雨の帰り道(一)
雨が止むのを待っていた。
梅雨だと言うのに、傘がないからこうなるのだ。部活が終わって静まり返った校舎。その外で、雨音が憂鬱な旋律を奏でている。
目の前に傘はある。沢山ある。誰のとも知れぬ傘である。
今日借りて、来週返すことで誰が咎めよう。何しろどう見ても、今学校に残っている生徒以上の傘が、そこにある。
雑然とした傘立ての中に、透明の傘、自分だけが判るはずの小さな丸印をつけたそれが、あるはずだった。
待ちくたびれて、香澄は小さく息をして外を見た。
風に吹かれて鳴る電線のソプラノに、壊れた雨樋から紬出される滝の音がテナーとして加わり、春の終わりを告げるメロディーとなって奏で続けている。
夏も近いだろう。しかし、それは今ではない。
外はこれ以上明るくなる気配はなく、雲の上にある夕日はこのまま西の彼方へと転がって行き、やがて夜がやって来る。
帰ろう。濡れても仕方がない。
一歩踏み出そうとした時、後ろで『ダン』とスノコを踏む音がした。香澄は驚いて振り向いた。
「小石川さん、傘ないの?」
気の毒そうに話しかけたのは真治だ。ずぼらなのか、それとも体が硬いのか。手も使わず上履きを脱いでいる。
「あ、はい」
香澄は小さい声で真治に返事をした。小野寺先輩が、来た、とは思っただけで口にはしていない。
「おやおや」
そう言いながら真治は、右手に持っていたカバンを左手に持ち替える。脱いだ上履きを右手でひょいと掴むと、下駄箱の最上段に軽々と入れた。
返す手で黒い革靴を取り出し、放り投げる。
『ダン!』
音がして転がったそれを、またも手を使わず、今度は履く。
右足のつま先を床面で叩きながら、雑然とした傘立てより、頭一つ飛び出た黒い傘を、右手で勢い良く引っ張り出した。
思ったより長いその傘は、右手を離れると天井を目指す。しかし、強く握り絞められて急停止する。
親指で傘を纏めているボタンがピンと外されると、器用にくるっと回して上下が逆になった。
まだ屋根があるのに、その場でボンと傘を広げ、香澄に聞く。
「入ってく?」
香澄が、傘を羨ましそうに見ていたかは判らない。
それでも、真治が下駄箱の前で広げた傘を、香澄の方に差し出したのは事実だ。
しかし、突然の提案に驚いたのか、それとは違うのか。
香澄の返事は早い。
「い、良いです」
両手でカバンを持ったまま、小さく膝を曲げながら答え、うつむいた。また小さい声だった。
小さい声にはそれなりの理由がある。
真治は同じ部活の先輩でトランペット。対して香澄はクラリネット。接点は殆どない。
百人以上在籍する大所帯の吹奏楽部の中で、二人は殆どその他大勢の一人と一人だった。
「そっ」
だから無理強いするでもなく、あっさり流したのも理解できる。傘の柄を手の平に乗せ、バランスを取りながら香澄の前まで来る。
「じゃぁ、借りて行けば良いのに」
真治は、香澄を見てから傘立てを見た。まだバランスを取っている。黒い傘が一本減っただけで『沢山』は相変わらずだ。
そんなの、とんでもないことだ。図書室の本じゃあるまいし。
香澄は口を横にぎゅっとすると、両手で持っていたカバンから右手を離し、自分の胸の前で左右にバタバタする。
セーラー服のリボンが右手に当たって揺れ、体の前にあったカバンが右手の支えを失って左側に流れて行く。
そして下駄箱の側面に当たって『ダン』と音がした。
夕方の静かな校舎にあって、十分大きな音だった。香澄はその音に驚いて目を丸くすると、つま先立ちになる。
そして、音のした方に振り返った。長い髪が縦に揺れ、直ぐに左回りに波打つ。
「真面目だねー。じゃぁお先にー」
その様子を見た真治は、笑いながら振り返って外に出ようとしたが、半分閉じた校舎の扉に傘が引っかかってしまい、傘が真治の方に倒れて来る。『親切』の次に来たのは、傘だった。