悪魔誕生
「旦那様、失礼いたします。」
エルリカを抱えたメイドはジェームズの部屋のドアを開けた。
「死んだのか?」
メイドに背を向けるようにして立っていたジェームズは振り返ることもなくそう尋ねた。
「いえ、お嬢様は生きております。」
「お嬢様?女なのか。」
そこでやっとジェームズは振り返った。ジェームズの目には狂気というか見た事のない色が広がっていた。
これが人間の瞳の色なのかと身震いしたくなる。ジェームズはカツカツと足音を立てて近づいた。
メイドは反射的に後退りそうになったがなんとか堪える。本能が警鐘を鳴らしていた。逃げろ、逃げろと体が動こうとする。
「はい…女の子でございます。」
唇が震えている割には流暢に発音できたと思う。生まれたのが女の子であることを怒っているのだろうか。女でも爵位を継げるようになったとはいえ、男よりは継承序列が低く優先されにくい。
まだ女が爵位を継ぐなんて…とまだまだ理解が追いついていないことから男の子を分家から引き取ることも珍しくない。やはり男の子を望んでいたのだろう。
「そうか。」
ジェームズのその言葉に続く言葉が出るのは暫く経ってからだった。何か考え込むようなそぶりをしてから次の言葉を発した。
「強い血筋だ。生命力の強い子だ。」
本当に氷水に浸けて生き残れたらそうかもしれないが、生まれたての赤子を氷水に浸けて死ぬなんて子供でも知っていることだ。
エルリカはちゃんと赤子らしく温めに温められ、大事にされたので余程のことがない限りは死ぬことはない。
今はさもこの子が氷水から奇跡の生還をしたかの様に振る舞わなければならない。
「はい、その通りです。」
「わかってくれるか。」
その狂気に満ちた表情は嬉しそうだった。ジェームズにとっては嬉しかったのかもしれないがメイドからしたら恐怖でしかなかった。
「立派な後継者が誕生したのだからあの女はもう不要だな。」
「え?」
何を言ったのか。信じたくはなかった。もう…必要ないのか、奥様は。
いったいどうするつもりだ…と思った時もう想像がついてしまった。赤子も殺せる非道な男。その『必要なくなった』はすなわち死。
女、子供に殺すのを躊躇うほどの人間性など残っているはずがないのだ。
「お前、名は何という。」
「マーシャです。」
名前なんかよりも早く…マリアの元に戻りたかった。ぎゅっと腕に抱えているエルリカを無意識に抱きしめる。
殺されてしまう…あんな素晴らしい人が。
マーシャは貴族家の出身ではなく、裕福な商家の娘だった。貴族のように非労働階級ではなく労働階級出身である為、仕事と生活は直結していた。
貴族は平民なんかとは違う生き物だと思っていた。だから貴族なんて嫌いだった。
しかし生きていく為には金が必要で家の商売があまりうまくいかなくなってきたから家を継ぐのではなく、出稼ぎに出るという選択をとった。
公爵家の下っ端メイドとはいえ公爵家に雇ってもらえたのは運が良かった。
しかしまだメイドとして働き出してから数年しか経っていないのに、奥様の身の回りの世話を任されたのは驚きだった。
こういうのはもっと年数を重ねたベテランメイドが担当するべきだろう。こんなまだまだ新人に任せても大丈夫なのかと心配になった。
奥様のマリアは結婚する前は文官として働いていたそうだ。働かなくても生きていける貴族令嬢が嬉々として仕事をしている姿を聞いてから、もしそれが本当なら貴族の中で一番好感が持てる。
自立した女性像が浮かんだ。彼女に会う前までは。
部屋にいたのは何にも無気力、目には光がなく顔や体も聞いていた年齢よりだいぶ老けているようだった。
聞いていた人物像と随分かけ離れていた。しかもこの部屋に監禁されているらしく、前に子供が死産だったという。
自立した女性のイメージから可哀想な女性のイメージに変わった。
ある日、奥様の体を拭いているとこんなことを言われた。
「1番目の子供は旦那様に殺された。今お腹にいる子は守りたい。」
そこで初めて奥様が妊娠していることを知った。いつもお腹に布団を掛けているのでわかりずらかった。
奥様の身の回りの世話をしている人達は皆奥様に同情していてすぐに味方になった。
そして今、実際に氷水に入った赤子をバレないように入れ替えることに成功し、全てが順調だったのに。
今、奥様は不要になったという言葉を発した。
奥様は殺されてしまう。
「お前にその子は任せたぞ、マーシャ。」
「畏まりました。誠心誠意エルリカ様をお守りいたします。」
そこで口が滑り、お嬢様からエルリカ様に呼び方が変わってしまっていた。慌てて口を塞ごうにももう言ってしまったし、両手はエルリカを抱いている事で塞がっている。
「エルリカ?」
「奥様がお嬢様をそう呼んでいました。」
バッと頭を下げる。名付けは殆どが家長である主人がつけ、仲のいい夫婦なら二人で考えてつける。
どちらにせよ、奥様が勝手に考えつけてしまうのは主人からの許可でもない限り出来ないのだ。
怒るに決まっている。それにさっき、奥様が言っていたと責任を奥様に擦りつけた。口を滑らせなければバレることはなかったというのに。
殺されるのではないかと心配しておきながら、死へと導いているのは私本人ではないか?
マーシャはジェームズからの返答が来るまで変な汗が止まらなかった。
「そうか。」
たったそれだけの短い返事。怒っている様子は見受けられなかった。
(ゆ…許された?)
そんなことがあるのだろうか。
「マーシャ、娘の侍女にしてやろうか。今は気分がいい。」
そりゃあジェームズ視点からしたら自分が考えた強い血筋を残す為の選別を突破した子が現れたのだから気分がいいのも頷ける。
「私はただの一介のメイドに過ぎません。侍女になるには教養が足りません。しかし、お嬢様のお側にいることはできます。」
「そうか。もう下がっていい。」
「はい。失礼いたします。」
マーシャはまた深く頭を下げるとそのまますぐにマリアの待つ部屋へと急いだ。
早く、殺されてしまうことを伝えなければ。しかし伝えたところでどうする。殺されないようにする術はあるのか。
逃げ出すにしても公爵邸の警備は固い。外部からも内部からも出入りするのは難しい。
それに逃げる先はどうする。1番に思いつくのはマリアの実家のゴールデンオーラ伯爵家だが、売られるようにして嫁いだと聞いているので助けてくれる可能性は低い。
それに逃げることになると奥様とお嬢様は離れ離れになる。こんな赤子を連れて逃亡できるはずがない。
部屋の前に着くと、大勢の召使が部屋の前に集まっていた。いったい何事かと思ったが先程ジェームズがもうマリアを殺すと言っていたことだと分かった。
それにしても早過ぎやしないだろうか、先程エルリカが生き残ったことを報告に行ったのに。
「奥様!!」
マーシャは他の使用人たちを押し除け、部屋に入った。




