フラグは安全とは限らないのね
遅い。
私は、講堂の陰に潜んだまま、制服のポケットから懐中時計を取り出す。
ミュリエルがまだ来ない。
流石にこれ以上遅いと、入学式に間に合わない。
入れ違いになった?
ミュリエルは先に講堂の裏でフラグ回収し終えているとか?
攻略対象にちゃんと救出されているなら、問題ないのだけれど。
……まさか、攻略対象と出会えていない、とかはないわよね。
まかり間違って、ぼんくら子息にどこかに連れ込まれているとか、ない、わよ、ね……?
嫌な予感に襲われて、私は潜んでいた講堂の影から、裏手に歩き出す。
誰もいないそこを、私は早足気味に歩く。
「……っ、………して……………っ」
どこからか、声が聞こえる。
切羽詰ったような、泣きそうな。
まさかミュリエル?!
慌てて声のするほうに耳を澄ます。
どこから?
森の中?
講堂の裏手には、裏庭があり、さらに奥には木々の生い茂る森がある。
新緑眩しいその森が、今は魔の森に思えた。
早足などでなく、もう私は走り出していた。
ぱきりと小枝を踏み荒らし、森の小道を声を辿って走る。
すぐに彼女は見つかった。
でも最悪だ。
彼女は、ぼんくら子息に木の幹に押し付けられ、身動き取れなくされている。
子息の手は彼女の肩に。
見た瞬間、カッと、頭に血が上った。
「あなた、ミュリエルに何をしていますの!」
「ぐぇっ?!」
走ってきた勢いのままに、思いっきりぼんくら子息を突き飛ばす。
淑女にあるまじきとか何とか、いってられない。
べちゃっと地面にみっともなくすっ転んだ子息を無視して、私はミュリエルを振り返る。
ミュリエルは 服も髪も乱され、その愛らしい空色の瞳に涙を浮かべていた。
「く、クリスさま……っ」
「間に合ってよかった! もう大丈夫よ」
抱きしめると、安心したのかミュリエルの瞳からより一層涙が溢れる。
小刻みに震えているのが抱きしめた両手から伝わってきて、私は土下座したくなった。
こんな目に遭わせるって分かってたら、絶対、このフラグはへし折っておいたのに!
ゲームだとちょっと絡まれて腕をつかまれているだけで、森の中に引き込まれるなんてなかったのだ。
助けに入るはずの攻略対象、ヴェザール公爵家三男のロイス様は一体どこほっつき歩いてるのよ。
「てめぇ、なに俺を突き飛ばしてんだよくそがっ!」
「えっ?」
ドンッ!
急に身体を突き飛ばされて、私はミュリエルと一緒に倒れこんだ。
あ……。
ぼんくら子息――確か、男爵家の五男坊とかそんなの。
よく覚えていないけど。
そいつが、今、思いっきり私を見下ろしている。
憎々しげと言っていい表情で。
え、嘘。
私、侯爵家よ?
男爵家の子息に突き飛ばされるなんて。
ミュリエルがもう声も出ないぐらいに怯えて、私の袖を掴んでいる。
それで私は冷静さを取り戻した。
心臓はどきどきいっているし、男性に睨みつけられて怖くないはずがない。
でも、私が彼女を守らなきゃ。
私はなんということもないように立ち上がり、同時にミュリエルも立たせて、背に庇う。
「貴方、わたくしを誰だと思っているのかしら。このような事をして、ただで済むとでも?」
紅色の瞳を、すっと細める。
お姉様が良くする表情。
声を荒げる必要なんてない。
こうするだけで、相手は大抵息を飲む。
男爵家の五男もそう。
私に見つめられた彼は、その場で固まった。
「だ、誰だよ。誰だか知らないですが、いきなり突き飛ばされれば、反論も、す、するでしょう」
うん、しどろもどろで敬語交じりね。
身分の違いに気づいたのかしら。
でも、私の顔をはっきりと見てもわからないなんて。
あぁ、そうね。
男爵家の子息なのだから、お茶会にはあまり出ないわね。
私も、伯爵家ぐらいまでのお茶会にはよく顔を出していたけれど、男爵家主催のお茶会にはあまり出向いていなかった。
別に見下していたからじゃないのよ?
私とお姉様主催の侯爵家のお茶会には、どの男爵家もきちんと招いていたから。
ただ、侯爵家の人間を招くとなると、男爵家に物凄く負担がかかるのよ。
だから、特に仲の良い令嬢が居ない場合は、不用意に参加しないようにしていたの。
お姉様がひょいひょいお出かけしちゃうから、その分、私は控えめにね。
この男がどこの男爵家の子息だったかは覚えていない。
けれど、相手にとっても私は見た事がない相手なのだろう。
「そうね。貴方の言うことももっともね。不用意に『ぶつかってしまった』ことについてはお詫びするわ。
でも、彼女はわたくし、クリスティーナ=ローエンガルドの親友ですの。
親友が見ず知らずの男にこんな無体を働かされていたら、動揺するとは思わなくて?」
「ろ、ローエンガルド?! ローエンガルド侯爵家、銀髪で紅目で双子の?!」
あら、ちゃんと知っていたのね。
突き飛ばした事をぶつかった事に捏造したのだけれど、爵位のほうが衝撃だったみたい。
「えぇ、そのローエンガルドですわ。貴方の名前をまだ聞いていないと思うのだけれど」
「あぁああっ?! わ、私は、コスイ=コーザ、です……」
もう顔面蒼白で、立っているのがやっとな彼、コスイ=コーザ。
コーザ男爵の子息だったのね。
コーザ男爵なら一度お見かけしたことがあるわ。
お父様の部下だったはず。
「そう、コーザ男爵のご子息なのね。コーザ男爵には一度お会いしたことがあるわ。
今日の事は、お父様を通じてよくよくコーザ男爵にお話ししていただきますわね?」
「あ、あっ、そんな……っ」
がっくりと、その場に崩れ落ちるコスイ。
まぁ、良くて退学、悪くて廃嫡コースかしらね。
「あ、あのっ、クリスさまっ」
「どうしたの、ミュリエル? どこか、痛い?」
ミュリエルが、とても辛そうな表情で私を見上げている。
まさか、殴られたりはしていないわよね?
私はキッとコスイを睨みつける。
「ひっ!」とコスイは涙目で後ずさった。
「ち、違います。えぇっと、彼、案内してくれようとしていただけなんです。わたし、迷ってしまっていて……」
「ミュリエル、貴方……」
まさか、こんな奴庇ってる?!
唖然とする私の横に、一歩進み出るミュリエル。
「ね? コスイさん、案内してくれた、だけ、ですよね?」
ミュリエルの言葉に、必死に首を縦に振るコスイ。
いや、あんた、間違いなくミュリエルを襲っていたわよね?!
「ミュリエル、貴方、解っていて? わたくしが来なかったら、どうなっていたと思うの」
お嫁にいかれないような事になる事態だったのよ?
夜会で貴族の令嬢が貴族の子息に……なんてことだって普通にある世界だ。
学園で起こるとは思っていなかった私の頭がお花畑だったことは認めるけれど、こんな男、そのままにしておきたくない。
「で、でも! クリスさまは来てくださいました。わたし、なんともないです。
コスイさんだって、きっと、そんなつもりなかったですよね?
案内してくれようと、していましたもん。
だから、だから……」
涙目で、不安そうに私を見上げるミュリエル。
あぁ、解っているのね。
私がお父様に言うってことの意味が。
退学や廃嫡になったら、コスイの未来は無いものね。
私はそうしてやりたいと思っているけれど、これ、実行したらミュリエルが気に病んでしまうわね。
「コスイ」
「は、はいっ!」
バネのように飛び跳ねて、ビシッと直立不動するコスイ。
「ミュリエルを案内してくれていた、というのは本当かしら」
「は、はいっ、ご案内していました」
「そう。ならわたくしの早とちりだったようね。親友を案内していただいたことに、お礼を申し上げますわ」
「い、いえ、そんな……」
「ですが。もし、万が一、ミュリエルが泣くような事態があったらその時は……わかっていますわね?」
逃げれると、安堵したコスイの首に、扇子をピシリと当てる。
きっちり、釘を刺しておかないとね?
「は、はいっ! ミュリエル様を誠心誠意、絶対に泣く事が無いようにご案内させていただきます!!!」
「それを聞いて安心しましたわ。わたくし達、これから入学式ですの。そろそろお時間ですから、失礼しますわね」
ニコリ。
目を細めて微笑むと、コスイは震え上がって走り去った。