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無限地獄

作者: 久代 羽稀

 もう十時間も歩いている。そろそろ死ぬんじゃないかと祐子は思った。

 立ち止まり、背中を反らす。背骨がパキパキと音を立てた。

 静かな湖畔、といえば聞こえはいいが、祐子にはどうにもうっすらと気味が悪く感じられていた。自分の身なり以外には自然以外の何者もないのに、生命の気配がないのだ。声が無く、音が無く。波が無く、揺らぎが無く。ただそこには、あるものだけがあって、それを隣にずらそうとするものはおよそ皆無なのだ。

 ぐっと右からせり出してきた木の枝が、彼女の頭上にUFOのように塞がっている。梢にわだかまるようにつながる葉は黒にちかい青とみえる。だが、それは月の青を受けているからであって、実際の色はもう少し赤が強いことを祐子は知っていた。このあたりにおいて繁栄を極めているその樹木、カネンボクというその木を、少なくともこの十時間、彼女はずっと見続けてきた。

 彼女の足跡は、きっとまだ大部分が残っているはずだ。スニーカーはねっとりとした泥が至る所にこべりついて、内側にまで侵食しつつある。気温も摂氏二十度ほどで、歩き通しでいるにはややつらい。そして極めつけは彼女の服装である。

 彼女はその日が就職一日目だった。リクルートスーツ以来に、この手のタイトな服を着たフレッシュウーマンである。ベンチャー企業で、服装は自由と聞いていたものの、初日くらいはきちっとした格好で。その真面目さが裏目に出た。彼女が与えられたのは、湖の周囲の長さを歩測し、メートル法に換算する仕事だった。

 どう考えたって無茶だ。無茶苦茶だ。まず通勤初日の新入社員に与える仕事ではない。ブラック企業ならブラック企業で、最初くらいはだますものだろうに。そりゃあ確かに、彼女が面接でアピールしたのは陸上の長距離種目で培った体力だ。だが、限度というものがある。現在推測されている湖の面積は琵琶湖二つ分。向こう岸などというものは見えない。スタート地点である湖の南岸のプレハブ小屋は見える。つまり、その程度しか歩いてきていないのだ。まあ、現在地とプレハブとの間の湖岸が角のように突き出した形だから、直線距離と道のりが釣り合わないというのはあるけれども。よもや、この安物のスニーカーを支給したのが善意の全てなのだろうか。服も出せ。

 肩から下げた水筒を呷る。しかし、すでにそれが切れていることに、一瞬遅れて気づく。四時間前に尽きたんだっけとうんざりする。これで行き倒れたら労災降りるよな?


〈クライン・ジャパン〉。祐子がリクルートに応じたベンチャー企業の名前である。

 この周辺の土地の開拓を一手に任されている。官民共同事業と銘打たれてはいるものの、その大部分は民間団体に委ねられていたのだ。

 異世界と山梨県のある集落とが、いわゆる〈ゲート〉によって接続された直後、自衛隊が設営したキャンプが、翌年にはこの会社の敷地として払い下げられた。日本政府にとっては、あまり大々的に報道されなかったこの誰のものでもない土地を捌く面倒は避けたかったのであろう。新しいトラブルは、無ければ無いほうがいいのである。

 異世界開拓事業は、まず地図製作から始める。それで、事業開始から半年後に就職した彼女も、その仕事に就いたわけである。

 だが、彼女には専門技術がない。会社に金はなく、政府に善意はない。よって特殊な器具を使うことができない。ついでに言えばあまりにも未開拓すぎるがゆえに、そうした器具を使う環境が整っていない。


 だからって歩測はないだろうと愚痴をこぼしながらずんずん進む。歩幅を一定に保つのはもう五時間で慣れた。あたしは伊能忠敬かよと。

 頭の片隅では常に歩数を数えている。地図に線を引くたびにゼロに戻すその数字はそろそろ五千に達する。ここらで一度休憩を取りたいものだ。が、先ほどまでに輪をかけてぬかるみはぬるぬると湿っていて、動けなくなるまでのコンマ五秒間に次の一歩を踏み出さなければならない。カネンボクの根は簡単に揺らぎそうになる巨体を支えるべくことさら重力に従っていて、人間の祐子にはにべもない。四九五一、四九五二、四九五三……諦めに似た気持ちが測定をより正確にしてくれているような気もしていた。腕時計に目をやりつつ四九五九、四九六〇、今朝彼女に支給されたそれは針の進み方が地球のものと違う。秒針はおよそ一コンマ五倍の速度でセカセカ進むが、長針が刻む目盛りは百二十。長針の一周が示すのは地球でのおおよそ八十分だ。それが十二回繰り返されて元の位置に戻ると半日、というわけである。一方で胸元の懐中時計を取り出せば、それは日本時間を指し示す。いずれも短針は八を突き、空はやたらに明るく青い月が遍く照らす夜の空である。この世界の月には満ち欠けがないそうだ。

 地球ベースで、就業から十二時間が経とうとしていた。伊能忠敬はこのままいけばジャック・バウアーになる見込みだ。


 ずんずん進むうちに、彼女の中の薄気味悪い感覚は薄れていった。それは慣れだとか麻痺だとか、まして状況の改善などでもなく、ただの変質である。漠然とした嫌悪感あるいは忌避感というようなものはいまやかなり高精細に像を結びつつあったのだ。


 祐子が甲府駅からマイクロバスに乗って連行された盆地の端っこ、葡萄も作っていないような過疎の震源、そこに存在する重力波異常をくぐり、この異界の地に足を踏み入れた時、付き添いの自衛隊員はちらりとこんなことを言った。

「私たちの誰も、このカネンボク以外の木をここで見たことがありません。それどころか、これ以外のいわゆる動植物を、誰も見つけていないんです」


 祐子が怯えの代わりに覚えた感情とは、恐怖である。八三一八、八三一九、八三二〇。この地には生物というものが存在しないのではないのか、という直感が――八三二三、八三二四――しかし私の頭上には梢があり、右には幹がある――八三二八、八三二九、八三三〇――足元を覆うのは土壌で、木が生えている以上目に見えない細菌もいるはずだ――八三三三、八三三四、八三三五、八三三六、八三三七――それに、はたして植物だけがあって動物を欠いた生態系というものがあり得るのか――八三四〇、八三四一――

 そこではっとする。

 八三四三、八三四四、八三四五。閃きが思いつきに至り、そしてアイデアに至るまでの歩数は三歩。八三四六。

 カネンボクが繁茂しているということは、カネンボクには成長があるはずだ。だが、この地には風すらない。例えば強引な話、枝が伸びた分だけ空気は動くはずだ。根が伸びた分だけ土は動くはずだ。エネルギーがゼロではないとは、そういうことであろう。生物がいる以上、常にある程度のエネルギーは生じ続ける。しかし、実際のエネルギー量はゼロ。そして、有限のエネルギーを回収してゼロに帰すのは無限。どんな値も、無限を分母にして割れば答えはゼロ。悠久の時間が人々の不幸も幸福も原点に収束させていくように。望月の欠けたることもなしと思えば。

 月の光を浴びるカネンボク。

 八四〇一、八四〇二、八四〇三。私はいったいどれだけ歩いてきたのだろうか。八四〇四、八四〇五とカウントしながらそんな疑問を抱く。少なくとも無限に歩き続けることはないはずだ。私は湖を周回しているのだから、いつか元の場所に戻る。私は二二年前に生まれたし、そのうちに死ぬ。

 そうか、と何かを納得した。不思議な心地だ。

 祐子は、何故、この世界への忌避感が耐えがたく感じられていたのか、直感的に知った。

 地球は無限ではなかった。少なくとも赤道一周の長さは四〇〇〇〇キロと定めている――実際にはそれより数キロ長いそうだが。少なくともシンガポールから東に進めばおよそ四〇〇〇〇キロ進んだところでシンガポールに戻る。

 無限というものに直に接して、耐えられる人間が果たして存在するのだろうか。


 あらゆる人間は無限に接したとき、それに回収されてゼロになる。

 祐子に対し『心無い』処遇をした〈クライン・ジャパン〉は、そのことを知っている。



異世界転移タグが釣りすぎる…いや釣りとして機能するかわからないけれども

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