case1. 間一刀の場合 承
昼休みは嫌いだ。チャイムが鳴ると、すぐにアイツ等は彼女の元へと向かっていく。そうして、いつもの陰惨な罵詈雑言が展開されるのだ。
その光景に、見て見ぬフリをする。それが間一刀にできる、唯一の選択だった。
友達も少なく、クラスでも目立たない存在の一刀は、自分と似た境遇に置かれている一人のクラスメイトに、親近感を覚えていた。それが異性に対する好意であることに気づいてはいるが、大人しい性格の彼は、中々本人に気持ちを打ち明けられないのだ。
そして大人しい性格であるが故に――彼女に対するクラスメイトからのイジメを、止められずにいたのだ。
人付き合いが苦手という彼女の性格は、いじめっ子達にとって格好のネタになった。
授業が終わるごとに数名の女子が彼女の席を囲み、教室中に響く声で、悪口をまくしたてるのだ。彼女は恐らく、クラスで一番、文句を言わない性格だから。
二番目は、たぶん俺。
いじめられるなら、俺の方が良かったんだ。何で、よりにも寄って彼女が。
心に秘めた刃が、ちくちくと突き刺さる。
彼女が傷つけられている姿は、見たくない。ここから逃げ出したい。
しかし、ここに残って彼女を助けてあげたい。力になってあげたい。守ってやりたい。
相反する二つの気持ちが交錯し、結局一刀は机に突っ伏して、遠くから響く嘲り声に、耳を傾けるしかない。
誰か、彼女を助ける勇気を、僕に下さい。
チクショウ。
一刀は、心の中で血を滴らせる刃を、そっと握りしめたのだった。
その日の晩、一刀は寝付けず、布団の中で何度も寝返りを打っていた。
原因は、あの後、授業中に回ってきた色紙である。
「いつになったら死んでくれますか? 葬式の日取りが決まったら教えてね。いかねーけど」「グロテスクな顔晒すなや。マジでキショいから」「※※死ね! ブス!」「今後一切話しかけないでね。菌がうつる」「ションベンくせー! マンコにキュウリ突っ込んで登校してるんじゃね?」
それは、クラスメイト一同からの寄せ書きだった。それぞれのコメントの下には、書いた人物の名字が記入されている。紙面をぐちゃぐちゃに掻き乱すかのような汚い言葉の群れを見て、一刀は心臓が萎縮するのを実感した。
負の寄せ書き。
宛先が誰であるかは解っていた。だが、自分が何をすれば良いのかは、解らない。
周囲に視線を巡らすと、あからさまに焦れったそうな目付きで、四、五人が一刀を睨んでいた。
さっさと書け。彼らの目は、そう訴えている。
しかし――彼女だけは。
ごく自然な動作で――一刀は、ペンを取った。利き腕である筈の右上腕部が、まるでエイリアンハンドの如く自らの意思に背き、ペンを握ったまま離さない。
止めろよ。
心中で、ナイフを握りしめる。刃先から、鮮血が滴った。
何をやっている。早く止めるんだ。こんな馬鹿な事は止めようって、右腕に言い聞かせるんだ。
だけど。
そこで一刀の思考は、停滞する。
止めたところで――何になるというのだ? クラスメイト達が、彼女をイジメなくなるとでも?
そんなの有りはしない。寧ろ俺が下手に彼女を庇い立てしたら、イジメの程度がより高まる可能性すら考えられる。
でも――しかし。
一刀は、マジックペンを持ったまま、硬直する。
「早くしろよウスノロ。後詰まらせてんじゃねえぞ」
背後の席から、そんな野次が飛んだ。ドスのきいた不良口調だ。これ以上モタモタしていたら、背中を一発、蹴り飛ばされそうだ。
そんな。
そんな、こと、言われても。
冷汗が頬を伝う。
震える手を、押さえ。
鼓動する胸を、自制し。
二つの文字から形成される単語を、一刀は書き綴った。
「死ね」
それが、間一刀が初恋の人に送った、初めてのメッセージ。
「……」
募る罪悪感。
絶えぬ劣等感。
白昼の悪夢を思い出し――一刀は布団の中で、打ち震えた。
そして、暗闇の中。
気がつくと。
一刀は、見知らぬ商店街の一角で、知らない駄菓子屋の前に立っていた。
古びた木造建築の小ぢんまりした店舗で、表に「ゆめや」という看板が出ている。入り口と思わしき引き戸は、きっちり閉められていた。
自分は、家の布団で眠っていたはずだ。それがどうして、こんな場所に?
そこまで考えて、彼はこれが夢であるのに気付き、そして気付いた自分に驚いた。
夢を見ても、それが夢であるという事を、自分はあまり知覚できない。いやまあそりゃ、偶にはできたりもするけど。
でもこんな、ハッキリと。
一刀を驚愕させたことがもう一つ。
彼はその、知らない駄菓子屋の前に立ち、知らない引き戸をノック――中に入ろうと、していたのだ。
この店に入れば、願いが叶う。
彼女を助けてくれる人が、いる。
何故だか彼は――そんな確信を、拭えずにいた。
そして。
一刀は息を呑んだ。開けようとしていた扉が、内側から開かれ――長身痩躯のスーツ姿の青年が、冷たい目で彼を見下ろしていたからだ。
「何か、ご用ですか?」
「……あ、いえ」
流石の一刀も、黒縁レンズの奥で光る、猛禽類の如き眼には気圧された。このまま適当に理由をつけて、退散しよう。脳味噌が切実に訴えてくる。その時店の中から、落ち着いた子供の声がした。
「ダメだよメガネ君。お客さん、すっかりビビっちゃってるじゃないか。君の目線からは、『お前を殺す』という強烈な邪気が窺えるよ」
「……私は、ごく普通の対応をしたつもりなのですが」
どことなく腑に落ちない表情で、奥に引っ込む青年。子供の中性的な声が、一刀を招き入れた。
「いらっしゃい、よく来たね。まあ何にもないところだけど、夢だけは溢れているから、寛いでってくれて構わないよ。メガネ君や、お茶とそれから、そこの棚にある煎餅を三人分、取り出しとくれ」
「……ども、お邪魔します」
お言葉に甘えて、店内に踏み入る一刀。手前には昔懐かしい駄菓子屋の定番商品が沢山並べられており、カウンターを挟んだ奥の方は、六畳ほどのお座敷になっていた。
座敷の壁側には、先程の青年が背中を預けている。
そして中央の卓袱台上に――子供が一人、仰向けに寝そべって、コロコロコミックを読んでいた。
十歳くらいの、マントを着た華奢な児童である。男女の区別がつかない不思議な風体を持ち、直立すれば踵まで届いていたであろう赤茶色の長髪が、机上で波打つように広がっていた。
何故か右手にだけ、紫の布が巻いてある。
卓袱台からひらりと飛び降りて――それでも漫画本からは、目を離さぬまま――子供は、座布団に腰をおろした。
「僕は夢々(むむ)。こっちの無愛想お化けはメガネ君という。君の名は?」
奥まで歩き進んでいく一刀。夢々と名乗った怪童は、自分と向かい合って座るよう、向かいの座布団を指し示す。眼は、あくまでコロコロに向けられたままだ。
「は、間一刀……高校一年だけど」
言いながら、おずおずとした動作で、座布団の上に正座する一刀。
「ふうん、一刀くんか。ルビ付けないと分かり難い名前だから、カズちんとでも呼ばせてもらうよ。カスちんでも良かったんだけど、間違えて逆に呼んだらやばいからね。で、カズちん。君は何をしにここへ来たのさ?」
「え?」
そう言われて、一刀は戸惑った。殆ど衝動で足を踏み入れてしまったが、考えてみれば夢の中、しかもこんな他人に対し、自らの願望を暴露しても、仕方ないだけではないか。
だがその一方で、こうも思ったりするのだ。
これは本当に、夢なのかと。
「きみらは、何者なんだ」
一刀の質問に、夢々はニコニコと目を細める。
「『夢』世界の住人だよ。わけあって、君達の夢を叶える仕事なんかをしている。聞いたことはないかい? 最近現世じゃあ、ちょっとした有名人らしいじゃないか」
言われて、一刀には思い当たった。
一刀の暮らす街で、いつの頃からか、実しやかに語り継がれている噂話が有ることに。
強い願いを持っていると、夢の中に夢々という子供が現れ、その願いを叶えてくれるという。
「まさか……」
ごくりと、一刀の喉が鳴る。あんなの、ただの噂だ。それに夢々に会える確率は、そこまで高くないと聞く。
「そのまさかであり、単なる都市伝説じゃあないんだよ。信じられないなら、実感させてあげよう」
言って夢々は、ぴょん、と卓袱台に飛び乗り、一刀の頬に、往復ビンタをかました。
ぺちぺちぺち。
十連コンボ。
痛かった。
夢じゃない。
……けど、ユメだ。
「分かったかな。というわけで、話してみたまえ。哀れな哀れな子羊ちゃんよ。君は一体全体――何を願うんだい?」
元通り座布団に腰をおろし、再びコロコロを手に取る夢々。
取り敢えず――彼らを信じよう。
今の自分は、藁にもすがる思いなのだ。
一刀は、ぽつりぽつり語り始めた。彼女の事。イジメの事。そしてそんなイジメを見て見ぬふりして遣り過す、不甲斐無き自分自身の事。
夢々は途中で何度も頷き、やがて話が終わると、壁に凭れる青年に呼びかけた。
「春だねい。青い春だ。おい、メガネ君。いつになったらお茶と煎餅を用意するんだ。それとついでに、台所からアレを持って来てくれ」
夢々が言い終える前に、メガネの青年は奥に消えた。そして戻ってきた時には、三人分の茶と煎餅、そして金に光る硝子の壺を抱えていた。
「なんだい、これ」
卓袱台に置かれた壺を目にし、一刀は青年に問う。質問には、夢々が答えた。
「ティンカーベルの粉だよ。これを振りかけると、夢が叶う」
それを聞いた一刀の瞳に、凛とした輝きが宿る。
「つまり、これから俺に、その粉とやらを浴びせるってことか」
夢々は頷き、青年から受け取った三つの湯呑の内、一つを一刀へ、残り二つを自分の側へと置いた。
青年が、虚を突かれた面持ちで夢々を見る。
「私の分は無いのですか?」
「何を勘違いしてるんだメガネ君は。僕は、三人分と命令しただけだよ。君の分もあるとは一言も言っていない」
「この依頼が解決したら、お暇をいただく必要がありますね……」
「だけどカズちん、君は本当に願いを叶えて欲しいのかい?」
額に青筋を立てる青年を無視し、夢々は壺の蓋を開けた。砂金の様な粉を一掴みほど握り取って、サラサラ落とす。薄く開かれた眼は、睨むように一刀を見据えていた。
「願いをかなえたら、君はそれなりのペナルティを受ける破目になる。楽をして――楽になれるなんて、思うなよ」
「もちろんさ。覚悟はできてる」
一刀は条件反射的に、そう答えた。
彼女のためなら、何だってやってやる。
だから。
「お願いします。彼女のイジメを――止めさせてください」
しかし。
そこで、夢々は。
「あ、だめだ」
と、思い出したように手を打った。
「いやはや、忘れていたよ。さっきのかっちょいいキメ台詞、言ったのそんなに久しぶりじゃあないなあと思っていたけど――そっか、あの子にも言ったんだった。ほら、カズちんの話に出てきた女の子」
「あの子って……ひょっとして」
夢々の言葉に、一刀は動揺する。夢々は少女の名を口にした。それを聞いて、一刀は耳を疑った。夢々が出したのは、一刀が恋い焦がれる少女の名、そのものだったのだ。
だけど……。
そこで一刀は思考する。
夢々に会える人間はほんの一握り。それが同じ学級から二人も検出されるなぞ、まず有り得ないんじゃ?
「そうでもなくてね。依頼人の近親者とか友達とか、とにかく依頼人の顔見知りは、何故か僕に会える確率が高まるらしいんだよ。世の中って、存外適当なもんだよね」
性別不詳の童は片目を開け、暑さしのぎか、パタパタとマントの裾をはたいた。
「植物状態のお母さんを治してもらう――その代わりとして、クラスメイトからイジメを受けるっていうペナルティを負ったんだ、彼女は。確認の為に訊くけど、彼女がいじめられ始めたのは、一か月ほど前からだろう?」
思い返して見ると、その通りだ。彼女は控えめな性格だったので、突然いじめられ始めたことに対し、一刀は特に妙だとは思っていなかった。
そういえば、彼女の母親が奇跡的に息を吹き返した、という話を聞いたのも、丁度その頃だった。……もし、それが偶然ではないとするのなら。
「……対価をほかの誰かに譲るってことは、できないの?」
「できなくはないけど、オススメしないね。その場合のペナルティは甚大だ」
「いいよ。その覚悟はできてる。彼女はもう、精一杯耐えて来たんだ。彼女の負担は、僕が受ける」
一刀は無造作に砂を掴み取り、自身の頭上へと振りかけた。溜息交じりの目で、その様子を見つめる夢々。
「分かったよ。好きにしろ。じゃあもうここに、長居は無用だね。店を出たらすぐ現世に戻れるから、後悔とかするなよ」
投げやりな口調で、童は言う。しかしそこで、ふと思い立ったことを口にする。
「あ、でもちょっとまて……一応ペナルティの話を」
忠告する夢々を無視し、
「わかった、ありがとう。じゃあまたっ」
一刀は気さくに片手を上げ、うきうきした足取りで店を後にした。彼女を、助けられる。それだけで、胸が弾んだ。
君の不幸は、僕が受け持つから。
「『じゃあ』って……これが今生の別れになること、知らないのかな」
頬杖をつき、開けっ放しのドアを呆れたように眺める夢々。現世の人間は、一人につき一回しか、夢々に会う事が出来ない仕組みになっている。一刀はそれを、知らなかった。
壁にもたれかかった青年が、夢々に尋ねる。
「良かったのですか? 彼がどのような負担を受けるか、教えてあげなくて」
床に伏せて読書を再開させつつ、溜息交じりに夢々は反論した。
「教える間もなかったじゃないか。まったく、根暗な奴ってこういう時に限って、妙に張り切りだすからな。予測不能だよ。ていうか何、メガネ君。ひょっとして彼のこと、心配してあげてるのかい」
「勝手な解釈をしないでくれますか」
ライオンすら殺せるほどの視線で、夢々を睨む青年。コロコロのページを捲りながら、夢々は平然と、からかう様に目を細める。
「やれやれまったく、素直じゃないな君は。しかしまあ確かに、これはちょっと考えすぎかもしれないけど……」
パタンとコロコロを閉じ、仰向けになって天井を見つめる夢々。
そこに――あの歪んだ笑顔は、無い。
「カズちん、このままだと死ぬかもね」