月一の報告場 第二十六 読書の意義
読書の意義なんて無いですよ。読みたいから読んでいるんです。
用事が詰まっている、という経験のない鬼桜です。
というか、そもそも分刻みのスケジュールを守れるような身体をあいにく持ち合わせていないので、身の丈に合ったライフハックですよね!
……な、なんか急に寂しくなりましたから貴方方とお友達になって差し上げてもよくってよ〜!──いえ、なんでもないです……
というわけで今回は読書の意義です。
普段の議題なんてどうでもいいのですが、これはなろうを読んでる方にとっては意外と頭をよぎることではないですか?
かくいう自分は、最近読みたくなるような話が中々見つからず読書量が減りつつあります。
そんな私への戒め?いえ、見つめ直しも兼ねて書こうかな、という感じです。
一つが知識の吸収ですね。
『本』それは私にとってその大部分は小説ですが、書物と言う物の本質は『過去から未来へ知識を継承させるもの』であると思います。
古くは日々の日記から始まり、帳簿や書状として情報を記録してきた。
それがいつの日か、大多数の他者に向けた知識の共有を『本』という形で広めるようになりました。
代表的な例で言えば聖書などでは無いでしょうか?
信仰を広める方法が口頭のみであった頃と聖書という形あるものとして刷った後では信者の増え方が違うと思います。
『本』の素晴らしいところは理解できるまで自分の中で反芻できることでしょうか?言葉のように瞬間この世に現れる不安定なものとは違い、形として残り続けるからこそ何度も確認ができる。
僕のような物わかりの悪いものにとても優しい知識収集ツールですね。
2つ目は娯楽としての存在です。
平安貴族は暇を持て余したため、詩を詠い、話を書き、句を読んでいたそうです。
後世に伝わっているという事はそれは公開されたものだったのでしょう。それも恋物語だ。
つまり書物が教養知識として学ぶものではなく、娯楽消費されるようになったのです。
絵本、童話、教訓、小説に漫画、そしてライトノベル、現代には実に様々な娯楽『本』が過去から、今から齎されています。我々はその恩恵を未来と比べてどうかはわかりませんが最も受けているのです。
僕は感謝の言葉とを贈るとともに先人たちの力に感服するばかりです。
書く者がいれば読む者もいる。いや、それはわからない。
創作は書く人がいなければ読む人は生まれず、世に出さなければ自己満足に収まります。しかし、誰も手に取らない本に読者は存在しないのです。ひとり生き残った世界でラブレターを書いたって、読む相手はいないのです。
そして最後の意味合いです。
それは、、暇つぶしです。
はい。
一つ目も二つ目も内包したこれこそが真実です。
読書など時間に暇のあるものにしか出来ません。
今日を生きることに必死な人は、今後のためのキャリアを積み上げるための教習本や哲学本など読みません。
生きるだけのための知恵など口頭で必要な場合に伝えるだけで良いんです。先人はわざわざ百年以上遡らなくてもいるんですから。
知識の収集なんて自己満足ですから。
読書が生き甲斐の方は暇つぶしのために生きているのか……?
私はこれが本質だと思っています。というか真にこなさなければならない課題以外は全て暇つぶしですよ。
僕は現実逃避の挙げ句暇つぶししか行ってないので、凡そ人間と呼べる下地を持っていないことになります。ここまで行ってしまえば駄目人間です。
ですが、実際に私達は暇つぶしを勘違いしている節があるのでは無いでしょうか?
いくら高尚な事を言ったって、生きるために必要なこと以外はどれだけストレスを溜めたところで暇つぶしでしか無いんですよ。
このご時世人の生活の半分以上が暇つぶしに占められているのではありませんか?余暇の合間に生の消費をしていませんか?余暇がメインになっていませんか?
私にとって、真に暇つぶしを暇つぶしとして行っている様なワーカーホリックの方は理解ができないんですよね。私に守るべきものがないからなのでしょうか?
だとしても私にとって生活の本質は余暇の中にあると思っています。
なんでも良いんです。だって暇の捻出は自己判断だものね。そう、お暇なのだからしょうがない。
ということで近頃一向に増えない執筆中小説の数ですが、97です。
僕という生き物はゲームと食事と音楽とラノベ漫画なんていうありふれたものだけで構成されている人間的物体なのですが、忙しさの中にしかモチベーションというものは持続せず、より高位のやりたいものを前にすると今思うやりたいことより前者を優先してしまいます。暗がりの中ベットで一人構想を立てると鬱になるからねしょうがない。
こんな議題を立ててしまったがために数ヶ月悩んでいたのがアホらしい。我ながらどこかに妥協点を立てたいものです。
本の本質は、知識に知恵、意見に感覚、概念に想像の共有です。




