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雨の帰り道(十)

「気を付けないと」

 笑いながら真治が言う。香澄には、電車が通り過ぎあとの『語尾だけ』が聞き取れた。チラリと真治を見上げる。

 真治の表情と言い方からして、香澄の腰に手を回して引き寄せたのは、どうやら『香澄が転びそうになったから』のようだ。


 香澄は、調子に乗って叫んだことを記憶から消し、男に守って貰った、ひ弱な女子のままでいることにした。


 地下道は、所々小さな水たまりがある。それは、天井から雨が漏れて、したたり落ちているからだ。

 武骨な蛍光灯が左右交互に点灯していたが、その一つが寿命なのか、パチパチと規則正しく点滅している。


 誰も来ない静かな地下道を、雨漏りを避け蛇行し、水たまりをぴょんと飛んだりして歩いた。

 二人はこの時、言葉を交わしていなかったが、一緒に上を見上げたり、下を見たりする度、驚いてみたり、笑ったりしながら歩いた。


 楽しそうに歩く香澄を見つめていた真治は、上目遣いの香澄と目が合った。

 真治は、目を逸らさなかった。いや、逸らせなかったのかもしれない。潤んだ瞳に、街灯の光が揺れていた。

 そして、背後からチカチカ光る蛍光灯の点滅が逆光となって、ゆっくりと移り変わる香澄の表情を、まるでコマ送りのように映し出している。


 二人は反対側の階段まで来ていたのに、まるで登るのを躊躇しているように、見えただろう。


 そこで真治が、何かを言おうとしている。


 その何かに期待したのだろうか。香澄が口を閉じたまま口角を上げると、真治を見つめたまま、ゆっくりと小首をかしげる。

 しかし、真治からの言葉はない。

 香澄はそのまま、目を丸くしながらも笑顔になると、掴んだままの二の腕を支えにして、前へと回り込んで行く。


 もうこれ以上回り込めない所で、真治の目を見ながら今度は逆側に小首をかしげる。

 すると香澄の背中にあった髪が揺れ、右肩から最初は少しづつ、そして纏めて落ちると、真治の前でゆっくりと揺れる。


 真治は何度も目をパチクリするだけで、香澄の笑顔を見ることが出来ない。前を見るだけだ。

 それに、今更ながら『香澄の温もり』を、右半身に感じていた。


 結局、真治からの『何か』は、何もなかった。それとも、言葉は不要だったのだろうか。

 二人は無言のまま、地下道の階段だけを使っている。今度はぴったりと寄り添って、ゆっくりと登って行く。


 外が近付くにつれ大きくなるのは、雨音だけだろうか。

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