003 夏堀 恵
二階の自室を出て、店の前に来た抽冬は……扉のすぐ横で、壁にもたれている秋濱と遭遇した。
「……他に行くところ、ないの?」
「ない」
いっそ清々しい回答に、抽冬は何も言わずに扉の鍵を外した。
たしかに予約が入っているものの、それは秋濱に対してではない。だから抽冬は、今日もまた開店準備に勤しむことに。
「騒がしくするけど……お気になさらず」
「うん……」
狭い店内にむさい三十代の男二人。開店準備をする抽冬を尻目に、注文したビールをちびちびと飲みながら、秋濱は煙草を燻らせていた。
「今日は人数が多いの?」
「いや、一人だけ。ただ……」
適当に準備を終わらせた抽冬は……カウンターの裏から自動拳銃を取り出し、残弾数を目視確認する為に弾倉を抜き取っていた。
「……今日は新規のお客さんだから、どうなるか分からないけどね」
「やばいの?」
「オーナーの昔馴染みの、『運び屋』の紹介とは聞いている」
「『運び屋』か……微妙だな」
偶に一緒になるので、秋濱も『運び屋』のことは知っていた。というよりも……常連で通っている際に遭遇する機会が多いだけなのだが。
「あの男……最悪の場合は、自分の敵を他所にけしかけるよな。平気な顔して」
「まだ『最悪の状況』じゃないって聞いてるから、大丈夫だとは思うけど……どうなるかな?」
直接的に、仕事で関わったことはない。このバーでしか会わず、ただ報酬を代わりに受け取り、成果物を相手に手渡すだけ。秋濱に至っては、その様子を見て見ぬ振り、しているだけだった。
ただ、それだけでも分かることはある。
――『運び屋』の、他者とは違う価値観を持ち合わせているような異常性は。
「と、言っている間に……来たかな?」
「…………」
グラスに半分だけビールを残した秋濱は、そのまま口を閉ざした。煙草の火は消してある。
抽冬は手早く弾倉を戻して銃身を引き、薬室に銃弾を装填した自動拳銃を、再びカウンターの裏に隠した。
そして、視線を階段の上……開閉音を立てた扉の方に向ける。
降りてくる足音は、抽冬や秋濱が立てるものよりも小さい。それだけ体重が軽いということだろう。もしかすれば女性、と予想し……その通りの人物が降りて来た。
見た目はスーツを着こなしたキャリアウーマン。年齢は若く見えるものの、その纏う雰囲気からして三十代、抽冬達と歳が近い可能性もある。
どちらにせよ、初見の相手だ。抽冬は一礼し、『バーテンダー』の振りをしてその女性を迎え入れ……
「いらっしゃ、」
「…………抽冬に秋濱!? なんでこんな所にいるのっ!?」
「い、ませ……え?」
抽冬は今の仕事をする上で、別に名前までは隠していない。秋濱もまた、副業で犯罪に手を染めているとはいえ、そこまで目立った動きはしていなかった。
むしろ偽名を使う方が、かえって目を付けられやすくなってしまう。だから『抽冬淳』も『秋濱敏行』も、そのまま本名で仕事をしていた。しかし、問題はそこではない。
『…………知り合い?』
顔を見合わせた抽冬と秋濱は、互いに疑問をぶつけあった。
「ほら私よ私、中学で一緒だった!」
『え…………?』
そして二人して、階段の途中から駆け降りて来た女性を見やるものの……抽冬にも秋濱にも、心当たりが全くない。
「中学……」
「……一緒?」
秋濱が、抽冬のバーに通い詰めになっているのには、実は理由がある。
……二人が、中学時代の同級生だったからだ。
当時は交流がなかった上に、再会した際も珍しい名字でどうにか判別できた位だ。だから『一人称』だけでは、彼女が誰かを知ることは難しい。
「まず落ち着いて。お互い十年、下手したら二十年も会ってなかったんだから分かるわけ……」
「……あ、思い出した」
女性はカウンターを挟んで、抽冬に詰め寄ってくる。その彼女に対して、横で見ていた秋濱はふと、思い出したように言葉を漏らしてきた。
「もしかして……夏堀さん?」
「そうよ! 夏堀恵よ……ようやく思い出した?」
その名前を聞き、抽冬もまた記憶を取り戻した。
「ああ! 夏堀さんか…………え?」
抽冬が疑問に思うのも、仕方がない。
当時の彼女、夏堀は今のようなビジネスウーマンではなく……見た目はリア充な中学生ギャルだったのだから。
「秋濱……なんで分かったの?」
「いや、俺や抽冬の名前が同時に出たから……」
「…………あ~」
秋濱の言葉を聞き、抽冬は思わず納得してしまう。
中学時代に付き合いはなくとも、『春夏秋冬』の名字が揃っていたので、互いに存在だけは意識していた。
その『夏』に該当していたのが、クラスのギャルこと夏堀だったのだ。
「にしても……秋濱が客なのはともかく、何で抽冬がバーテンやってんのよ?」
「ここの雇われ店長だから」
一瞬、抽冬は夏堀が予約の人物とは違うのではないかと考えた。
偶々立ち寄った店に中学時代の同級生が揃っていた。それで思わず声を出してしまったと考えれば、辻褄が……
「…………あれ?」
辻褄が……合わない点がある。
「ところで……」
先に気付いたのか、抽冬よりも早く、秋濱が夏堀に問い掛けていた。
「何ですぐ……俺達のこと思い出せたの? まだ名前も出していないのに」
そう、『どこか見覚えがあるな……』と思いつつ自己紹介した結果、互いに中学時代の同級生だと判明したのだ。見かけだけで判断できる程、時の流れは生易しいものではない。
……なのに、夏堀は違った。
抽冬と秋濱の顔を、いやそこに人がいると気付いた時点で、声を出していたような……
「ああ……やっぱり分かっちゃう?」
「……事前に知っていた、ってこと?」
抽冬からの問い掛けに、夏堀は静かに頷く。
「改めまして……私は夏堀恵、」
抽冬と秋濱を前にして、夏堀は自らの胸に手を当てて、その素性を明かした。
「社会的な暗殺を専門とした殺し屋、『ブギーマン』の一人よ」
――殺し屋『ブギーマン』
それは、近代の情報技術が生み出してしまった、ある暗殺手段を用いた殺し屋の名前だった。
現代社会は、マスコミやインターネット、果ては各種SNSにまで個人情報を拡散させることができる。ただの一般人でも、ちょっとした評価一つや、感情的に吐いたほんの小さな嘘で、相手を追い詰めることが簡単に起こり得る。
個人情報が容易に取り扱われ、簡単に相手を追い込める道具に成り下がってしまった……情報社会が抱える弊害だった。
その手段を意図的に、明確な意思を持って駆使する者がいる。それが『ブギーマン』だった。
対象の過去から現在に至るまで、様々な悪事を大小問わず洗い浚い調べ上げて確実に、相手を社会的に殺す。
その存在は裏社会だけでなく、表社会にも噂されている……
「……新入りの殺し屋じゃん」
「新入り言うなっ!」
しかし、現在の情報社会だからこそ、できる手段であるのは間違いない。ネットワークもない時代では、ただの虚言吐きで終わってしまうだろう。
だから歴史も何もあったもんじゃないとは、秋濱もすぐに気付いてしまった。だから夏堀に、そう漏らしたのだ。
「しかも、その一人って……」
「ちなみに夏堀さん、ただの使いっ走りだからね」
「抽冬も余計なこと言わないっ!」
予約の段階で、今日来る相手の情報は多少なりとも入っていた。夏堀もまた堂々と名乗っていたので、話していいのかと抽冬は漏らしたのだが……どうやら『余計なこと』だったらしい。
「そもそも今日来たのだって、これから仕事をする為の、下準備みたいなものでしょう?」
「え、これから……?」
秋濱が抽冬の方を向いて問い掛けるものの、それに答えたのは、隣に腰掛けた夏堀の方だった。
「……今は開店準備の真っ最中なのよ」
スーツの内ポケットから封筒を取り出してカウンターの上に置き、スッと抽冬の前に差し出しながら、夏堀はそう言った。
「だから今日は……私が代表して、その挨拶に来たってわけ」
「そういうことね……」
「……でも実力は、さっき話した通りよ」
事前に、抽冬や秋濱の存在を知った上で、夏堀は入店してきた。
いくら本業があり、かつ偽名を使っていなかったとはいえ……その時点で、自分達の情報収集能力を証明してみせたのだ。それだけでも、十分に脅威足りえた。
しかも、警戒すべきはそれだけではない。
「他に何人いるのやら……」
抽冬がぼやくこと、それ自体が答えであった。
抽冬自身が言っていた通り、夏堀は『ただの使いっ走り』でしかない。つまり、彼女に危害を加えたところで……『ブギーマン』には何の痛手にもならないのだ。
手を出すだけ不利に働き、しかも報復は必ず来る。そんな殺し屋に喧嘩を売ること自体、自殺行為に過ぎなかった。
「あれ? ということは……都市伝説は何なわけ?」
「情報だけ先に流しておいたのよ。宣伝も兼ねて」
「宣伝……」
カウンターに並んで腰掛ける二人の話を聞き、抽冬は背を向けて受話器を取りながら……どこか呆れたように、そう漏らしていた。
――カチャン……
「オーナーから伝言。『今後とも御贔屓に』って」
「はい仕事終~了~」
内容の割りには軽い返答を漏らした夏堀は、軽く手を叩いてから抽冬を指差して注文を始めた。
「というわけでビールね。ラガーある?」
「まあ……缶か瓶で良ければ」
そしてグラスと共に、抽冬は夏堀の前にいくつかのラガービールを並べていく。その中から気に入った物を選び取ると、彼女はそのまま手酌で入れ始めていた。
「……飲むの?」
「意味もなく常連化しているあんたが言うこと? それ」
麦芽色の液体を勢い良く喉に流し込んでから、夏堀は秋濱にそうツッコんだ。
「しょうがないでしょう……私、出世する為に外面被ってるんだから。こうやって、家以外でばらせる場所見つけておかないと、ストレスでおかしくなるのよ」
「そういえば、夏堀さん……今の仕事は?」
不要なビールを片付けながら、抽冬は夏堀に対して話題を振る。
「仕事、って本業? 普通に会社員だけど、それもねえ……」
頬杖を付き、目を少し流し気味にしながら、夏堀はぼやき始めた。
「役職の空きがなくて、今のところは係長止まり。そもそも私、本当は小学校の教師になりたかったのよ」
「へぇ……そうなんだ」
秋濱も興味があるのか、それとも一人取り残されるのが嫌なのか、抽冬が夏堀に振った話題に絡んでくる。
「じゃあ何で今は会社員なの? 定員割れ?」
さすがに『試験に落ちたのか』とは聞けないので、倍率の高さを挟んで聞く秋濱。抽冬も気になったので、顔を上げて夏堀を見つめている。
そして夏堀は、組んだ両手に額を載せ、少し重たげに呟いた。
「いや、大学で『少年好き』だって噂が流れちゃって……教員試験、受けさせて貰えなかったの」
「あ、えっと……」
言葉の途切れる秋濱に代わり、ことの成り行きを見守っていた抽冬は、夏堀の前に新しいビール缶を置いた。
「夏堀さん……残ね、」
「まあ、『少年好き』なのは本当なんだけどね」
『噂は本当なんだ……』
口を揃えてツッコむ男性陣に構わず、夏堀は差し出されたビールをグラスに注ぎ出していた。
「いやぁ……高校時代にクラスメイトの弟と流れで性交したんだけどさぁ。それきっかけに、精通前の男の子逆強姦するのに嵌っちゃって……」
「怖っ……」
性欲の強い女、しかも少年好きなんて……『ブギーマン』以上の都市伝説かと思えば実在していた。だが、実際に目の当たりにすると、『もしかしたら抱けるかも』という性欲よりも、『こんな女がいるのかよ……』という驚愕の方が内心を占めるらしい。
少なくとも、秋濱は軽く身を引いていた。抽冬は桧山という、ある意味同類の事例を知っているので、まだ無表情でいられたが。
「そういえば、この店って……男買えないの?」
「『男の子』も『女の子』も買えないよ。そもそも買春自体、割に合わないからね」
人間だって生物であり、生物である。
生きるだけでも金が掛かり、商品としての維持管理にも金が掛かり、また人に見られず、口が堅くて金払いの良い客を探す為の先行投資にも金が掛かる。
人間に三大欲求の一つである性欲があろうと、必ずしも、性風俗産業が儲かるわけではない。客も嬢も店も、そこに利益がなければ商売なんて成り立たないのだ。だから無理な性産業が行われ、それを取り締まる法律が今でもいたちごっこに続いている。
それは、社会の裏側でも例外ではない。
利益がなければ商売は成り立たない。その場で誰かを買って使い捨てるならばまだしも、抱え込み続けるのはどの立場であっても、リスクにしかならないのだ。
「というか……別に教師に拘る必要ないんじゃないの?」
抽冬に新しいグラスを注文しながら、秋濱はふと思ったことを口にしていた。
「『男の子』に関われる仕事なんて、他にもあるじゃん。そっちじゃ駄目だったの?」
(勧めてどうするのかな……?)
別に秋濱とて、犯罪を勧めてそう発言したわけではないだろう。
単純に、疑問に思ったのかもしれない。ただ少年好きだからという理由でどうしてそこまで、小学校の教師に拘るのか。
抽冬も気にはなるものの、下手に突いて面倒事に巻き込まれては堪ったものではないと、口を噤んでいるに過ぎない。どうせただの『バーテン』だから、というのもあるが。
「あ~……塾講師でも良かったんだけど、食いっぱぐれそうだったから…………」
「そこは現実的なんだ……」
「後、今の会社イベント業界だから、上手くいけば小学生に関われるし」
「……まったく下心が抜けていない」
呆れる秋濱に、救いようがないと首を振る抽冬。二者二様の有様に夏堀は、『どうせ分からないでしょう』と鼻を鳴らした。
「大体世の中が間違ってるのよ。時代が時代なら『お稚児趣味』なんて普通でしょうが」
「現代社会で無茶言うね……」
「そもそも稚児って……そっちの意味なら、相手男じゃん」
「大丈夫よ。私、攻め手もいけるし」
『ぅぇ……』
夏堀の業の深さに、男二人は戦々恐々としてしまう。
「何よ、女が攻めちゃ駄目なわけ? 差別?」
「いや、だから……子供が駄目なんだって」
止せばいいのに、秋濱は滑らせた口でツッコミを入れている。抽冬はもう知らないと空いたグラスを片付ける名目で、二人に背を向けた。
「かわせおあひすふひされらんか、てゆそのえうていくけそてんけ?」
「けうべうそにさだせお。くをへふーめわでた」
「どかおかおもだ、くお!」
酒の勢いもあってか、呂律の回らない会話が何故か成立している。
「抽冬……個室、ある?」
抽冬は黙って、階段裏のエレベーターとは反対側にある、目立たない色で隠されている扉を指差した。
……後ろの二人に視線を向けないまま。
「通常利用は五千円、汚し放題コースなら三万円になります」
「三万円の方、秋濱につけといて」
「ちょっ!?」
反論する間もなく、秋濱は夏堀に連れ去られてしまった。
「……一服するか」
抽冬は取り出した椅子に腰掛け、煙草を咥えだす。
『――――』
よがり声が叫び声に似ている、いや逆かな……等と考えながら、抽冬はのんびりと煙を味わっていた。
……個室から漏れ出てくる、意味の分からない叫喚を肴にしながら。
「もう、お婿に行けない……」
顔を覆って嘆く秋濱を一瞥した抽冬は、その元凶だろう夏堀に問い掛ける。
「……一体何したの?」
「避妊具しか手持ちないから、逆強姦で留めたわよ……尻穴に指突っ込んだりはしたけど」
(絶対にそれだ……)
だが抽冬は、口を閉ざした。
パン一で泣き崩れている秋濱には悪いが、所詮抽冬はただのバーテン。助けるどころか、のんびりと乱れた服を整えている夏堀を諫めることすら難しい。
「それにしても……お互いに歳を取ったよね。平気でゲスいことができる程度には」
「歳のことは言うな。あんたも同じ目に遭いたいの? このムッツリめ」
「俺、奥さん居るので結構です」
事実婚な上に、自分が認めているかは微妙だが……、とは付け加えない。説明が面倒な上に、それすらも、夏堀達が調べている可能性もある。話題に上らない限りは、余計なことは口にしない方がいい。
でなければ……秋濱の二の舞になってしまう。
「しかし酒入った状態で身体を動かすと、酔いが回るのが早く……うっぷ、」
「そろそろお開きにする? 秋濱も落ち込んだままだし……」
もはや泥沼の状態だ。これ以上は秋濱も、飲む気はしないだろう。何しろパン一で、常連化すら解けかねない状態なのだから。
「そうね…………あ、そうだ」
どうしたものかと考えていたらしき夏堀が、ふと秋濱に服を着るよう促している抽冬を見て、手を叩いてくる。
「あんたに聞きたいことがあったのよ。変にもやもやした状態で通うよりは、先に聞いといた方がいいかと思って」
「……聞きたいこと?」
一体何なのか……抽冬は首を傾げてから、夏堀に続きを促した。
「あんたさ…………小学校の同級生殺したって、本当?」
「…………」
抽冬は、すぐには答えなかった。
答えられない、というわけではない。どう答えればいいのかが、分からないからだ。
「もしかして……あのことじゃないの?」
「あれ、秋濱は知っているの?」
「一応、抽冬とは小学校も同じだったから……別の奴経由で」
未だに答えに悩んでいる抽冬を置いて、秋濱はいそいそと服を着ながら、自分が知っていることを話し始めた。
「こいつ、昔の経験を題材にして小説だかエッセイだかを書いて、賞に応募していたんだよ。で、入賞したのはいいけど……その時の関係者の一人が、自殺したって噂、」
「噂じゃ、ないよ……」
手持ち無沙汰のままでは話せなくなると思い、抽冬は洗ったばかりのグラスを拭きながら、秋濱の話を訂正……いや、補足した。
「昔にされた嫌な経験をそのまま書いただけだけど、その時は小学生だったから……自分にとっての善意が、相手にとっては悪意になることもあった」
……自分の手が汚れている。その出来事があってからずっと、抽冬はそう思っていた。
「俺にとっては悪意でしかない出来事を書き記した。その結果……相手は罪悪感に押し潰されたんだよ」
――『このっ、……人殺し!』
そう言われたことを、抽冬は今でも忘れていない。
いや……忘れるつもりはさらさらなかった。
「被害者はずっと、傷付いたままでいいのか? って考えてたことがあってさ。雇われのバーテンやりながら、趣味で小説とか色々書いてた時に……昔の経験を題材にしたんだよ」
全てのグラスを拭き終えても、仕事は終わっていない。話しながらも、抽冬は下げられたグラスを洗い続けた。
「別にいまさら訴えるつもりもないし、やったところで利益にならないどころか、絶対加害者側からも馬鹿にされるし……だったら言い逃げする位、別にいいだろう?」
「それで相手が自殺した……と?」
「正確には自殺しかけた、だけどね」
夏堀が頬杖を付きながら投げてきた問いに、抽冬は蛇口の水を止めてから答えた。
「中には女の子もいてさ。向こうは順風満帆な家庭を築いてたみたいなんだけど……俺が書いたエッセイで、全部ぶち壊しになっちゃったんだって」
「えげつないな……どんな書き方したんだよ」
服を着終えた秋濱が、そんな感想を漏らしてくる。それに抽冬は再びグラスを拭きながら、さらに補足した。
「まあ……相手が自殺しかけた後は精神崩壊までいっちゃって、今は入院生活だけどね」
「そりゃあ、相手の家族に恨まれるわね……」
「相手の夫にも言われたよ……『この人殺し』って」
しかし抽冬は、全部のグラスを拭き終わるまで手を動かしていた。
……特に大きく、感情を揺さぶらせないまま。
「おかしな話でしょう? 『じゃあ、何で訴えないんだ?』って言ってやったよ」
『いや、おかしいのはそっち』
だが抽冬は、首を傾げるだけだった。
「何で? 俺が書いた作品に法的根拠なんてないし、事実ならそうだと証明した上で訴えればいいのに……」
「なるほど……つまり相手は、『泣き寝入り』したってことね」
訴えれば過去の罪業を証明することになり、しなければ一方的に傷付けられるだけで終わる。
たとえ故意でなくとも……いや、故意でないからこそ、相手は何もできなくなってしまったのだ。
「普通なら読まないし、読んでも無視するもんな……」
「そもそも……その手の文章読むような人間なら、最初から相手を傷付けたりしないでしょう」
本を読むことで、相手の人生に共感することもある。中には相手が何をされたら傷付くのかを、理解させられる場面にも遭遇することがあるだろう。
だからというわけでもないが……その手の読書家が、相手を傷付ける選択肢を取るとは、考え辛かった。
「まあ、故意じゃない方が先にダウンしたってだけの話だよ。また思い出したら書くつもりだけど……もう、同窓会には呼ばれないだろうね」
「行く気ない癖に……何言ってんだか」
会計を済ませる秋濱も同類だということを、抽冬は知っている。運動部にしては珍しく暗い印象で、友達自体がほとんど居なかったことを。
「まあ、それなら安心ね……私、あんたに対して何もやってないし」
「というより……」
帰宅待ち状態となった夏堀に、いや二人に対して……抽冬は溜息と共に漏らした。
「単に名字が『春夏秋冬』で揃ってただけじゃん。当時は付き合い自体面倒臭がって、ほとんど絡んでなかったし……」
それが今では、こうやって顔を合わせているのだから……時の流れとは不思議なものだと、抽冬は無意識に頭を掻き出した。
「で、あんたはあれ聞いて……何とも思わないわけ?」
「いまさら過ぎる……」
店を出た二人は、並んで帰路に着いていた。本来であれば別の道なのだが、秋濱が(一応)夏堀を送ろうとした結果、二人並んで歩くことに。
「あの店に入り込んだごろつきが姿を消した、なんて噂位は聞いてるよな?」
「聞いてはいるけど……要するにあんたら、見捨ててるくち?」
「じゃないと、こっちに飛び火するからな……」
結局は我が身可愛さ、とばかりに秋濱はポケットに手を入れて首を振った。
「そりゃ、昔は正義の味方とかに憧れた時期もあったけどさ……善悪だけで、世の中割り切れるわけじゃないだろう?」
「さっきの話? まあ、ね……」
夏堀も肩掛けの鞄を背負い直しながら、少しだけ目を細めている。
「別に加害者庇うわけじゃないけどさ、だからって被害者が泣き寝入りしていいわけじゃないのよね……こればっかりは難しいわ」
「そんなもんだよね……」
すでに夜も更け、人気も何もあったものじゃない。それでも街灯が道を照らしている中を、二人は迷うことなく歩いていく。
「おまけに善悪の区別がついていない小学生の時とか……考え出したらきりがないわ」
「…………」
黙り込んでいた秋濱はふと、ある言葉を漏らした。
「『綺麗事を守ることが案外、一番合理的だったりする』……」
「何それ?」
「『ブギーマン』を『―――』に紹介した『運び屋』の言葉。今なら何となく、分かる気がしてさ……」
別に綺麗事全部が正しいわけではないし、人類全部が守っているわけではないだろう。しかし、平穏無事な生活を送るのであれば……その綺麗事がまかり通っていることが前提条件となってくる。
少なくとも……表社会を生きている内は。
「目先のことしか考えられないから、争いなんて起きるのかな……?」
「ついでに言うと……悪意に代わりかねない、適当な善意もね」
抽冬が過去、同級生の少女に何をされたのかは、二人には分からない。しかし……今でも思い出せる程度には嫌な過去だったのだと、それだけは理解できた。
「全員がその『運び屋』の言葉通りに生きていれば……平和なのかしらね」
「どうだろう……ところでさ、」
「何? また抱きたいの?」
「全然違う。二度と御免だ……絶対にだ!」
「そこまで言う……?」
思わず指を動かす夏堀に、秋濱は一歩距離を置いた。それだけで何が原因なのかを理解したのか、腕を組んで何度か頷いている。
「別に抱いた位で惚れた腫れたする程、あんたも子供や童貞じゃないでしょう?」
「違うけど、お付き合いした女性全てに『何か違う』と言われて振られ続けたから……孤独に耐えきれなくなると、思わず関係持ちたくなるんだよ! 正直お前みたいなのでもっ!」
「……それで私が『付き合いましょう』とか言うと思う?」
「こっちが思いたくないんだよ、どんな二択だっ!?」
男にも選ぶ権利があると主張する秋濱に、女が身体許したんだから少しはほだされろと睨み付けてくる夏堀。
ただ、二人はこれからも……抽冬がバーテンをやっているバー『Alter』へと通い、何度も顔を合わせることになるのは、間違いなかった。




