忘失の幽閉
私の母校――と言っても小学校だが――にはこんな噂がある。"日が落ちてから体育倉庫に入ってはいけない"
在学中に何度か耳にしたのを覚えていて、しかも私自身後輩に頼まれて話した覚えがある。今まで覚えていたことが不思議なくらい印象の薄い話だが、粗方こんなだった筈だ。
∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
ある年、小三で転校してきた一人の男の子がいました。始めこそ興味津々に話しかけてくる子はいたものの、結局クラスに馴染めず、休み時間にはいつも自由帳を取り出してひとりで絵を描くようになっていました。
そして誰が始めたか、一学期が終わる頃にはその男の子はいじめを受けるようになっていました。机の中に丸められたプリントが大量に入っていたり、トイレで水をかけられたり、廊下を歩いていると誰かから背中を殴られるなんてこともありました。男の子はいつも無言で耐えていました。
そんな二学期も終わろうとしていたある金曜日の放課後、男の子は何人かのクラスメートに呼ばれて――脅迫に近いものでしたが、扉の開いた体育倉庫の前に来ていました。その中の背の高いひとりが睨みながら言いました。
「この中にボールが入っちゃったんだ。お前とってきてくれるよな?」
凄みのある声で脅され、男の子は断れる筈もなく体育倉庫へと入っていきました。そして男の子が奥まで入ったのを確認すると、背の高い子の周りにいた子達が、体育倉庫の両扉を二人ずつで押さえてしまいました。
「暗くてよくわからないよ」
男の子は消え入りそうな声で言いました。
「うん?何言ってるんだ聞こえねえな」
そうやって笑っていた時、男の子のクラスメートのひとりは、扉に面白いものがぶら下がっているのを見つけました。鍵の外れている南京錠です。
ガチャ
クラスメートの間では、一瞬時が止まったようでした。けれどもすぐに青くなって、小声でざわめき出しました。
「ちょっと、どうするんだよ。開かなかったら」
「俺は鍵なんて取りに行かねえぞ」
「俺も」
「僕帰ろうかな、宿題まだだし」
みな口々に騒ぎながら、ひとり、またひとりと逃げるように帰っていき、とうとう誰もいなくなりました。
次の週の月曜日の朝早く、体育指導の先生が鍵を持って体育倉庫を開けに行くと、そこには倉庫の隅の方で体育座りをしている男の子がいました。先生は駆け寄り、声をかけましたが時既に遅く、男の子は冷たくなっていました。その先生は急いで救急車を呼んだものの、十二分後に到着した救急隊員により死亡が確認されました。
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
この話が囁かれるようになった頃から、『放課後の体育倉庫から声が聞こえてくる』と言われるようになった。かくれんぼではよく使われるような格好の隠れ場所なのだろうが、誰も近づくことは無かった。やがて時が経つと、大半の人はこの噂を忘れたが、相変わらず体育倉庫には皆近付かなかった。
もちろん私は今日までは避けてきた。
私は今、校門から校舎へと伸びる固いコンクリートの道から乾いたグラウンドへと一歩を踏み出すところだ。さぁーっと私が歩く度に、靴と砂が擦れ合う音が聞こえる。時々吹く風で木々はさわさわと揺らぎ、存在を主張をしてくる。
また不意にざわざわと、木々は声をあげる。怖くなんか無い、そうよ、ただの葉っぱの音じゃない。さっさと確かめて、何も無かったと報告しよう。
速度を早めてグラウンドを縦断する。
辿り着いた体育倉庫の扉には固く南京錠が噛ましてあった。引き戸を引いても、もちろん開きはしない。細く開いた隙間から中を覗いたが、数年前と何も変わらないようだったし、第一暗くてよく見えない。
幾分かガッカリして、
「なあんだ、何もないじゃない」
と呟いてみる。
そうして引き返そうと倉庫を背に歩き出そうとすると、
「タスケテ」
と私の背後からまだあどけなさの残る少年の声が微かに、だけど確かに聞こえた。
「誰かいるの?」
振り返って見ても人の気配は無い。この広いグラウンドにいるのは私だけだ。
だが、いつの間にか南京錠の鍵が外されていた。中に誰かいるの?何時の間に?
開いたのならと、ギィーっと音の鳴る重い金属の扉を私が通れる分だけ開けると、土臭くて暗い倉庫の中に足を踏み入れた。
「誰かいるの?」
狭い倉庫の中で、私の声が反響する。当たり前だが返事は無かった。扉の隙間から差し込む光と暗闇の差に目が慣れてきた頃、影の長い跳び箱やマットの間をどうにか歩きながら、空耳だったとは思うが誰かいないか探してみる。大玉をどかして、奥の隅の方を覗いてみると、何かが目に入った。
体育座りで顔を俯かせ、小刻みに震えている少年がいた。耳をすますと、……ウッ……ウッと嗄れた声ですすり泣きをしているようだ。
気付かれていないようだったので、そのまま倉庫を出ても良かったのだけれど、泣いている少年を放っておけず、
「どうしたの?」
と声をかけてしまった。自分で言うのも何だがお人好しの私は、その性格のお陰で今日もこうして入部してもいないオカルト部の為に小学生の時の噂話の検証をしに来てるのだから仕方ない。困ってる人を見ると、どうも放っておけなくなるのだ。
すると少年は顔を上げてこちらを見た。頬は痩けていて、目元を涙でぐしゃぐしゃにしながらも、真っ直ぐ私の目を見ているその瞳は、敵対心一色に染まっている。少年は奥まで下がろうとしたが、少年の背中は壁にくっついているのでそんなスペースは無かった。
「あなたはだれ?」
抑揚は無いが少し震えていて、さっきと同じあどけなさの残る声が発せられた。
「私は君を怖がらせるつもりは無かったの。君は何で泣いてるの?」
「……ボールが見つからないの」
まだ警戒しているようだけれど少年は答えてくれた。ボールを探しているとなると、やっぱりあの話の幽霊なのかもしれない。いや、ただの偶然かもしれない。そうよ、偶然だわ。でも夜中にボール探すかしら。まあいいや。
「お姉ちゃんも一緒に探すよ。どんなボール?」
こう返事をすると、顔が晴れやかになった。
「探してくれるの?ありがとうお姉ちゃん」
良かった、おばちゃんとか呼ばれなくて。老けて見えるとよく言われるが、私だってまだ高校生だから。
倉庫と言ったってそこまで広い訳じゃない。すぐ見付かるだろう。私探し物は得意だし。
「サッカーボールだよ」
少年は立ち上がってマットを捲ろうとしている。しかしすぐ折れてしまいそうな程細い腕ではうまく捲れないらしい。大玉を押して側まで行き、一緒にマットを持ち上げる。想像していたよりも大分軽かった。小枝が挟まっていただけで、ボールは見当たらない。
明るいところで少年を間近にみると、余計に体の細さが目立つ。足も骨と皮しか無いのではと思うほどだ。それに、顔にできていた痣が気になった。
「君、顔どうしたの?」
聞いたとたん、少年は顔をひきつらせて
「なんでもないよ」
と言った。触れない方が良かったのかなと思い、その後はなんとなく二人とも無言で、隅々までボールを探した。
どれほど探しただろうか、跳び箱の中や玉入れの籠の中などボールが入りそうも無いような所まで探したのだけれど見付からなかった。この学校は、サッカーボールは体育館脇にあるもう一つの倉庫にしまっているから紛れてることも無い。
流石に疲れたので、休憩がてらとりあえずここを出ようと思い、少年に聞いてみる。
「ボール見付からないね…。もう遅いからさ、また明日探さない?」
しかし少年は首を激しく横に振った。
「だって……ぐすん……」
何かごにょごにょ言っているけれど上手く聞き取れない。けれど泣いているのは分かった。
「何て言ったの?」
「……もうちょっとだけ、ちょっとだけ一緒に探してくれる?」
そんな目で私を見ないで。断れないじゃない。私は腕時計を確認した。ちょうど長針と短針が重なっている。
「うーん、分かった。五分だけよ」
「お姉ちゃんありがとう」
まあ、私としても見付けられないまま戻るのも心残りだし、この子を泣かせようとは思わない。一人っ子の私をお姉ちゃんと呼んでくれるこの子が嬉しいという感情もあったし。
それにしても少年の探しているボールは本当にこの中にあるのかな?
そろそろ五分たった頃だろうか。足場の無いような用具で散乱した倉庫の端の方を一周探してみたけれど、やっぱり野球ボールひとつ見当たらなかった。それにもう暗くなっていて、よく見えない。
「もう今日は遅いから、君も帰ろう。五分って約束だったでしょ?」
すると暗い中でも辛うじて姿が見えた少年は、きょとんとして言った。
「五分?さっきからそんなに時間経ってないよ」
そんな筈は無い。扉から糸のように細く差し込む光で腕時計を確かめると、短針は隠れて見えないままだった。三日前に電池を取り替えたはずだから止まる訳がない。目を凝らして調べると、時間を設定するツマミが上がっていた。なるほど、だから止まっていたのね。押して秒針が進むのを確認してから手を下ろした。
それにしても何かがおかしい。腕時計以外の何かが。気になって、降ろした手をもう一度戻して時計を再度確認してみると、秒針はまた止まっている。今度はツマミは上がってはいない。
「時計が止まってる…」
「お姉ちゃんどうしたの?」
少年が私の目の前まできて、一緒に時計を覗きこんでいる。何時の間に近くに来ていたんだろうか。気配に気付かなかった。
「時計が止まってるのよ」
「あれ?本当だ。この時計壊れちゃってるのかな?」
薄暗いなか辛うじて見えた少年の口元は、なぜか左側だけ上がっている。その不思議な表情に、何故だか背筋が凍りついた。
「これじゃあ時間が分からないね」
「でももうこんなに暗いんだし帰らなきゃ。お姉ちゃん見つけられなくてごめんね」
ちょっと待って、なんで真っ暗なんだろう。入るときに扉は開けていたから、少しは明るくていいはず。だってほら。
後ろを振り返ってみると、扉は隙間無く閉まっていた。
私は駆け寄って開けようとした。しかし、鍵がかかっているようで扉は動かない。何度も開けようとしたけれど、その度に南京錠にぶつかるガチャンという音が哀しく鳴るだけだった。
「それにお姉ちゃん、どこに帰るの?僕達の帰る場所はここだよ」
なんでこうなるの。ずっとこんな暗くて汚いところから出られないの?
「誰かいませんか?体育倉庫に閉じ込められてます!助けて!」
鍵が開けばここから出られるはず。何度か叫んだけれど、聞こえるはずもなく、待てども状況はなにも変わらなかった。でも待ってよ、ここ体育倉庫だから明日になれば先生が開けに来るんじゃない?今夜を耐えれば良いのよね。
「ね~え~お姉ちゃん、そんなことよりお話しようよ」
なついてきたのか、親しげになってきた少年が私の手を探るようにして握ってきた。氷を当てられたかように冷たく感じる。
「キャッ、来ないで」
咄嗟のことで少年を突き飛ばしてしまった。
……筈だったが、私の手は少年をすり抜けた。バランスを失い、更に理解を越えた事象も加わり、私はよろめいてしまった。
目の前の少年は幽霊なの?実体が無いの?今まで私は幽霊と話をしていたの?
「き、君は誰?」
声が震えてうまく言葉を発せられなかった。すると、目の前の少年は困ったように眉間にシワを寄せた。
「僕?名前はあったはずだけど、思い出せないんだ。家族もクラスの子も先生も、誰にも呼ばれたことないからいいんだけど。僕の名前もボールも、きっと始めから無かったんだ。いくら探しても出てこないもん」
そして一呼吸ついてから少年は続けた。
「ところでお姉ちゃんの名前は?」
「えっ私?私は……」
言おうとしたがその先の言葉が出てこない。私の名前?……必死で頭を働かせるが、苗字の頭文字や名前の文字数ですら思い出せない。まるで初めから無かったかのように。
「そっか、お姉ちゃんも僕と同じだね。今日からは、ずっとお姉ちゃんが居てくれるんだから。そうだよね?」
幽霊と同じなんて否定したいが出来ない。にいっと笑いながら、少年はゆっくりと近付いてくる。
「ね、まさか僕を置いて出ていったりなんかしないよね?」