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case1. 間一刀の場合 転


 粉の効果はあっという間に表れた。

 翌日の休み時間。

 彼女の席に近付く輩はいなくなっていた。

 その代わりとばかり、昼休みになると一刀は、数人の男子生徒に校内を連れまわされ、やれ金を貸せだの、やれ昼飯を買って来いだの、時には数人がかりで殴られたり、人前で恥ずかしい事を強要されたりもした。痣は、日に日に増えていく。

 しかしどんな仕打ちをされても、一刀は耐えた。彼女の為と自分で決めた責任だ。彼女が傷つくくらいなら、自分がやられた方がマシなのだ。

 彼女の苦しみは、俺が受け持つ。

 そう力んでいた。

 だから――

「大丈夫? 鼻血出てるじゃない」

 ある夏の夕暮れ。彼女がそう言って、ハンカチを差し出してくれた時には――彼は意表を突かれ、絶句してしまった。

 誰もいない体育館裏。暴力をふるっていたイジメっ子達は去り、一刀は一人、鼻血を吹きだして体育館の壁に寄り掛かっていた。前日の雨で、地面はぬかるんでいる。その上に殴り倒されたのだから、彼の体はあちこち泥だらけな状態だった。

 そんなところに、突然どこからともなく彼女が現れたのだから、彼が仰天するのも無理はない。

「……サンキュー。でも、何でこんな時間までここにいたの?」

 一刀が訊くと、「それは……」と彼女は顔を赤くし、目を泳がせた。

「私、間くんが殴られているのを知ってて……助ける勇気もないから、ずっと隠れて見続けてたの」

 彼女は頭を下げ、自らの度胸の無さを一刀に詫びた。しかし一刀は逆に、彼女が自分を気遣ってくれたのが嬉しくて、小躍りしたくなる衝動に駆られた。

 彼女はしゃがんで、一刀の顔周りをハンカチで拭き取り始めた。

 真珠の如く真丸な瞳。

 桜色の肌。両サイドで団子状にアップした、キュートな髪型。

 頬っぺたに伝わる、温かな手の感触。

 毛先から漂う、シャンプーの香り。

 彼女の顔が、こんなにも近くに。

 彼女の匂いがする。

 母親に体を拭いてもらっていた幼少期を思い出し、一刀は顔を背けた。これ以上直視するのは、恥ずかしい。それに、赤くなった顔を見られてしまう。

 母親と言えば。

「お母さん、もう退院した?」

 ふと、彼女が母親とどのように生活しているのか気になり、訊いてみた。

「うん。凄いよ。脳味噌にも異常が無いし、簡単なリハビリを終えただけで、すぐに元の生活に戻れるようになったよ」

 それは良かった。あの粉、粋なところまで手が回るじゃないか。

「だけど、世の中って理不尽だよね。私がいじめられなくなったと思ったら、今度は間くんが不良達に目をつけれられて。でも何で、皆急に、私をいじめなくなったんだろう」

 首を捻っていぶかしむ彼女の様子に焦り、一刀は話題を方向転換させた。自分が彼女の代わりに対価を受け持ったことを知れば、彼女はきっと自分を責めるだろう。

 考えてみればこれは、彼女と親しくなる絶好のチャンスではないか。よ、よおし。

「それよりさ、今日一緒に帰らない? 日も暮れてきたし、家まで送るよ」

 言って。

 あ……。

 一刀は口を噤んだ。今のは少し、踏み込みすぎではないか。これでは、好きだと言っているようなものだ。彼女も驚いた顔で、ハンカチを持つ手を止めている。しまった。もう少し、遠回しなお誘いをするべきだった……。

 後悔の念が、さざ波の様に押し寄せる。

 だが――彼女は一拍、息を吸って。

「いいよ」

 と言ったのだった。

 一刀にとって、それは世界が流転するほどの衝撃だ。

「ほ、本当に良いのか!?」

「うん」

 息を荒くする一刀に、彼女は首肯する。

 ほんのりはにかんだ、桜色の笑顔を添えて。

「私、前から間くんと話してみたかったんだ。優しくて、人当たりがいいし」

「あはは、そんなことないよ。でも、俺も君と話してみたいとは思ってたんだ」

「ほんと? ありがとう」

 蕩ける様な笑みが、自分に向けられているという事実。それは一刀にとって、これ以上はないくらいの幸福だった。

 しかし……その一方で、一刀はこうも考える。

 いつも引っ込み思案な彼女が、なぜ今日はこんなにも積極的に、話しかけてくれるのだろう?

 まるで――何かを確かめているかの様な、饒舌ぶりだ。

「私、クラスでもあんまり目立たないから。クラスの友達と一緒に帰るなんて、この高校に入学して初めてだし。だからちょっと、嬉しいな」

 照れ隠しなのか、彼女は目を伏せた。

 彼女のこんな言動が、本心からくるものでないことくらい、分かっている。

 世の中に、こんな女の子らしい心を持った人物など、まずいない。クラスの皆にも、そして俺自身にも、彼女は自分を良く見せたいだけなのだろう。今の彼女は、それでも十分、かわいい。

 でもできればいつかは――彼女が俺に対し、心から本音を打ち明けられるような、そんな関係を築いていきたいな……。

 しかし、友達か。

 その言葉は結構、胸に響く。

「いいじゃない。でも今までロクに話したこともなかったから、ちょっと馴れ馴れしいかな?」

 い!?

 彼女が、眉尻を下げて苦笑している。その姿に、一刀は思わずのけぞった。なんてことだ。思わずモノローグが口を衝いて出てきてしまった。

「あ! いや、そういうわけじゃないんだ。これは……!」

 顔を真っ赤にして、息も絶え絶えに弁明する一刀の真意を掴み取ったのか、彼女はハンカチを持ったまま、硬直した。

 ええい、こうなったら乗り掛かった舟だっ!

 意を決した一刀は立ちあがって、二、三歩後方に退いてから、彼女の名を呼んだ。

 絹の様に細い声で、返事をする少女。その顔は、背後の夕日よりも紅い。

 先程からの失言により、自分の気持ちは彼女にも十分伝わっているだろう。告白を躊躇っている理由はない。

「俺、ずっと君のことが好きだったんだ。付き合ってください」

 激しい鼓動によって息を切迫させながらも、何とか舌を噛まずに言いきれた。勢いをつけて、直角にお辞儀する。顔が上気し、滝の様な汗が噴き出てきた。

「……はい」

 彼女が発した言葉。

 それは一刀が、この世で一番、聞きたかった言葉だ。

「ホント!?」

 これまでにないくらいの反射能力を駆使して顔を上げる一刀に、彼女はハンカチを片手に歩み寄ってくる。

「すごい汗。間くん面白い」

 おかしそうに噴き出し、一刀の頬にハンカチを当てた。

 ふんわりした感触が、くすぐったくて。

「……へへ」

 一刀は笑い、鼻を擦った。

 それに対し、彼女も頬笑みを返す。

「嬉しいな」

「え?」

「私もずっと、間くんのこと、気にかけてたから」

 思ってもみない発言だった。今日は人生最高の日に違いない。俺は彼女に惹かれていた。そして彼女も――

「それってつまり……」

 喜びのあまり表情を緩める一刀に、彼女は「うん」と頷き、唇を開く。

「私も、一刀くんのこと……」

 が、しかし、そこで。

 彼女の手先は、止まった。

 否――止まっては、いない。

 振るえて、いる。

「この印」

 彼女は焦点の定まらない瞳で、一刀の左耳たぶを見ている。しゃがんで、傍にあった水溜りを覗き込んだ彼は、目を見張った。耳たぶに小さく、黒い三日月型の刺青が施されているではないか。こんな禍々しいペイント、彫った憶えはない。

「間くん……ひょっとして、夢々くんに会った?」

 水溜りを覗いたまま凍りつく彼の背後に立ち、少女は静かに問いかける。彼女の口からその名前が出てきた為、一刀は動揺した。彼は知らなかったが、夢々に願いを叶えてもらった者の体には、黒い三日月の紋様が表れる仕組みになっていたのだ。

「もしかして、私がいじめられなくなった理由って……」

 立ち竦む彼女を見て、一刀は内心、冷や汗を掻いた。まいった。彼女に余計な気を遣わせてしまうなんて。

 しかしごまかしの余地は無い。彼は腹を据え、彼女に包み隠さず話した。

 夢々の事。ゆめやの事。

 青年の事。対価の事。

 夢の事。願いの事。

「そう……」

 俯く彼女に、一刀は一抹の気まずさを覚えながらも笑顔を作り、一気に捲くし立てた。

「大丈夫、俺は平気だから。だから安心しろよ。もう、君は苦しむ必要がないんだ」


 ――なんで?


「……え?」

「何で間くんは、笑ってられるの?」

 唐突な少女の疑問に――少年の額に、新たな汗が浮かぶ。

 冷汗。

 背後から、彼女の優しい手が、ハンカチが、そっとそれを拭き取った。

 湿った、冷たい、涙の感触。

 一刀の頬に手を押し当てたまま――彼女は茫然と立ち尽くしている。

「……どうかした?」

 何かを感じて、声を鎮める一刀。彼女は唸るように呟く。

「私は、笑えないよ」

 一刀の喉首に、十本の指が触れた。押し倒され、壁に頭を打ちつける。そこで初めて一刀は、自分が彼女に首を絞められているという現状を認識した。

 彼女は一刀の体に跨り、彼の膝に尻を乗せて、首を絞めている。

 認識はできたが、理解はできなかった。

「……っ、……!」

 喉元を圧迫され、悲鳴すら声にならない。

 軽い筈の彼女なのに、骨が押し潰されるほどの重みを感じた。

 何で俺は……彼女に、首を絞められているんだ!?

 苦しみの中、一刀は彼女の顔を窺う。

 冷汗。心の汗。

 透明な雫が――ぽたぽたと、彼女の眼尻から滴り落ちていた。

 張り裂ける様な声が、耳を劈く。

「私が夢々くんに会った時、あの子、何て言ったか分かる!?」

 もし君が、誰かに自分の対価を背負わせた場合。

 向かい合って正座する彼女に、夢々はこう言ったという。

 君はルールを破ったと看做され――死ぬ。

「そ、そんな……」

 首に食い込む、五指の感触。

 そんなの、ありかよ。

 さめざめと涙を零しながら……彼女は僕を、殺そうとしている。

 いや、彼女を殺したのは、僕の方か?

 彼女は俺を殺せば、自分が助かると思っているのか?

 俺を殺せば、彼女は死なずに済むのか?

 わからない。

 こんな酸素の欠乏した脳じゃ、判断できない。

 だけど。

 だけど、俺は。

「俺は――死にたく、ない」

 ――でもできれば、いつかは。

 彼女が俺に対し、心から本音を打ち明けられるような、そんな関係を築いていきたい。

 でも。

 だからこそ。

 こんな生々しい本音は、見たくなかった。

 嘘だ。

 こんなの夢だ、悪夢じゃないか!

「ぐぐ、ぐああ……」

 声にならないうめきをあげ、彼女の腕を引き離そうと試みる一刀。たおやかな少女の腕を押し戻すのは、思いのほか簡単だった。彼女は地面に尻餅をつけた。タイミングを見計らったかのように、両サイドのゴムが切れ、長髪が流れ落ちる。

 そしてまた、喉元に掴みかかって来た。先程とは比べ物にならない、恐ろしい力だ。涙で顔を歪め、長髪を振り乱して襲いかかってくる彼女から、一刀は冷たい死の匂いを嗅いだ気がした。

「やめなさい、何をしている」

 視界の隅から、教師の声がする。

 数秒後、少女の背後から逞しい腕が伸びてきて、少女と一刀を引きはがした。

「いや、死にたくない! いやあああ!」

 教師に羽交い絞めにされながらも、じたばたと腕を振り回し、足掻く少女。

 上下する胸を押さえながら呼吸を整える一刀の耳に、その悲痛な叫びは響いた。

 激しい抵抗に負け、教師は彼女を開放する。しかし彼女にはもう、一刀の首を絞める力など、残ってはいない。彼女は地面に手足をつき、涙すら枯れ果てた両眼を、一刀に向けた。

 ――私は。

「もっとお母さんと、話していたかったのに」

 彼女の手が、こちらに向かって伸びてくる。

「もっと皆と、笑ってみたかったのに」

 彼女の手が、こちらに向かって伸びてくる。

「もっと一刀くんを、好きになりたかったのに」

 人差し指を伸ばし――彼女は一刀の頬に伝う一筋の涙を、そっと受け止めた。

 その刹那、彼女の表情が、これ以上は無いくらい苦悶に満ち、引き攣る。そうして、次に一刀が気付いた時――


 彼女の眼は、最早どこも見ていなかった。


 糸が切れたマリオネットの様に――彼女は崩れ、一刀の胴体にうつ伏せになる。

 糸が切れたマリオネット。

 それは人の死を描写する際、特に用いられる表現だ。

「……」

 倒れた彼女と、座りつくす一刀。そんな彼らに教師が呼びかけているが、一刀の耳には届かない。

 俺が彼女に、死のきっかけを与えてしまった。

 ボクガ、カノジョヲ、コロシタ……?

 一刀は、自分の置かれている現実が、信じられなかった。

 否――これは果たして、現実なのか?

 悪い夢なら――どうか今すぐ、覚めてくれ。

 両腕には、彼女の温もり。

 一刀は彼女の亡骸を、強く抱き締め、温めた。

 彼女の温もりを失いたくない、その一心で。

 十六歳の初夏だった。


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