表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/272

雨の帰り道(一)

 雨が止むのを待っていた。

 梅雨だと言うのに、傘がないからこうなるのだ。部活が終わって静まり返った校舎。その外で、雨音が憂鬱な旋律を奏でている。


 目の前に傘はある。沢山ある。誰のとも知れぬ傘である。

 今日借りて、来週返すことで誰が咎めよう。何しろどう見ても、今学校に残っている生徒以上の傘が、そこにある。

 雑然とした傘立ての中に、透明の傘、自分だけが判るはずの小さな丸印をつけたそれが、あるはずだった。


 待ちくたびれて、香澄は小さく息をして外を見た。

 風に吹かれて鳴る電線のソプラノに、壊れた雨樋から紬出される滝の音がテナーとして加わり、春の終わりを告げるメロディーとなって奏で続けている。

 夏も近いだろう。しかし、それは今ではない。

 外はこれ以上明るくなる気配はなく、雲の上にある夕日はこのまま西の彼方へと転がって行き、やがて夜がやって来る。


 帰ろう。濡れても仕方がない。

 一歩踏み出そうとした時、後ろで『ダン』とスノコを踏む音がした。香澄は驚いて振り向いた。


「小石川さん、傘ないの?」

 気の毒そうに話しかけたのは真治だ。ずぼらなのか、それとも体が硬いのか。手も使わず上履きを脱いでいる。

「あ、はい」

 香澄は小さい声で真治に返事をした。小野寺先輩が、来た、とは思っただけで口にはしていない。


「おやおや」

 そう言いながら真治は、右手に持っていたカバンを左手に持ち替える。脱いだ上履きを右手でひょいと掴むと、下駄箱の最上段に軽々と入れた。

 返す手で黒い革靴を取り出し、放り投げる。

『ダン!』

 音がして転がったそれを、またも手を使わず、今度は履く。


 右足のつま先を床面で叩きながら、雑然とした傘立てより、頭一つ飛び出た黒い傘を、右手で勢い良く引っ張り出した。

 思ったより長いその傘は、右手を離れると天井を目指す。しかし、強く握り絞められて急停止する。

 親指で傘を纏めているボタンがピンと外されると、器用にくるっと回して上下が逆になった。

 まだ屋根があるのに、その場でボンと傘を広げ、香澄に聞く。


「入ってく?」

 香澄が、傘を羨ましそうに見ていたかは判らない。

 それでも、真治が下駄箱の前で広げた傘を、香澄の方に差し出したのは事実だ。

 しかし、突然の提案に驚いたのか、それとは違うのか。

 香澄の返事は早い。


「い、良いです」

 両手でカバンを持ったまま、小さく膝を曲げながら答え、うつむいた。また小さい声だった。


 小さい声にはそれなりの理由がある。

 真治は同じ部活の先輩でトランペット。対して香澄はクラリネット。接点は殆どない。

 百人以上在籍する大所帯の吹奏楽部の中で、二人は殆どその他大勢の一人と一人だった。


「そっ」

 だから無理強いするでもなく、あっさり流したのも理解できる。傘の柄を手の平に乗せ、バランスを取りながら香澄の前まで来る。


「じゃぁ、借りて行けば良いのに」

 真治は、香澄を見てから傘立てを見た。まだバランスを取っている。黒い傘が一本減っただけで『沢山』は相変わらずだ。


 そんなの、とんでもないことだ。図書室の本じゃあるまいし。

 香澄は口を横にぎゅっとすると、両手で持っていたカバンから右手を離し、自分の胸の前で左右にバタバタする。

 セーラー服のリボンが右手に当たって揺れ、体の前にあったカバンが右手の支えを失って左側に流れて行く。

 そして下駄箱の側面に当たって『ダン』と音がした。


 夕方の静かな校舎にあって、十分大きな音だった。香澄はその音に驚いて目を丸くすると、つま先立ちになる。

 そして、音のした方に振り返った。長い髪が縦に揺れ、直ぐに左回りに波打つ。


「真面目だねー。じゃぁお先にー」

 その様子を見た真治は、笑いながら振り返って外に出ようとしたが、半分閉じた校舎の扉に傘が引っかかってしまい、傘が真治の方に倒れて来る。『親切』の次に来たのは、傘だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ