004 田村 四季
秋濱と夏堀を見送ってから数時間後、片付けを終えた抽冬は日の出を眺めながら、ゆっくりとビルの横手にある非常階段を上がっていく。
しかしそれでも、抽冬の内に眠る暗い情欲は一向に収まる気配がない。
(あの二人、無駄に盛りやがって……)
荒くなる内心は誰にも悟られることなく、(逆強姦喰らっただけの秋濱にも八つ当たり気味に、)抽冬はゆっくりと玄関の扉を開け、中へと入って行く。
「……あら、あなたお帰りなさい」
いつもの帰宅時間の頃合いだからか、桧山はマグカップに入ったコーヒーを片手に、リビングから姿を見せてきた。玄関からリビングまでの廊下は、左右にトイレや洗面所があるものの、特に何かを飾っているわけではないので、遮蔽物が一切ない。
「…………」
……だから抽冬は、靴を脱いで部屋に上がるや否や、桧山に無言で詰め寄っていく。
「え、あなた……どうかしたの?」
傍から見ればすっとぼけているようにも見える姿勢で、桧山は抽冬と向かい合っている。ただし、さっきまで手にしていたマグカップは、すでに手近な台の上に放置されていたが。
「…………来い」
「あ、ちょ、ちょっ?」
桧山のその台詞にも、どこか演技染みた印象を見受けられる。しかし抽冬はそんな彼女に構わず、その手首を掴んで自室へと連れ込む。
「きゃ……っ、ん…………」
ベッドの上へと投げられた桧山に間髪入れず、抽冬は圧し掛かって唇を奪った。
直前まで彼女が飲んでいたコーヒー味のキスを堪能してから、抽冬は桧山の身体に手を這わせていく。
「ただでさえ今日は、お前のせいで盛ってたってのに……客の方まで勝手に盛りやがってっ」
「うん、うん…………っ!」
抽冬の愚痴を、桧山はちゃんと聞いていく。しかし男の手は非情にも、すでに盛り切っている女体を強く握りしめた。
「しかも毎回毎回、性交の後始末をさせられる身にもなれ、ってんだ……っ!」
「っ!? ぅ、うん……分かった、分かったから…………」
それでも桧山は、抽冬からの暴力的な愛撫にも耐えている。
強引に脱がされて、所々破けていく寝間着も。殴られるまでは行かずとも、力尽くで新たに作られていく痣も。まだ避妊具を着けてくれるとはいえ、愛撫がほとんどないまま行われる交接も。
それら全てを、桧山は受け入れていた。
(本当……私も懲りないわね)
これまでも、抽冬が桧山に対して八つ当たりをすることもあったし、それで犯されることも珍しくはなくなってきている。
それでも……桧山は抽冬に対して挑発行為を止めず、また立ち去ろうともしない。
ただ、抽冬が与えてくれる感情全てを受け取りたいからという、桧山以外は(当の相手にすら)侮蔑の眼差しを向けられそうな理由で、自らを差し出していた。
他ならぬ…………自らの意思で。
――ピンポ~ン……ドン、ドン、ドン!
『おじさ~ん、いる~?』
「ん、っ…………」
何度も鳴るインターホンと、叩かれる扉の音。
抽冬は、自分がベッドの上で力尽き、未だに横で寝ている桧山共々意識を失っていることに、ようやく気付いた。
「ちょっと待ってろ! すぐ開ける……」
そう叫び、抽冬はベッドの上から起き上がった。
最低限に身体を拭き、脱ぎ捨てた服を改めて着直した抽冬は、そこでようやく玄関の方へと向かう。
鍵を開け、扉を開けると目の前に、抽冬とは旧知の女性が立っていた。
成人して数年も経っていない身体に、ピアスの目立つ風貌をした女性、田村四季が手に持っていたビニール袋片手に挨拶してくる。
「ああ、いたいた。お疲れ~す」
「本当暇だな、田村……」
「まあいいじゃん。お邪魔~す」
呆れる抽冬を押し退けて、田村は部屋に上がっていく。
その間、田村の鼻が少し動き、思わず抽冬の方を一瞥してくる。
「何か臭いよ……もしかして、さっきまでお盛んだった?」
「いや……お盛んな後に寝落ちしてた」
「それはシャワー案件。さっさと入ってきなよ」
そう言い終えた田村はふと、手に持っていたビニール袋のことを思い出して、抽冬に差し出してきた。
「それとも先に……一服する?」
ビニール袋の中には、抽冬の嗜好品であるフレーバー系の外国産煙草が、大量に詰められていた。
抽冬が煙草を吸い始めた理由は、大したものではなかった。
単にバーテンとして生きると決めた際、『いまさら長生きしてもな……』と嗜好品を買い漁る内に、ふと本の世界の住人が煙草を吸っている姿に憧れて、試してみただけだ。
最初こそ適当な銘柄だったので口に合わず、一、二本吸ってから残りを捨ててしまっていたものの……本の世界の住人達が吸っている銘柄を探して色々と試している内に、フレーバー系の外国産煙草を気に入るようになった。
時折禁煙を挟みつつ、バーテンとしての生活に合わせていく内に、抽冬は煙草との向き合い方を確立させていった。
その内の一つが……火の点け方だった。
――キン、シュボッ! ……カンッ!
「……まだ使ってるの? それ」
「今も長生きしてる~」
「安物なんだけどな……案外しぶとい」
ベランダに出た二人は、それぞれ煙草に火を点け、煙を燻らせていた。
広げたキャンピングチェアに腰掛けて、マッチを擦る抽冬とは違い、田村はベランダの手すりにもたれかかりながら、薬指を伸ばして蓋を開け、降ろした勢いで着火させる、マリード・マンと呼ばれるトリックプレイで火を灯している。
今田村が使っているオイルライターも、以前抽冬が試していた着火手段の一つだった。
煙草を買った際のおまけで付いてきたターボライターや百均の使い捨ても試していたものの、結局はフレーバー系を吸うことが多くなったので燃焼温度が低く、オイル等の匂いも付きにくいマッチに落ち着いたのだ。
だから要らなくなったオイルライターを放置していたのだが……田村が二十歳になった時、何故か欲しがってきたので渡したのだ。
「何がいいのやら……」
その時の田村の心中を、抽冬が推し量ることは今でも難しかったが。
……元々、田村はピアスの目立つ人間とは真逆の生き方をしていた。
元は地味な少女だったが、未成年の内に家出し、夜の街へと繰り出してきたのだ。
行く当てもなく彷徨っている内に、桧山の時と同様にビルの近くで呆然と立ち尽くしている中……抽冬に拾われたのだ。
『さすがに未成年はまずいかな……』
法律か倫理か矜持か、それとも単なる好みか。抽冬は田村に手を出すことはなかった。
その代わりに当時、抽冬が試そうとしていた肥料の調達を手伝うことになり、通常よりも破格なバイト代を田村に手渡してくれていた。雇用契約も労働基準法もめちゃくちゃだったが、労働の対価は田村にきちんと支払われていた。だから仕事内容以外の文句は一切なく、真面目に働いた。
そのバイト代を貯めて生活資金にし、田村は一人で生きていくことを決意したのだ。
最初の内は桧山同様、抽冬の家に転がり込んではいたものの……金が貯まった途端に偽の身分証と新しい引越し先を持って二度目の家出を敢行し、現在は免税ショップの社員として働きながら、一人暮らしをしている。
一度目との違いは、未だに抽冬の元を訪れ、頻繁に交流を持っていることだろう。
それもあってか、抽冬は田村が遊びに来ることを黙認するだけでなく、仕事の為に買いに行けない煙草(コンビニ等では取り扱っていない)の調達を頼むようになった。
それでも、何かあれば絶対に近付くなとはいつも言われているものの、田村が抽冬を訪ねる回数が減ることはない。
ただ……田村が抽冬に対して抱く想いは、桧山とは根本的に異なっているが。
「あいつ……俺が『結構モテてる』とか言ってたんだけど、どう思う?」
「ふ~ん、まぁ……モテる、って言っても大なり小なりじゃない?」
灰皿に灰を落としながら、田村は抽冬に向けて、煙草を持った手を突き出してくる。
「あたしもおじさん好きだけどさぁ……別に『結婚したい』とかは思わないかな~」
「さらっと言うな、お前……」
「そりゃおじさんのこと、特に異性として見てないしね~」
歳は離れているものの、付き合いの長さからか、二人の会話には『遠慮』が交じる様子はなかった。
「だって……あたしにとっておじさんって、完全に『偶像』か『動物』枠だもん。人間だから嫉妬することはあっても、『それがどうした?』って気持ちもなくはないしね~」
「そんなものかね……」
田村の言いたいことも、抽冬は何となくではあるものの、理解はできる。
要するに、相手を気に入るかどうかであり、また相手が自分を見ているかどうかなのだ。
気に入った相手が自分に構ってくれるのであればいいが、そうでなければ苛立ってしまう。そしてその全てが、『結婚したい』という度合いにまで届くとは限らない。
田村が言いたいのはそういうことだろうと、抽冬は吸い終わった煙草を灰皿に押し付けながら、そう考えていた。
「じゃあシャワー浴びてくる。田村はどうする?」
「あたしはもうちょっと吸ってる。後は勝手にしてるから、ごゆっくり~」
目を閉じて、ひらひらと空いた手を振ってくる田村に背を向け、抽冬はベランダを後にした。
たとえ桧山でも、抽冬の全てを受け入れているわけではない。
『さすがに殴られたりとかしたら、そこで見切りをつけるわよ……私だってもう、同じ轍を踏む気はないし』
桧山が抽冬の傍にいるのはあくまで個人の意思だと、転がり込んできた当初に聞いている。
とはいえ……昼夜逆転した上に、犯罪者に雇われている生活。結婚どころか、普通の友人付き合いすら考えなければならない。
実際、再会したばかりの夏堀どころか、常連の秋濱ですら、抽冬には疑いの対象でしかない。
いや……完全には信じられないのだ。
人は、切っ掛け一つで簡単に裏切る。法治国家で罪を犯し、社会の裏側へと転がり込む人間は皆そうだ。例外があるとすれば、転がり込んだ人間に巻き込まれた時位だろう。
たとえば身近な人間がすでに裏社会の住人だったとか。
たとえば……運悪く、裏社会の住人の起こした事案に遭遇したとか。
……いずれにせよ、社会の裏側で生きる人間は、そのほとんどが法律以外の、自分の規律で生きていることが多い。
でなければ、生きている意味がない。それに……適当に生きる程、簡単に敵を作ってしまうからだ。
「……謝ったら、本気で怒るからね」
だから……桧山はシャワー上がりの抽冬に対して、その身に纏わりつく布切れを剥がしながら、そう言い放ってきたのだ。
「私が許容できる範囲なら、どれだけ八つ当たりしてきても気にしないわ。それであなたの傍に居られるなら……安いものよ」
はっきり言って、桧山の自己評価は低いと、抽冬は考えている。
ただ、それを伝えようとする度に、桧山の方から会話を切り上げられてしまうのだ。
「いつも思うけどさ~……」
桧山に背を向けた抽冬は、服も着替えてからリビングに出る。そこには喫煙を終えた田村が、テーブル席に腰掛けて頬杖を付いていた。
「弥咲さん、もう顔も戸籍も変えてんでしょ? 別にバツイチの元AV女優とか、騙る必要もないと思うけど……」
「法的にはそうだけど……本人の心理的には、変わらないんだってさ」
そう、以前に言われたことを口にしながら、抽冬はキッチンへと向かう。
自己評価が低いというよりも……もしかすれば、抽冬の傍に居る為に必要だと信じた結果なのかもしれない。
自他のどちらが正しいのかは、実際のところ、誰にも保証できるものではない。それをどうにか白黒つけようとした結果が、国の法律なのだろう。
だが、それでも命懸けで、抽冬の傍にいる理由にはなりえない。その本人からも痛め付けられる結果を享受しているのであれば、なおさらだ。
「てっきり、ほんの数ヶ月で出て行くと思ってたんだけど……もし俺が死んでたら、犯人あいつかもな」
「弥咲さんに殺されたいの?」
「というより……」
抽冬は席に着くことなく、そのままキッチンへと入って行った。
「どうせ殺されるなら……傍で尽くしてくれる女に苦しむことなく殺されたい。そう思っているだけだよ」
法に守られないということは、惨めな最期を迎える可能性が格段に上がるということだ。
だから……抽冬の願望もまた、ある意味では贅沢なことだとも言える。
「女一人、幸せにできずに殺される。それが……俺が望める中で、一番普通の最期だからな」
基本的に、抽冬は聞かれない限り、桧山に料理をリクエストしたりはしない。
特に食べたいものがない時等は、作る人間が好きな料理を選ぶべきだと、そう考えているからだ。
だから桧山が好きな料理を食べたい時は、抽冬もまたそれに従うことにしている。
「今日はハッシュドビーフか……」
桧山が買い込み、朝方に仕込みを終えていた材料と市販のルーを見て、抽冬はそう判断した。
帰宅した時点で準備を終えていたということは、もしかしたら抽冬の朝食として用意していたのかもしれない。
しかし……抽冬が八つ当たりをしたばかりに、桧山の手で料理が作られることもなく、未完成で放置されていたのだろう。
なので抽冬は、これらの料理を完成させることにした。食べたい、食べたくないではなく……すぐに作れるものだと判断して。
「……あれ、四季ちゃん来てたの?」
「弥咲さんお疲れ~す」
シャワーを浴び、適当な着替えを終えた桧山が出てくる頃には、丁度炊飯器の米が炊き上がっていた。
スマホ動画片手に新しいトリックプレイを覚えようとライターを弄んでいた田村から視線を外した桧山は、髪を拭いていたタオルを肩に掛けながら、キッチンで鍋を掻き回している抽冬の傍に立った。
「後は?」
「バターライス。パセリはまだ取ってきてない」
「じゃあパセリをお願いできる? 後はやっておくから」
「分かった」
手に持っていた玉杓子を桧山に手渡した抽冬は、キッチンを出てリビングを横切り、屋内の家庭菜園へと向かっていく。
「……あ、そうだ。田村、ちょっといい?」
「ん?」
弄んでいたライターの蓋を閉じた田村を連れ、抽冬は家庭菜園用の部屋へと入って行く。
中に入った抽冬はパセリを摘みながら、顎で肥料の入った袋を指した。
「肥料の調達、辞めようかと思ってさ……どう思う?」
「肥料って……あのバイトのこと?」
背中越しでも抽冬が頷いたことは分かったらしい。
「ん~…………」
田村は悩まし気に、肥料を眺めた。
「今でも調達してるって……女の子来てるの?」
「『類は友を呼ぶ』ってことかな……下手な援助交際よりも手軽で安全だからって、全然途絶えないんだよね」
そればかりは、抽冬は当時の自分に対して呆れることしかできなかった。
「正直……そっちの方が売れるとは思わなかったからな~」
「世の中変態が多いんだから……ま、未成年使わないだけ、おじさんはまともな方じゃない?」
抽冬が家庭菜園で用いている肥料は、成人している家出少女達から得た特別製だ。
平たく言えば、その肥料の正体は下肥…………人の糞尿を原料にしたものだった。
下水処理がままならない時代、人糞は立派な肥料足りえた。実際、下手な動物よりも雑食だった為か、栄養価がかなり高かったらしい。
しかし、現在では上下水道の完備や寄生虫等の問題により、廃れてしまった方法である。
……ただ、法的に制限されているだけで、下肥そのものは禁じられていない。いくつもの手順を踏みさえすれば、余程の密集地域でなければ合法なのだ。
そして抽冬は、ある意味では法律ギリギリの線で下肥を調達していた。
ここから少し離れた廃ビルの一室に特注の和式便座を用意し、顔バレしない状態で排泄場面、そして排泄物を一セットにまとめている。田村が昔していたバイトも、その準備と後始末だった。自動で纏められる糞尿を堆肥化する為の発酵所に回し、便器を掃除するのが主な仕事だが……見知らぬ親父に身体を売るよりはましだからと、臭いを堪えて働いていた。
今でこそ排泄物の回収から堆肥化まで完全に自動化し、清掃員を雇って定期的に清掃させてはいるものの……まだ家出少女に金銭を支払い続けている。なので、肥料は常に用意され、同じ廃ビル内の地下に(業務用脱臭装置と共に)保管されていた。
抽冬が、使い切れない程に。
「昔はネットで売ってたじゃん。もう流さないの?」
「野菜や肥料より、真空保存した糞尿の方が売れ出したから止めた。下手したら警察とかに目を付けられそうだし……」
おまけにここ最近では未成年が真似をし、似たような商売に手を染めようとしている動きがあった。性交よりも危険性が低いのは分かるが……素人が下手に手を出せば、寄生虫や伝染病の危険性が高まる。
何より…………色々な意味で臭いから、すぐに足がつく。
「じゃあ代わりに、家出少女にただでお金渡す? 今でも助けてたりするんじゃないの?」
「被害者側なら、ね……さすがに加害者側までは助けないし、場合によっては送り返しているよ」
家出しているからと言って、その家庭全てに問題があるわけではない。ほんの些細なすれ違い一つで、人間は簡単に仲違いしてしまう。
抽冬がバイトを斡旋する対象は必然的に、警察に頼れない事情を持つ相手だけだった。
「それも今回で、最後にした方がいいかもね……」
「というか……何で全部、律儀に使ってるの?」
「…………あ」
田村に言われて、抽冬はようやく気付いた。代金を支払っているとはいえ、すでに所有権は抽冬にあるのだ。
ならばその糞尿や肥料を使うのも……使わずにそのまま捨てるのも、持ち主の自由である。
「まずは、在庫片付けてからにしたら?」
「そうするかな……」
取り終えたパセリ片手に立ち上がりながら、抽冬は貯蔵してある肥料の在庫量を思い出そうと、後頭部を掻いた。
「まあ、あたしが言えることはただ一つ……」
部屋を出ようとする抽冬が眼前を通るのに合わせて、田村にジト目を向けられた。
「食事前に、そんな話しないでくれない……」
「……すみません」
そして部屋の扉は開け放たれていたので、二人の話は桧山にも届いていた。
「せっかくのハッシュドビーフなのに……」
鍋の中身はさながら…………これ以上は慎みます。
それでも人間、三大欲求の中に食欲がある以上、空腹には抗えない。特に抽冬は、帰宅後すぐに桧山を強姦(和姦かもしれないが……)したので、何も口にしていなかった。
抽冬と桧山、そして田村の三人は飢餓感で不快感を払拭する為にも、ただひたすらハッシュドビーフを皿に盛ったバターライスにかけては、口に運ぶ作業に従事した。
「ところで田村、今日仕事は?」
「六連勤明け~……また新人が辞めた」
「ご愁傷様……」
就職活動の際、『仕事が気に入らないから』と希望しない分にはまだ許されるだろう。元々縁のない相手だったと、考えるだけで済むからだ。
だが入社後に、『思っていたのと違う』と簡単に辞められてしまえば、発生する被害は勤務期間分の退職者の人生だけでは済まない。新入社員に提供した研修期間も費用も、場合によっては業務上の損害も、会社側は被ることになる。
それらの齟齬を無くす為にも、就職活動を怠ってはいけない。それは就活者も、求人募集している会社側も変わらなかった。
「会社も人数足りないからって、適当なの採用しないで欲しいわ~……一番被害被るのは、現場の人間だってのに」
「アルバイトやパートからの、社員登用は?」
「そっちも全滅~……」
本当に疲れ切っているらしく、田村は頬杖を付きながら、スプーンの柄尻を指先で弄び出した。
「皆上流企業か、『夢の国』がいいんだって……贅沢な」
ポロリと、元家出少女の本音が漏れ出ていた。
「僻んでもしょうがないでしょう? ……お代わりいる?」
「…………いる」
お皿を手渡しながらも、田村の愚痴が止む気配はない。
「いっそ弥咲さん、免税ショップで働かない? 好待遇約束するからさぁ~」
「私、今のパートが気に入ってるから。うちの人が休む時も、代わりにお店に出ないといけないし」
「…………おじさ~ん」
抽冬は田村からの媚びるような視線に対して、黙って肩を竦めるだけだった。
「ええ~……」
「その人、私の仕事に関しては無頓着よ。信じてくれているのか、元AV女優だからかは知らないけど」
「『職業選択の自由』を、守ってるだけなんだけどな……」
裏社会の住人の庇護下で働いている人間が、何を言っているのか?
女性二人の視線に身を縮ませながら、抽冬はハッシュドビーフの残りを掻き込んでいく。
「おじさん、また野菜貰っていくね~」
「できれば多めに持ってって。二人や店だけでも、処理しきれないから……」
そこまで歳の差は離れていないものの、もはや親子のようなやり取りである。
家庭菜園で余った野菜を田村に手渡した抽冬は、同じく店に向かう為、玄関の靴を履いた。
「相変わらずお客さん、来ないの?」
「もう一人、常連候補はできたけどね」
「……女じゃないでしょうね?」
二人を見送ろうとしていた桧山が、抽冬に対して腕を組みながら問い掛けてくる。
それに抽冬は、後頭部を掻きながら答えた。
「女だけど大丈夫だよ。尻軽っぽいけど、秋濱が犠牲になっただけだし」
「どこが大丈夫なのよ……お店に行くから、彼女が来た時は連絡して」
「『奥さん居る』って言っといたから大丈夫だよ。そんなに警戒すること?」
こんなおじさんに何言ってんだか、と抽冬は取り合わずに、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「おじさん、意外と身持ちが堅い方じゃない? 大丈夫だと思うけど……」
「処女は黙ってて」
「処女、って……罵倒語?」
侮蔑、というよりも嫉妬が多分に含まれている桧山の視線を背に、田村は野菜片手に部屋を後にした。
「また遊びに行こうかな……」
空いた手にライターを握り、適当に弄びながら言ちた田村の声は、夜闇に溶け消えていく。




