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犬を飼うため買いに行く

作者: ナガス

 三年半付き合っている彼女との同棲生活がようやく実現し、僕は浮かれていた。


 一軒家が立ち並ぶ住宅街の中にそびえ立つ、八階建てのアパート。そこの五階にある角部屋が僕達の新居だ。そこで迎える始めての朝、荷解きをしている僕は鼻歌を漏らしながら作業をしていた。

「ペット飼おうよ」

 完全に浮かれてしまっている僕の頭は、引っ越しにかかった費用や家賃の事など考えもせず、とても軽はずみな言葉を彼女へと告げた。

 現実的思考を持つ彼女はこういった時「絶対に駄目。お金どうするの?」と、問い詰めるように怒ってくるのだが、どうやら彼女も浮かれているらしく、瞳をキラリと光らせたかのような表情を作り「犬にしよう」と、僕の話に乗ってきた。

「えっホントに?」

「うん。犬欲しい」

 彼女の満面の笑みに、僕はとても嬉しくなる。この子と一緒になって正解だったと、わざと大げさに思った。


 午前中に近所への挨拶を終えた僕達は、近所にある大型ショッピングモールへとやってきた。

 大抵の家具や家電は今まで使ってきたものを流用するつもりだが「テーブルとソファーだけは新品にしたい」という彼女の意向は無視出来ず、それらを見て回る。

 正直、彼女と一緒に座れるものなら、僕は公園のベンチでも茣蓙ござでも構わないのだが、彼女はそうでは無いらしく、数時間をかけ吟味し、そう安くないものをカードの分割払いを利用し、購入した。

 お得な話が大好きな彼女の「分割手数料が無料なんだって!」という言葉は、とても弾んでいた。


 家具を後日発送してもらう事にした僕達は、続いてショッピングモール内にあるペットショップへとやってきた。

 彼女はとてもテンションが上がっているらしく、子犬が視界に入った途端「きゃー!」という小さな悲鳴を上げる。

「みてみてあの子! 凄く可愛いよー!」

「君のほうが可愛いよ」

 僕の渾身の口説き文句は華麗にスルーされ、彼女はガラスに張り付き「可愛いー!」と連呼する。どうやら彼女はポメラニアンが好みらしく、毛並みがフワフワの、まるで綿飴のような白いポメラニアンに釘付けとなっていた。

 ほんの少し嫉妬心が湧き上がるも、大人な僕は彼女の隣に立ち「可愛いね」と相槌を打つ。


 ここのペットショップはとても大きく、多種多様な動物を取り扱っていた。犬猫は当然として、ハムスターや鳥、兎やフェレット、ヘビやカエルなんかも居る。それらを二人で見て回ったのだが、彼女は常に笑顔で常に機嫌がいい。こんなにご機嫌なのはとてもめずらしい事だ。

 僕は動物が好きなのだが、どうやら彼女は僕以上の動物好きらしい。しかし「父親が動物アレルギーで今まで飼えなかった。犬を飼うのが夢だった」と言っており、それが理由で犬を飼う事に賛成したそうだ。

 しかし僕は、現実を目の当たりにしていた。犬や猫は、想像以上に高い。

 せいぜい十数万円……と思っていたのだが、彼女が一番気に入っている白いポメラニアンは、なんと七十万円もする。僕が生まれて初めて購入した、中古の軽自動車よりも高い。

 ガラスに張り付き動かない彼女を「カードの限度額より高い」という言葉を武器になんとか引っ剥がし、他の犬を探す。


 犬を見ているのか値段を見ているのか分からない状態の僕の目に、朗報を告げる情報が飛び込んできた。なんと、十万円をギリギリ切る値段の、子犬を発見したのだ。

 その子犬はダックスフント。ゴールデンレトリバーを彷彿とさせる薄目の茶色で、艶めいて見えるストレートな毛並みが美しい。シュッと伸びた鼻筋が気品を感じさせ、ちょこんと座った姿が愛らしい、男の子だった。

「この子可愛いよ」

 決して「安いよ」とは言い出せないのだが、どうやら僕の言いたい事は彼女に伝わっているらしい。値段を見て「へぇー」と言い、嫌らしい笑みで僕の顔を見つめた。

「……いや、普通に可愛いでしょ?」

 僕がそう言うと、彼女はラミネートして張り出されている犬の紹介文を覗き込んだ。そして直ぐ様「んー、でもさ」と、少し不満そうな声を上げて、紹介文を指差す。

「睾丸が一個、お腹の中に入って出てきてないって。それと、生まれながらにしてヘルニアを患ってるみたい」

 彼女の言葉を聞き、僕もその紹介文を見つめる。確かに彼女が言った通りの情報と、それに付け加えて「病気になる可能性 高」という一文が、書かれていた。

「動物って保険あるけど、それでも医療費が高くつくらしいよ。手術するにも人間よりかかるって、友達から聞いた。最初から病弱だって分かってる子を飼えるほど、余裕無いよ」

 ……たしかに、彼女の言う通りである。僕達に経済的余裕は無い。そもそも犬を飼うという事さえ、かなりの冒険なのだ。犬が病気になった時の医療費が理由で僕達が餓死してしまっては、元も子もない。

 しかし、その情報を知ってしまうと、どうしてだろう。無性にダックスフントの事が、愛おしく感じてしまった。

 つぶらな瞳でどこか一点を見つめ、大人しく座っているその様が、なんだかとても、胸を締め付ける。

「でも、この子可愛いよ」

「可愛いけど、その後のリスクが大きいよ。もし病気になって、その時に私達に余裕が無くて、病院につれていけなかったら、それこそ可哀想でしょ?」

 彼女の言葉は正しい。僕が考えていた事以上の事を、考えていたらしい。

 

 安いのには理由があり、それなりのリスクがある、という事なのだろう。

 しかしあのダックスフントも、好きで病弱に産まれてきた訳では無いだろうに……。


 結局僕達はこの日、犬を買う事を断念して帰宅する。自分の好きな家具を買う事が出来た彼女は大変機嫌良く「今日は腕によりをかけて料理つくりまーす!」と元気な声をあげ、張り切りながらキッチンに立った。

 僕はダラダラとダンボールの開封をしていくのだが、どうしてもあのダックスフントの事が頭から離れない。

 トイレへと立ち、鍵を閉めて、ズボンは下ろさず便座に座る。そしてスマホを取り出して、まずは犬の病気について、調べ始めた。


 数週間後、ようやく僕と彼女の休日が合った週末に、犬を飼うという事を諦めきれない僕達は、再びペットショップへと足を運んだ。彼女はやはり、お気に入りの白いポメラニアンに釘付けとなっている。

 僕はそっと彼女の隣から離れ、ダックスフントが居る場所へと向かった。ダックスフントはやはり売られておらず、地面に体重の全てを預けるように、ペタンと寝転んでいた。

 僕はその場にしゃがみ込み、ガラスに手をついた。するとダックスフントの視線と僕の視線は、同じ高さになる。

 ダックスフントは僕の視線に気付いたのか、僕の目を見つめてきた。つぶらな瞳で、見つめてきた。

 僕はその視線を受け、思わず「ごめん」と、声を漏らす。ダックスフントは相変わらず、屈託ない瞳で、僕を見つめている。

 僕は立ち上がり、ダックスフントの紹介文を見つめた。そこには相変わらず「病気になる可能性 高」の、文字。そして値段は、さらに一万円、下がっていた。


 色々調べた結果、この子はアウトレットの中でも、粗悪品だという事が分かった。他店舗と共に大量に仕入れ、検査され、破格の安値ならばギリギリ売る事が出来ると判断された、個体なのだ。

 しかしこの子に、買い手が現れる事は無いのだろうな……犬の病気と費用について、スマホでちょっと調べれば色々と分かってしまうのだから、当然だ。

 犬が病気になった際、手術をして完全に回復する可能性と、その費用に対する価格対効果の馬鹿馬鹿しさは、凄まじい。重い病気にかかってしまうと、元通りなんて通常、望めないらしい。この子は生まれつき健康体では無いのなら、尚の事、難しいだろう。

 命はお金じゃないと分かっていても、リスクを好んで背負う人は、そう居ない。皆、見なかった事にして、済ませたい。

 極論を言えば、未熟児で、病弱で、ダウン症で、障害があると解っている子を産む勇気が有るかどうか。という事。その子の命に責任を持ち、その子の全てに自分の全てを捧げる事が出来るか。という事。

 そういった勇気や覚悟や、愛情が有って、始めてこの子を飼う資格が持てる。このペットショップに訪れている人の中に、資格を持っている人は、僕を含めて誰一人として居ない。

 どれだけ安くなっても、問題児を抱える事は、出来ない。命に対する責任を、取れない。

「ごめんなぁ」

 僕はガラスケースに手を当てて、滲んできた視界を元に戻すために、目を拭う。

 そしてゆっくり、綺麗で健康なポメラニアンを見つめ続けている彼女の元へと、歩を進めた。


「カードじゃなくても、ローン組めるんだって」

「そっか、じゃあ、その子にしようか」

「ホントッ! うれしーい!」


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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公の弱さと真摯に対峙しているところや、安易なハッピーエンドとして終わらないところがとても良いです 心の中に何かを残していく、そんな作品だと思います 更なるご活躍をご期待申し上げます
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