかしくて死んじゃう!


 こんなことは初めてだ。目が見たこともない『恥ずかしい形』になっているではないか。だめだ。もう、だめだ。

 片手では無理。そう悟ると、踵をあげて両膝を持ち上げる。

 カバンと傘を肘で抑えながら、両手で顔を覆う。

 触った顔が、物凄く熱い。


 泣きそうだ。それでも嬉しい。

 走馬灯は回り続ける。段々速度を上げたそれは、最早模様が判らない。何度も繰り返されている。そして、いつまでも止まらない。


 自分の頭をポカポカと叩いたが、それでも止まらない。もう、どうにもならない。

 香澄は決心すると、息を大きく吸い込む。次に、その息が少しも漏れないよう、手を強く口に押し当てた。


 そして、声を殺しつつも、思いっきり奇声をあげた。



 電車の中には数人の客がいた。一斉に声がした方へ振り返る。

 そこには、明らかに震えながら、それでも感情を押し殺そうと、懸命に努力する少女の姿があった。

 そんな少女の姿を、ちらっと見ただけで『これが本当の黄色い声かぁ』と納得する。

 少女に気が付かれないように皆微笑むと、そっと進行方向に顔を向け『知らんぷり』を決め込んだ。


 三分後。平静を装って立ち上がった少女は、濡れている黒い傘を、それはもう大事そうに抱えて電車を降りて行った。

 しかし、進行方向とは逆を向いたままホームの端に立ち竦んでいて、動こうとはしない。

 乗客達は心配し、横目でその様子を見守っていたが、電車は定刻通りに出発し、少女の姿は見えなくなった。


 少女だけが取り残されたホームの端。屋根の下で、突然傘が開いた。右手に持った傘を高く掲げ、笑顔でそれを眺めながらくるくると回っている。


 長い髪が曲線を描き、左手に持ったカバンは不規則に踊り出す。


 その内に、左足でぴょんと跳ねたかと思ったら、勢い良く右足の膝を高く上げてスキップを始める。


 今度は上半身を左右に揺らしながら進み、パクパクと動く口は、何かを歌っているのだろうか。


 そんな少女の姿を、笑顔の車掌だけが見守っていた。

引用

高野辰之『朧月夜』

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