愛した人の子を王にした女の手記
誰にも心を受け取って貰えない自分を慰める為に、このノートを書くことにした。私が死んだら誰かが見つけて読むかもしれない。あるいは誰にも知られぬまま朽ち果てるかもしれない。
私の婚約者テンダネスは王太子だった。ある時、暗殺者に襲われて行方不明になった。1年後、子供を抱いた女性を連れて彼は帰還した。子供は王家にしか現れない魔法の力を持っていた。
「記憶を無くして、本当に怖かった。身体の傷も心の傷も献身的に寄り添って癒やしてくれた人なんだ。アイネ、どうか理解して欲しい」
狭い秘密の会議室で、私は完全に独りだった。王、王妃、王太子、生まれた子供の母親である狩人の娘。そしてわが両親。それが皆同じ要求をしてきた。
10の歳から6年間、睦まじく過ごした5つ歳上の王子様。悩みも聞いた。課題も手伝った。共に公務も果たした。それはなんの価値もないことだった。
「魔法の力と服装から、王族だろうとは教えられたんだ。でも、何も覚えてなくて。受け入れるのが怖かった」
狩人親娘は端から通報しなかったのだ。だが、涙脆い王家の人々はそれを許容した。
「グラン宰相、そなたの娘に国母の誉を与える」
「勿体ないお言葉です」
「この上ない栄誉でございますわ」
父母に目線で促され、私も口を開く。
「謹んでお受け致します」
つまり、私は婚約者の地位を追われず次期王妃となるのだ。書類上の婚姻は一年前。王太子テンダネスと狩人の娘キアーラとの間に生まれた婚外子を、正統な王族とする為だ。その子は私の息子として王家の戸籍に加え、公務は私が行う。
貴賤婚は禁止され、非嫡出子は戸籍に迎えられることも、ましてや王位を継ぐことも不可能なわが国である。特例として秘密裏に処理する必要があったのだ。
婚約破棄された女と謗られつつ隠遁者となる、そんな不名誉を免れたとして、私は感謝をさせられた。泣くことも許されず。薄ら滲む涙に非難の眼差しが突き刺さる。
一方、王太子の子を健康に産んだ狩人の娘には、一同から労いの眼差しが注がれた。かけられる声には敬愛すら滲む。
「キアーラよ、王太子の心身を癒し、支え、大義であった。今後ともよろしく頼む」
「身分は乳母ですけど、よき王母になるのですよ」
「重責をお引き受けいただき、宰相めからも感謝いたす」
「宰相閣下の妻として、わたくしも微力ながら力になりますわ」
狩人の娘キアーラを、国の最高幹部が丁重に扱う。娘は顔を赤くして緊張しつつ、真面目な顔で答えた。私のほうは誰も見ない。
「何もわからないんで、教えてください」
「勿論だ。優しいキアーラ。受け入れてくれてありがとう」
「そんな。テン、あ、いえ、殿下、こちらこそ」
「よい、畏まるなキアーラよ」
「そうですよ、もうわたくしたちの娘なのですから」
「テンでいいんだよ」
「あの、よろしくお願いします」
王家のみならず、宰相夫婦こと我が両親も親しい微笑みを投げかけている。
「気軽に相談なさい」
「よろしくね」
もう私は居ないものとされているようだ。父母の大切なのは王家の血筋を守ること。わがグラン一門は、建国以来の忠臣なのだ。この国は精霊と人が出会い手を取り合って出来た。わが祖先はその縁結びをしたという。今もまた、王太子と狩人のご縁を取り持つ立場を買って出たのだろう。
王太子テンダネスの戴冠後は、公式行事は王妃として行った。ルミナスと名付けられた王子やその兄妹たちと、私は関わることが少ない。書類上その全ての子供たちは、私が産んだことになっているが。視察には必ずルミナス王子の乳母キアーラも同行した。
舞踏会でのパートナーは格式を重んじて王妃たる私。公務の公式的随行者も私だ。滑稽なまでに伝統と法を守り、私は王妃の役を演じた。
私には、私の地位に見合う暮らしが補償された。ルミナス殿下の即位の後は、王太后誕生日も盛大に行われた。そつのない記念品も贈られた。私は私の役割を果たしてきた。周囲も周囲の役割を果たした。
私はいま、生涯の終わりを予感している。ついぞ王の居室に呼ばれることも、王からの訪いを受けることもなく。秘密は噂となって漂う。同情を愛と勘違いした殿方からアプローチを受けることもあった。しかし私は自らの役目を逸脱することなく、心身の操を護り通した。
私の真心は、誰にも受け入れて貰うことなく寂しく消えてゆく。精霊の教えによれば、人も精霊も1人でも心を受け取ってくれる者があれば、精霊郷へ旅立てる。そこでは憂いも苦しみもなく、ただ幸せが待っているのだ。
尊重はされた。無礼な行いからは守られた。
だが、それが何だと言うのか。
私は精霊郷に辿り着くことは決してない。精霊郷へ行かれない者の魂は、この世の生が終わると共に消える。
ただ、消えてゆく。
※※※
手記はそこで終わっていた。古ぼけた赤い革装の手帳の、中程にある1ページ。まるで隠すかのように、栞もなく残された手記だった。美しく力強い筆跡は、アイネの生前記入した書類にあるものと一致した。
「燃やせ」
長生きしたアイネの手記を読み終えた、テンダネスの曽孫モデスト王が興味なさそうに片手で手帳を投げる。
「かしこまりました」
側に控えていた青年が丁寧にお辞儀して、立派な執務机から赤い手帳を拾いあげる。
「そちが責任を持って、人知れずな」
「はい」
青年はその後の業務を淡々と終える。夕刻になり帰宅すると、一言も発せず自室に入った。閉まったドアに寄りかかり、青年は色褪せた手帳の赤い表紙を切なそうに撫でた。
「アイネさま」
青年は、アイネの兄の玄孫ガイウスである。アイネと兄は歳がだいぶ離れており、兄妹の情は薄かったという。宰相職をついだ兄の血統は、王家の秘密を知っていた。アイネの居室に立ち入ることが出来たのは、秘密を知る者だけ。側仕えの侍女たちはグラン宰相家の傍系から慎重に選ばれた。
葬儀後しばらくして、側仕えの侍女とガイウスが故人の部屋を片付けるよう命じられた。宰相職を受け継いだ長兄は、そのような瑣末な仕事はしない。
豪華ではあるが、親しい人の誰も訪れないアイネの居室は、その埋葬後早々に引き払われたのだ。そこで発見された手帳が現王に手渡され、ガイウスに廃棄が任されたのだった。
ガイウスは発見時に目を通していた。隣にいた侍女の進言で一旦現王に預けられたものの、幸いたいした興味を持たれることもなく、ガイウスの手に還ってきた。
「なんとお痛ましいご生涯でしょうか」
ぽたり。
磨き抜かれた高級モザイクの床に、青年の涙が落ちる。
ぽたり、ぽたり。
声を殺して泣くガイウスの涙は、足元に小さな水溜まりを作った。室内には侍従が残していった燭台が、五本の蝋燭に燈をゆらめかせている。
蝋燭の影が涙の水溜まりに波模様を作る。ガイウスは床を見ることもなく、閉じた瞼の隙間から限りなく涙を流す。ガイウスの喉は震えている。赤い手帳を胸に抱きしめ、白い手袋の指先には力が入って皺が寄る。
どれだけ時が過ぎただろうか。夕食の知らせさえそのままにして、ガイウスは同じ場所で泣き続けていた。
ぱしゃん。
それまでとは違う、どこか軽やかな水音に、ガイウスは思わず目を開けた。
「なかないで」
ガイウスの涙が作った水溜まりから、透明な小人が飛び出した。小人は少女の姿で、ガイウスの顔の前までやって来た。短い髪は、水で出来ているらしい。膝の出る簡単な服を着ているが、それも透き通っている。
「アイネの魂は、あなたに届いたわ」
「え?」
「あなたが受け取ったアイネの魂が私を生んだのよ」
「あなたを……?」
「そうよ、涙の精霊よ」
「アイネさまの魂は、消えることが無くなったのですね」
「ええ、間に合ったわ」
「精霊郷へおいでになれるのですね」
「ふふ、違うわ」
ガイウスは再び消えかける希望に縋る。
「消えないのに、何故です!」
「精霊を生んだ魂は、普通の魂と違うの」
「一体どんなふうに違うのですか?」
「精霊郷に旅立つ前にもう一度だけ人の世を生きるのよ」
涙の精霊は、その名に似合わず輝く笑顔を見せた。
「幸せな人生をね」
「この国で?」
「心を受け取った人の側に生まれてくるわよ」
その日からガイウスは、涙の精霊のアドバイスを受けながら国を出る準備をした。もしも魂が苦い記憶を持って生まれ変わったら、この国では辛いだろうと考えたから。
2年後、留学の機会を手に入れたガイウスは、逗留先の名家に婿入りしてしまった。花嫁カエリーには涙の精霊が見えたのだ。
「この子が見えた人は初めてだよ」
ガイウスが口説けば、涙の精霊が後押しをする。
「ふふっ、あなたは、すべての涙が解る乙女ね」
悲しい涙、苦しい涙、悔しい涙、嬉しい涙、清らかな涙、そして目にゴミが入っただけの涙まで。カエリーは、そのすべての涙を心から理解することが出来たのである。
「変わったことを仰る方ねえ」
初めは警戒したカエリーだったが、ガイウスの誠意は次第に彼女の心を溶かす。家主の娘という立場で、接する機会も多かった。
「どうか僕の心を受け取って、僕の花嫁になってくれ」
「ふふ、しつこいわね。仕方のない人」
「ねえ、お願いだ」
「ガイウスはおすすめよ、カエリーとお似合いよ」
「もう、あなたたち。いいわ。結婚してあげる」
「ありがとう!」
ガイウスはカエリーを空高く抱き上げて、弾ける笑顔に口づけをした。
「娘をよろしく頼むよ」
「はい、生涯守ります」
真面目で優秀なガイウスは、逗留先で信頼を得ていた。家族にも祝福されて、ふたりはめでたく夫婦となった。
「それじゃ、生まれたらよろしくね」
「え?」
結婚式が終わったその夜、涙の精霊は、2人にも見えなくなってしまった。
さらに1年が経ち、女の子が生まれた。娘はラクリマと名付けられ、アイネとよくにた面差しに育っていった。勤勉で、賢く美しい少女であった。
アイネと違うのは、彼女がよく泣くことだった。嬉しいにつけ、悲しいにつけ。アイネが流さなかったすべての涙を、ラクリマが代わりに流しているようだった。
「リマ、また泣いてるの?」
抜けるような青空のもと、真っ白な薔薇が咲き乱れる庭で、水色のドレスを着た少女が泣いていた。
「違うわ!違うもん。スリールは意地悪ねっ」
泣き顔を隠す少女の柔らかな栗色の髪を、小さな白い手が撫でる。上等な緑の絹が夏の陽に眩しく光り、白い手の少年の微笑みを飾る。
「意地悪なもんか。リマの涙は綺麗だ」
少年はきっぱりと言う。少女は指の先まで赤く染めて、またいく筋か涙を零した。
「あれ?」
少年がふと地面を見ると、少女の涙が溢れた先で白く小さな輝く花が開いた。それは涙の形をして、こうべを垂れる黄緑色の茎に連なっている。
「可愛いくて、リマみたい」
更に赤くなってはらりはらりと涙を流すラクリマを、スリールはぼうっと眺める。少年の白い手が、少女の栗色も艶やかな髪から、ほんのり色づく頬へとそっと滑る。
「え?」
「リマ、俺の精霊」
2人の視線は絡まって、幼さの残るふたつの息が密やかに交わった。
後の世にその花は、愛の涙と呼ばれるようになった。愛し愛される感涙から生まれた花だと伝えられる花となったのだ。愛の涙が咲く庭で誓った恋は必ず実る。そんな伝説も生まれたという。
お読みくださりありがとうございます