11 帰りたくても帰れない(1)
帰路の選択肢は二つあった。
まず一つは名古屋まで南下し、東海道を静岡・神奈川経由で戻る方法、そしてもう一つは北東へ向かい、日本アルプスを横断するルート。前者は距離が四十キロメートルも伸びるし、往路と同じ道を通るのも風情がない。要所要所に観光地があり、煩わしい事態が起こるケースも考えられ、俺たちは後者を選択した。
ここは単純計算だ。
現在地から八王子まで大雑把に三百六十キロメートル。つまり、一日、百二十キロメートル走れば、帰宅禁止令の最終日には家に到着するだろう。
机上の空論を全面的に信頼し、俺たちは一路、北東へとひた走る。
木曽川沿いに進み、国道四十一号線に入ると美濃加茂市を抜ける。右手に見える飛騨川の空気を浴びていると風景は既にほとんどが緑に埋め尽くされていた。
俺たちは道の駅を見つけるたびに休憩を取った。コンクリートジャングルのうだるような熱気ほどではないが真夏の日差しが強く、また、長旅の疲れもあったからだ。どうせ積極的に観光する暇はない。それに、夜はキャンプになるため、食料の調達も必要だった。
予定外だったのは直売所がほとんど開店休業の様相を呈していたことである。帰宅禁止令を機にアウトドア趣味を満喫しようとする人が多いのだろう、店頭に並べられている夏野菜はわずかに残るばかりになっていた。
「いやあ、どうしようか、夜ご飯」ナコはかごの中にトマトを放り込みながら苦笑する。「まだ午前だし、もうちょっとあると思ってたよ」
「さすがにスーパーとか見つかるだろ。ナントカ商店、みたいなのもあるだろうし」
「だといいんだけどね」
「僕たちのことも考えて食材残しておいて欲しいよね」
「元凶が言うなよ」
もちろん、売り上げを伸ばしていたのは道の駅にある直売所だけではない。隣接する休憩所のテレビではニュースが流されており、多大な経済効果が見込まれていると伝えていた。宿泊業や外食産業では嬉しい悲鳴が上がっているという。世間の反応に対して不安を持っていた俺にとって、わずかながらではあるが罪悪感が和らぐ報道だった。
「そろそろ行くか」
スポーツドリンクを飲み干し、伸びをする。そして、振り返ったところで俺は息を呑んだ。アキの背後に人が立っていたのだ。目をぎらつかせた女がアキの肩へと手を伸ばそうとしていた。
「アキ」
後ろ、と声をかける前に、アキは横に跳んだ。女の手が空を切る。その虚しい感触が気に入らなかったのか、それともアキの反応に驚いたのか、女は唇を尖らせた。
「躱すのアリなの?」
長い黒髪の女だ。ジーンズにTシャツとラフな姿をしている。姉弟なのか、そばに中学生ほどの少年が控えており、呆れた目でその光景を見ていた。
「後ろから襲って躱されるのってかなりダサいよね」
「うるさいなあ」女は少年に対して子どもっぽく舌を出し、それから向き直った。「あ、訊いておくけど、支配者? だよね?」
「ああ、うん」背後から強襲されたのはこれが二回目で、アキはそれほど困惑していない。「支配者の鈴木です」
「これはどうも」
女は恭しく頭を下げ、それから改めてアキの肩へと手を伸ばす。しかし、すんでのところでアキは半身になり、手はまたしても宙を掻いた。
「ちょっと、なんで躱すの?」
「いや、その前に訊くことがあるので」
「年齢以外なら答えるけど」
「今、旅行中ですか?」
「そうだけど。旅人だし」
旅人とは大仰な物言いだ。その自信溢れる姿に俺は思わず噴き出す。
その瞬間、じろり、と女の目が俺へと向いた。
「あたし、何かおかしいこと言った?」
「旅行中なら挑戦する必要ねえじゃん、って思って」
「それ、僕たちも言ったんだ」
少年はわざとらしい泣き顔を作ってちらりと直売所のほうを一瞥した。たち、ということはもう一人連れがいるようだ。なんとなく、男性の姿が頭に浮かんだ。
「でも、バジトウフウなんだよね」
「あたりまえでしょ。あたしだって使命感みたいなものあるし」
「ちなみに」とナコがすまし顔で訊ねる。「マイナンバーの末尾って何番ですか? 三番と八番はもう終わってますけど」
そこで女の動きがぴたりと止まった。「あ」と呆けた声が浮かぶ。
「『あ』?」
「マイナンバーのこと、忘れてた」
どうやらそのもっとも重要な確認を怠っていたらしく、女は呻き声とともに頭を抱えた。少年をその姿に手を叩いて笑っている。俺たちは三人で顔を見合わせ、初めてのパターンに苦笑を漏らした。なんとも平和な人たちだ。目の前にいる二人はアキの〈命令〉に縛られていないようにも思え、なんだか和やかな雰囲気になった。
「まあいいや、思い出作りってことで一回やらせてよ」
「もちろん」とアキが女に肩を向ける。バスガス爆発は不吉だから、という理由で女はやや悩み、それから「ああ、決定」と笑った。そして、アキに触れ、「魔術師魔術修行中」といかめしい顔で言い切った。それだけで彼女ははしゃぎ、少年は「よかったね」と面倒そうに女をあしらう。
雰囲気に任せて十分ほど談笑した後、女と少年は「じゃ、がんばってね」と言い残してあっさりと自販機群のほうへ去って行ってしまった。彼女たちは西へと赴くらしい。アキは手を振り、二人の見えなくなったところで息を吐いた。
「よし、出発しようか」
「っていうか、注意しろよな。気が緩んでるぞ」
支配者がらみのことならまだいいが、事故などがあったら堪らない。アキもそれは大いに自覚しているらしく、「わかってるってば」と穏やかに頷いた。
◇
俺の携帯に着信が入ったのはもう八王子が目と鼻の先に近づいてきた帰宅禁止令最終日の夕方だった。ちょうど休憩をしており、コンビニの駐車場でアイスコーヒーを飲んでいたときのことだ。
画面には「母親」の文字がある。一つ前のコンビニまでずっと電源を切っていただけに間の悪さ、というか、口うるささを感じた。小言なら帰ってからでもゆっくりと聞ける。そう思って俺は放置しようと考えたのだが、着信音はいつまで経っても鳴り止まなかった。ナコの勧めもあり、仕方がなく電話を耳に当てる。届いたのは予想もしていない、母さんの低い声だった。
「あんた」母さんは小声で叫ぶ、ような口調をしていた。「今、どこにいるの?」
「なんだよ、急に」
「何回も連絡したの。でも、出ないから」
「悪かったって。もうすぐ八王子だけど」
「アキくんは一緒?」
「わかりきったこと訊くなよ。それでなんなんだよ?」
息を吸う音が聞こえた。母さんは上擦った声を無理矢理に抑えるような調子で「いい?」と言った。「落ち着いて聞いて」と。声色には明らかに焦燥が滲んでおり、俺は余計な口を挟めない。
そして、母さんは静かに、俺たちの旅の終わりを告げた。
「アキくんのお母さんが病院に運ばれたって」
「……は?」
「だから、アキくんのお母さんが病院に運ばれたの。アキくんの電話に繋がらなかったらしいから、連絡するように言われて」
なんで、と口が勝手に動いていた。母さんはそれに答える。内容を聞き取ることはできたが、うまく理解はできなかった。自然と、アキとナコのほうに目を向けている。二人は訝しげに俺へと視線を寄せていたもののどれほど重要な事態が起こっているのか、きっと想像もしていない。嘘だろ、と俺は言う。訊ねたのではなく、そう言わずにはいられなかっただけの、空虚な言葉だった。
「……信じられないのはわかるけど」母さんの声色は口の中に針を含んでいるようでもあった。「私は嘘でも人の生き死にに関することは言わない」
その言葉で胸の中に大きな気泡が生まれた。もう一度アキを見る。
どう伝えればいいのだろう。
母さんは「生き死に」と言った。それはつまり、すべての装飾を剥いだ結果、アキの母親の状態が「よくて深刻」という証左に他ならない。
「ケイスケ、どうしたの?」
「アキ」
今の今までコーヒーを飲んでいたというのに唇が乾いている。口蓋が貼りついているような感触がした。言葉を選べるほどの余裕などなく、俺は必死に喉元から声を絞り出そうとする。聞いた事実を繰り返すだけの作業であるはずなのに、うまく口が回らなかった。
「おばさんが、病院に、運ばれたって」
その瞬間、アキの表情から無邪気さが消えた。「母さん、また、倒れたの?」
「違う、そうじゃなくて、その……事故で」
「……なにそれ」
アキの手から透明のプラスチックカップが落ちた。落下の衝撃で蓋が外れ、氷と黒い液体が耳障りな音を立ててぶちまけられた。七分丈のズボンだったため、冷たい飛沫が脛にかかる。アキの白いスニーカーには染みがついている。俺はそれ以上の情報を口にできない。たとえ真実でも、人の生き死にに関することを言うには躊躇が生まれる。
それを見かねたのか、ナコが真剣な面持ちで手を差し伸べてきた。「ケイちゃん、電話貸して」と言われ、俺は通話状態のままの携帯電話を渡した。ナコは「同行している横谷です」と簡単な自己紹介をしたあと、「詳しく教えていただけますか」と短く訊ねた。いくつか応答が繰り返される。そして、「病院は?」と聞いた次の瞬間、ナコは俺たちの原付からキーを乱暴に引き抜いた。
「おい、どうしたんだよ」
ナコの返答はなかった。俺の電話を耳につけたまま、自身のスマートホンの電源を入れる。それから何か操作をし、俺へと渡してきた。画面には電話番号が表示されている。
「なんだよ、これ」
「それ、タクシー会社の番号だからここに呼んで」
「呼ぶって、バイクとかどうすんだよ」
「いいから早く!」
鋭い指示に俺は慌ててコールボタンをタップした。二、三度無機質な音が鳴り、繋がる。近くの電柱に住所の表示があったため、コンビニの名前と合わせて伝えた。十分ほどで到着すると言われ、そのまま繰り返すとナコは「ありがとう、ちょっと待ってて」と目を伏せて、店内へと入っていった。
俺はしばらくガラス越しにナコが店員と話す姿を見ていたが、その途中ではっとし、アキに視線を戻した。アキは足下に広がった氷を見つめている。いや、正確には俯いているだけで、その目には何も映っていなかった。
アスファルトの輻射熱でじりじりと氷が溶けていく。それでも液体の黒色はちっとも薄くならず、同じ濃度を保っていた。
「バイク、ここにちょっと置かせてもらえたから」
その声に顔を上げるといつの間にかナコが隣に立っていた。そこで、俺はアキに声をかけられなかったことに気がつく。何をやってるんだ、と自責の念に駆られるが、だからといって、何を言えばいい?「心配ないって」などという慰めをしたところで上滑りしたものにしかならない。
結局、ナコだけが冷静に前を見ていた。
「アキくん、お母さん、高尾のほうにある病院に運ばれたみたい」
「高尾?」反応したのは俺だ。アキは無表情で立ち尽くしている。「なんでそんな遠くに」
「落ち着いて聞いてね」とナコは前置きし、言いにくそうに続けた。「そこね、第三次医療機関なの」
「なんだよ、それ」
「……つまり、重篤患者が運ばれる病院なんだ」
呻き声が漏れた。だから、ナコは原付のキーを抜いたのだ。そして、その予測どおりにアキは原付を一瞥し、手を差し出した。
「ナコ、鍵、返して」
「だめ」
「鍵、返してよ」
〈命令〉だった。
ナコは目を見開き、顔を歪めた後、鍵を手渡す。だが、その代わりにアキの手首を掴んでいたため、アキはその場から離れられなかった。それによほど苛立ったのだろうか、アキは思い切り手を振り払った。一瞬弾かれるが、ナコはすぐさま抱き寄せるようにして、アキを捕まえた。
「離してよ。離せって」
〈命令〉が繰り返される。だが、ナコは従属衝動を堪え、必死にしがみついていた。
「だめだよ、今の状態じゃアキくんだって危ない」
「離してってば、ナコだって従属衝動のこと、知ってるだろ!」
「じゃあ、今の〈命令〉取り消してよ!」
俺は歯噛みする。
〈命令〉に付随する従属衝動とはつまり、ホルモン分泌の異常だ。ノルアドレナリンをはじめとするさまざまなホルモンの過剰分泌によって、肉体は容易に精神を捏造する。幼少期から学習し続けた肉体の異常が脳に誤解を強いるのだ。心拍数の増加や発汗は多大なストレス状態を生み出し、手足の震えは恐怖の刷り込みを想起させる。
それでも、〈命令〉に従わない場合はどうなるか。
サンプル数が足りず、未だ結論は出ていないらしいが、結論は一つだ。さらなる肉体の異常が生じる。第二段階への以降である。この状態になるとある特定の行動を意識することでβエンドルフィンが分泌され、ドーパミンが放出されるようになる。つまり、〈命令〉によって強制される行動によって報酬系がヒトに快の感覚を与えるのである。
その強烈なストレス体験はヒトを無条件で〈命令〉に従う生物へと変える。
「アキ!」
気がつくと俺は叫び、後ろからアキの肩を掴んでいた。アキの顔がこちらへと動く。咄嗟に手で口を塞ぐ。こんなことはしたくない。罪悪感と、茫洋たる恐怖心が喉元にせり上がり、涙が出そうになった。
「頼むから落ち着いてくれ。頼むから」
くぐもった声が漏れる。初めて見る目が俺の顔を捉えている。負の感情がこもった瞳だった。懇願するように見つめ返すと同時にナコが膝から崩れ落ちた。アキの視線が移動する。ナコは浅い呼吸を繰り返し、胸を押さえていた。顎からはぽたぽたと汗の雫がこぼれており、アスファルトの黒が濃くなっていた。
「アキ」
俺の呼びかけに、ようやくアキの身体から力が抜けた。口を押さえている手の甲を指で叩かれ、はっとする。口を押さえたままでは〈命令〉の解除もできない。もちろん、さらなる〈命令〉が重ねられる可能性も捨てきれなかったが、俺は覚悟し、アキから一歩退いた。
「……ナコ、取り消すよ」
ナコの顔が上がる。乱れた髪を頬に貼りつけたまま、ナコは小さく微笑んだ。「……ありがとう」
「よく考えたらタクシーのほうが早いもんね、原付なんて荷物載せたままだとスピード全然出ないし冷静じゃなかったよ、ごめんねひどいことして、コーヒーも溢しちゃった」
まるで自分に言い聞かせるかのように、アキは早口でそう言った。顔には色のない笑みが貼りついている。冷静なふりをしているだけだ。その行動にも無理があったのだろう、間もなくアキはしゃがみ込み、頭を抱えた。ヘルメットで潰れた髪をかき乱すさまから俺は目を逸らせない。
そして、アキは半笑いを浮かべて静かに呟いた。
「病気ですらないんだね」




