音若
一筋の涙がついと頬をぬらした。
「あら、泣いていらっしゃるの」
若君に膝枕をしていた女子が、顔を覗き込むように尋ねた。
季節の頃は秋である。
まだ夏の蒸し暑さの残る、上着のいらないそんな日のことであった。
「うむ、洋子か……」
呼ばれた若君が寝ぼけまなこで女子の名を呼んだ。
「そうです、洋子ですよ、若君。もうそろそろ起きねば間に合いませぬ」
洋子は若君にしていた膝枕を解き、さっとその場に立ち上がった。
「痛い」
若君は床に頭を打ち付けて、その場に丸まっている。
「さあさ、出立の準備をなさいませ」
「洋子、もう少しだけ」
「いけません子供ではないのですから」
若君は口をとがらせながら起き上がった。
「仕方がないなあ」
「そう、仕方がないのでございます」
若君の崩れた着物を直し、洋子はその場を片付け始めた。
「洋子は、働き者だねえ」
「若君が、だらしないのでございますよ」
「これは痛い」
二人は顔をほころばせながら出立の準備をする。
準備をし終えると二人は玄関まで急ぎ、若君が牛車に乗るのを洋子が見送る形となった。
「では音若様、お気を付けて」
「うむ。ではな、洋子」
音若を乗せて牛車が出立する。
牛車が向かうは一路、治部省雅楽寮である。
本日の方違えは牛の方角であるので、そのように牛車は進んだ。
雅楽寮に到着したところで牛車とは別れ、音若は建物内に進んでいく。
今日は朝から笙の音が聞こえているので、雨宮が励んでいるに違いなかった。
雨宮とは同期の女子である。
覗くとやはり、見習いの雨宮が賢明に稽古を行っている最中であった。
「おはよう雨宮」
音若は言うと雨宮の隣に陣取り、己の龍笛を取り出した。
そうして雨宮の笙に添わせるようにして龍笛を奏で始めた。
四半時ほど共に奏でていたろうか、そうこうしているうちに師匠の義友と為家が部屋へ入って来ていた。
「雨宮、悪くないぞ。音若、もう少し音を下げて」
朝から厳しい師匠らの指摘がとぶ。
他の見習い五名は、二人の演奏を聴きながら離れた窓辺でくっちゃべっていた。
始業の鐘が鳴った。
音若を含め七名いる見習いは席を整え楽器を机の上に出し演奏の用意を始めた。
「おはよう諸君」
「おはようございます師匠」
今日も朝の挨拶から始まった。
「今日は一段昇級する者がいるのでその発表から始めようと思う」
言うが早いか早速、音若の名が呼ばれた。
呼ばれたのは音若を含め三名であった。
「今呼んだ者には新たな楽器が貸し与えられるので前へ取りに来るように」
音若は喜び勇んで取りに向かった。
新しい楽器である。
どんな音色が出るのか楽しみで仕方がなかった。
「おめでとう音若」
席に戻ると、隣の席の雨宮から祝いの言葉をかけてもらった。
雨宮は残念ながら選にもれてしまっていた。
とはいえ、これから舞子を入れての演奏会の練習である。
皆席を立ち、舞台の用意されている訓練場へと向かう。
到着すると既に舞子の生徒たちが練習をしていた。
その中の一人と、音若は懇意にしていた。
目が合い、にこりと笑い合った。
舞子の名を『史子』といった。
演奏が始まった。
新しい楽器の音は心地よかった。
耳のいい史子も気づいたのか、気持ちよさそうに舞っている。
舞いながらふいと視線を音若に向ける。
音若は視線を受け取りながらいっそう龍笛に力を込める。
二人にしか通じない秘密の目配せであった。
夕方、自邸に戻ると祖母の良子が迎えに出てくれていた。
家の者に足を洗ってもらいながら良子の一日を聞く。その後、必ず「本日はどのようでしたか」と聞くので、あったように答えると目を細めてたいそう喜ぶのであった。
音若は若いころに両親を相次いでなくし、養子に出ている身であった。
しかし祖母と二人暮らしの方が気が楽なのでそのようにしているのであった。
本日も食事を終えたら女子の元へ通う。
これは音若の日課であった。
今夜は『玲子』の番であった。
牛車を用意し、祖母に挨拶をし、音若は玲子の元へ向かった。
牛車が到着すると、玲子が迎えに出てくれていた。
そうして玲子に誘われるまま彼女の部屋へ赴き、彼女を傍に置き、今夜も龍笛を奏でるのであった。
「本日は私のところへ来てくださりありがとうございます」
笛の音が途切れたところで玲子が口を開いた。
「こうして捕まえていられるのもまた今夜を置くとしばらくないと思うと寂しくて寂しくて」
「そう言わないでおくれ、玲子。こうして来ているのだからねえ」
「さようでございますとも。ええ、面倒なことは言いますまい」
そうして音若は再び龍笛をかき鳴らすのであった。
しかし今日は具合が違った。
見上げる空に、何やら白い煙のようなものが浮いているのである。
「玲子、玲子、あれが見えるか。あの白い煙じゃ」
「ええ、見えます。なんでございましょう」
二人が顔を見合わせている間にも、白い煙は人の形を成していったのである。
「玲子、あれは人じゃ。生霊じゃ」
「あな、恐ろしや」
音若と玲子は、開け放した縁側から部屋の中へ入り、几帳を立てて景色を仕切った。
待つことしばらく。
「まだおるかの」
音若が様子を窺いに顔を出すと、そこにはまあるい月が一つ、空に浮かんでいるだけであった。
「はて。狐にでも化かされたかな」
「冗談ではございませぬ。明日陰陽寮へ出向きなされ」
「そうだねえ。面倒だけれどそうも言っていられないねえ」
音若は今夜はもう龍笛をしまい、玲子との晩を楽しもうと決めたのであった。
翌日、音若は陰陽寮を尋ねた。
「ごめんくだされ」
「はあい」
気の良い返事が返ってくるも一向に顔を出さない陰陽寮を怪訝に思いつつ、音若は返事のした方へ向かって歩を進めた。
「おまちどおさま」
するといきなり目の前に陰陽師と思しき男が姿を現した。
「私の名は康親、陰陽師でございます。どちらさまで」
「私の名は音若、雅楽寮の見習いでございます。どうぞよろしく」
「お待たせして申し訳ない、ささ、こちらの部屋へ」
言いながら康親は先導する。
康親は成人前の名を『初春』といった。
部屋には師匠と思われる年配の男性が二名と、康親と同年代と思われる陰陽師が二名いた。
音若は誘われるままに席に着いた。
「本日は何か相談事でもおありですか」
康親は目を輝かせてたずねてきた。
「まあ。相談事なんですが、昨夜生霊を見ましてね」
音若が面倒くさそうに言う。
「念のためにと思ってこちらへ参りました」
「なるほど。どのような生霊でしたでしょうか」
「白い煙のようなもので、形は女の霊だったと思います」
「なるほどなるほど」
康親はそう言いながら、さらさらと何やら記帳してゆく。
「では早速ですが今晩ご一緒してもよろしいでしょうか。何か手がかりがあるやもしれませぬ」
「はあ、まあ、どうぞ」
あわただしい陰陽師もあったもんだと思いながら、音若と康親はそう約束をとりつけて解散した。
陰陽寮を出てすぐに、音若はある男とぶつかった。
「ああ、これは失礼」
「こちらこそ」
男は顎髭をひねりながらそう返してきた。
その男の名を頼明といった。
さて夜がきた。
約束通り康親は仲間を引き連れてやってきた。
連れの名を『義則』と『夏宮』といった。
義則の成人前の名を『竹丸』という。
「ようこそおいでくださいました。こちらは祖母の良子です」
「よろしゅうに」
そう言うと良子はぺこりとお辞儀をした。
お辞儀を返す陰陽師連中に対し音若が言う。
「では部屋へ参りましょう」
四名は連れだって音若の部屋へと渡って行った。
「こちらが私の部屋でございます」
康親たちは奥の一間に通された。
衣類が床に脱ぎっぱなしになっていたり、几帳に引っ掛けられていたりしたので最初は盗人に入られたと思われたがどうやら違った。
康親が聞くに、本人の性癖だという。
「では失礼して」
康親一同は床の何も転がっていないところを選んで腰を落ち着けた。
音若は衣類の脱ぎ散らかしてある畳の上にそのまま腰をおろした。
「して、何から始めましょうか。夜は長うございます」
音若が尋ねる。
「そうですね、まずは物の怪がこの部屋に巣くっていないかをお調べいたします」
そう言うと康親は義則と夏宮と共に呪を唱え始めた。
「『邪見』ならびに『全点透視』」
三名が三方を見据えている。
音若はしばらく声を発することが出来なかった。
「そこまで」
康親の号令で三名が緊張を解いた。
「どうだった」
「こちらは異常なし」
「こちらには確かに女の生霊の跡が見えたよ」
夏宮が応えた。
「どうやら本当に女の生霊に憑かれているようでございますね」
「いや、見間違いではございませんでしたか」
音若は身震いをした。
「今夜また出るかどうかは分かりませぬが、とりあえず一晩お供をいたしましょう。それで出なければよし、何か出れば対処いたしまする」
「どうぞよろしくお願いいたします」
そういった会話が成されて半時ほどたった。
音若は元来沈黙が苦手であった。
そのためここで一興と、龍笛の演奏を申し出てみたのである。
「かまいませんよ」
康親一同は快く引き受けてくれた。
月夜の晩に、龍笛が響いた。
その音が一音とくに響いた時であった。
いきなり音若の姿が消えたのである。
そうして代わりにその場に現れたのは、同じく龍笛を奏でていた物の怪であった。
康親一同はまず自分たちの目を疑った。
その次に、目の前の現象を受け入れ当てはまる事例を記憶から探った。
龍笛を奏でていた物の怪はひどく驚いているように見える。
「『入れ替わり』だ」
康親がつぶやいた。
『入れ替わり』とは、人界と妖界の両方で二名が寸分たがわず同じ動作をすると入れ替わってしまうという一種の現象であった。
「初めて見る」
「私も」
「俺も」
康親と夏宮と義則は目を丸くして物の怪を見やった。
物の怪は人語を理解する蛙であった。
「どうして僕が人界に」
まだ状況を呑み込めていない物の怪に、義親たちは現象の説明からはじめることとなった。
蛙の名は『奏』と言った。
奏は義親たちのいう事をよく聞いた。
義親一行は、奏を妖界へ戻すことと、音若を妖界から助け出すことを決め、急ぎ『入り口』のある願良寺へ赴くことにした。
一方の音若はというと、目の前がいきなり暗くなったかと思うと次の瞬間には周囲を物の怪に囲まれていたのである。
「な、なんじゃこれは」
左右を見ると雅楽器を持つ兎や猿がおり、みなの口があんぐりと開いておった。
互いに動けぬ状態であったが、音若はおそるおそる問うてみた。
「わしは龍笛をやる。おぬしらは何をやる」
すると兎が応えた。
「私は笙をやる。猿は篳篥じゃ」
「ではひとつ曲を奏でるがよいか」
「よかろう」
音若の勢いに物の怪ものりにのった。
一曲が終わった時には互いに息を切らせながら健闘をたたえ合った。
そうこうしているうちに音若の元に人間の坊主がやってきて言うことには。
「お主は間違いで妖界へ来てしまった。人界へ戻してやるからついてこい」
愛想のよくない坊主だと思いつつ、音若はそうであれば仕方なしと、兎や猿に礼を言い、その坊主について行ったのであった。
康親一行は願良寺に到着すると牛車を降り、長い石段を登っていた。
夜であるため灯りを頼りにしながらではあったが、月明りが明るかったため足取りは軽かった。
康親一行が願良寺を登り切ったとき、境内に人影が待ち構えていた。
住職の玄庵であった。
「こんな夜中に大勢でようこそおこし下さいました」
言うと玄庵はぺこりと礼をした。
「こんな夜中に悪いね」
康親は玄庵にいたずらっぽく言い返す。
年のころは玄庵の方が十ほど大きいが、二人は幼馴染であった。
「『入れ替わり』が起こった。この奏君を妖界へ返したいのと、こちら側の人間を妖界から助け出したいんだけど、裏の『入り口』への案内をお願いできるだろうか」
「『入れ替わり』か、すごいな、初めてだ。勿論そういうことなら案内させてもらうよ」
康親一行は玄庵に案内され、寺の裏手にある滝へと誘われた。
『入り口』は滝の裏にあった。
「では私から」
玄庵は言うが早いかそそくさとあちら側へ渡ってしまった。
玄庵に続いて一行も歩を進めた。
滝の裏をくぐるとすぐに妖界である。
「お早いおつきじゃな」
玄庵たちが妖界へ移動するやいなや、声をかけてきた者がいた。
杉林が月明りを隠して顔が見えないが、その声は物の怪の大将、狸殿であった。
「狸殿、なぜここへ」
康親が問う。
「なぜもなにも、人間が『入れ替わり』でこちらへ来てしまったと聞いてな」
「さすがお耳が早い」
「もう既に安全にかくまっておる」
「それはありがたい。こちらにも物の怪の奏君が来ておりまして」
「おお奏。よかった心配しておったぞ」
奏は狸殿の大きな腹にぴたっとくっついて一声鳴いた。
「ご無事で何よりでした。してこちらの音若は」
「こちらにございます」
その声はまさしく音若であった。
「ああよかった、何事もありませんでしたか」
「物の怪のみなと一曲演奏してまいりました」
「なんと」
それにはさすがの康親も舌を巻いた。
「奏君……というのか、同じ龍笛じゃな」
音若がぴゅいと一音吹いた。
「そうですね」
奏がぴゅいと返す。
「また遊びに来てくれ。一緒にやろう」
「そうじゃな、一緒にやろう」
音若と奏はそう言うと互いに手を取り合った。
「では帰りましょうか」
康親が先導する。
「ではまた」
「ではまた」
月明りの明るい、そんな夜であった。
人界にある音若の自邸に戻ると、康親がきりだした。
「今夜はもうお開きにいたしましょうか」
「そうじゃな。女の生霊どころではなくなってしもうたからの」
そういう訳で皆それぞれの牛車に乗り帰って行ったのであった。
自室に戻り一息ついた音若は、例のごとく上着を脱ぎ捨て畳に横になった。
すると脱いだばかりの衣の間から白い紙がひらひら風に揺れていることに気が付いた。
「はて」
それは陰陽師の使用する形代のように思われた。
翌日、音若は訓練が終わると陰陽寮へと足を向けた。
「ごめんくだされ」
「おや音若殿。例の件で」
康親が出迎える。
「いえ、別件です」
「ではとりあえずこちらの部屋へどうぞ」
音若は通された部屋の椅子に座るなりぶっきらぼうに尋ねた。
「この形代らしきものが、昨夜私の衣類から出てきました。見覚えはございませぬか」
「は」
「なんぞ言えぬ事をされていたのではあるまいかと思いましてな」
「そのようなことはございませぬ。しかしその形代、気になりますな」
「とにかくいい気はいたしませんので、この形代はここへ置いて帰りまする」
「分かりました。確かにお預かりいたしました。すぐに力になれず申し訳ない」
「では」
そう言うと音若はそそくさと陰陽寮を後にした。
後に残されたのは、謎の形代であった。
その翌日の事であった。
音若がいつものように出仕をすると、同僚が数人がかりで音若を囲みこう言うのであった。
「おい音若、おぬし女の霊に悩まされているらしいな。女遊びがたたったか」
「陰陽師など何の助けにもならんぞ。やめておくがいい」
音若は陰陽寮の誰かが今回の件をばらし、それが噂になっていると当たりをつけた。
「あ奴等は信用ならん」
音若は龍笛に力を込めそう心に刻んだ。
今日も訓練後に陰陽寮に寄ろうかと思い手前まで来たものの引き返すことにし、振り返った時であった。
再びあの男とぶつかったのである。
「ああ、すみませぬ」
「こちらこそ」
互いにばつが悪い顔をし、一呼吸を置いて吹き出した。
「よくぶつかりますね」
「そうですね」
ひとしきり笑い、音若は何やら肩の力が抜けたように思われた。
「私は雅楽寮の生徒で音若といいます」
「私は陰陽師の頼明と申します」
そのままそこで当たり障りのない立ち話をし、二人は分かれたのであった。