慟哭 Ⅱ
「十日だ」
「十日?」
カヴァールは、親友の言葉に我が耳を疑った。
「ラヴァリスよ、さすがにそれは不可能と言うもの。お前の転移能力を持ってしても、この聖域より転移できるのは、せいぜいが、お前の故郷であるヒュベリオンまでだ。そこからもう一度、転移を繰り返したとしても、かの国は、このアーシェント大陸の南端。いかに、お前の心力がかぎりなく神々のそれに近いと言っても、一気になんかできるほどの転移は不可能」
「あなたひとりなら、可能かもしれないがね」
カヴァールの援護に回ったのは、もうひとりの親友であるヴァファルだ。妖精族特有の年齢を超越した容貌の持ち主である彼は、ラヴァリスの言葉に首を振りつつ続けた。
「今回は、ファリエ殿を送り込むのが最大の目的。彼女の浄化なくしては、いかに君の心力が強くても意味がない」
第一、『浄化』をなしえるのは、なぜか人間だけなのだからね――――と、妖精王は言った。
「途中で、ティアールに黄金杖でもって『道』を開かせるのか?」
「いや、アレはターヘル国には行ったことがない」
「だったら、尚更不可能だ」
ティアールの愛用の黄金杖で開かれる光の『道』は、彼女が行った場所になら、空間を超えて、どんな場所からでも『道』をつなげることができる。
「母上の御力をお借りする」
「シエラ様の?」
ラヴァリスは、カヴァールの問いかけにうなずいた。
「海底神殿の『夢幻回廊』を使用する」
「海底神殿の『夢幻回廊』!?」
期せずして、カヴァールとヴァファルの声が綺麗に唱和する。
「聞いたことはあるが…あれは、海王様の許可がないと、無断で回廊に足を踏み入れたが最後、大神たるイクラシオン様すら、永遠に次空間の狭間をさまよい続けるのだと。そのようなところに、幾ら、アルティシアの御加護が強いとは言え、人間を連れて行くのか!?」
「許可は取ってある」
「なんだと?」
海王からの許可が、すでに下りているとあっさりと言われ、妖精王は絶句してしまう。
「正気なのか!?」
「随分ないわれようだな、ヴァファルよ」
ラヴァリスは、妖精王の言葉にその端正な顔に苦笑を浮かべた。
「何の力も持たぬ人間をそんなところに連れて行って、無事に目的地にたどり着くとでも?」
ラヴァリスは、カヴァールのもっともな問いかけに対し、平然と答えた。
「人体実験済みだ」
「はい?」
「人体実験済みだと言ったんだ」
「…おまえ、頭は大丈夫か?」
「失敬な」
「いやだって」
「人体実験」なんて物騒な台詞、普段なら、錬金術師である自分が言う台詞であって、間違っても、この海王神の血を引く友人が、口にするような台詞ではない。
カヴァールの言葉に、地味に傷ついたようなラヴァリスの額に、白い手が伸ばされた。
「熱は…ないな」
「おい!」
白い手の持ち主であるヴァファルの台詞に、ラヴァリスは、いい加減わめきたくなったのを、何とかこらえる。
「熱なかったら、いくらラヴァリスでも死んでるぜ?」
「正確には、平熱だ。…とは言ってもね、わたしは、ラヴァリスの普段の平熱が一体何度なのか、しらないんだが」
ヴァファルの言葉に、ズレた突っ込みをカヴァールが口にする。普段なら、このようなボケと紙一重のツッコミなど口にしないのだが、半神半人である友人の問題発言に、相当、ショックを受けているらしく、微妙に視線が明後日の方向を向いている。
「あのなあ」
「と、言うのは冗談だとしても、だ」
ラヴァリスは、妖精王の言葉に肺の中が空っぽになるかのような大きな溜息をついてみせる。
「ラヴァリスよ、『人体実験』とは、キミが口にするような言葉とは、到底思えないね。実際に、この耳で聞いたのでなければ、一笑にふしているところだ」
「ま、オレ自身もそう思うがな、ヴァファルよ」
ラヴァリスはそう言って、未だ、衝撃から立ち直れない、黒髪の錬金術師を見やった。
「ふむ。カヴァールが回復するのには、しばし、時間が必要なようだ」
それまで、酒でもどうだ…と、ラヴァリスは、例によって何もない空間から杯と深い海の底を思わせるような蒼に輝く酒瓶を取り出して見せた。
「いただこう。海王神の眷属しか造る事のできぬ海界の美酒だ。この長い生の中でも、口にするのは、これで5度目になるか」
こちらは、鮮やかな南の海のように明るい紺青に染め上げられたかのような水晶でできた杯を手に取り、ヴァファルは、感嘆の声を上げた。
「実に美しい。このような水晶は、初めて見る」
「海底では、ありふれた水晶だがな。オレは、この明るい青が好きでね」
そう言って、ラヴァリスはヴァファルの杯に、海葡萄で造られた葡萄酒を注ぐ。
明るい南の海の色をした杯の中に満たされたのは、海に沈み行く夕陽を切り取ったかのような黄金色をした極上の酒。その芳醇な香りが、室内を支配してゆく。
「オレにも飲ませろ」
その芳醇すぎる香りに、一気に現実に引き戻されたカヴァールが、ラヴァリスにねだる。ラヴァリスは、黙って、杯を用意すると、彼の分の酒を注いでゆく。
「さすがのカヴァールもこの酒の前では、正気に戻るか」
「ぬかせ」
ヴァファルのからかいに、カヴァールは顔を紅くしながら、そっぽを向いた。
「それで、ラヴァリスよ。『人体実験』とはどういう意味だ?」
「文字通りさ。祖父の許可を得て、父の元から貴族を数名、連れて行って、実験した。もともと、父と折り合いが悪く冷遇されていた連中でな。話をもっていったら、喜んで乗ってきたぜ。そいつらが、なんとか無事に通れたんだ。お前たちが無事に通れないはず、ないだろう?」
「何とか無事に、だろう?」
「何の力も加護もない連中で、あるのはやたらと高いプライドだけ。そんな連中が、五体満足…とまではいかないでも、通過できたんだ。神から授けられた武器を持った、お前たちなら楽勝だろう?」
「だが、ファリエ殿はともかく、バーリンはどうする?」
ラヴァリスが選んだ旅の同行者の中で唯一、人間が鍛えた武器しか持たない者が、ティアールの弟であるバーリンだ。カヴァールの指摘に、ラヴァリスはあっさりと答える。
「大丈夫だ。バーリンには、オレの血をたらした短剣を与えておく。このラヴァリスの血でもって、回廊は無事に通過できるはずだ」
海王神の孫であるラヴァリスの血の加護があるのならば、神々から武器を授けられていなくとも、海底神殿内の『夢幻回廊』を通過するのに、何の障害があるというのだろう。ラヴァリスの言葉に、カヴァールも安どの表情を浮かべた。
「ヒュベリオン国の王宮内の湖に建つ母上の離宮から、海底神殿に向かい、そこから、祖父とともに『夢幻回廊』の中に向かう。普段は回廊に続く一角は誰かが迷い込まないように、厳重な封印がしてあるんだが、今回は、相手が『破壊』と『暗黒』の双子神。だからこそ、海王自ら、封印を説き、ターヘル国に通じる扉まで我々を導いてくださることになっている」
「海王ヴォロシアス様自らか。いよいよ、大事になってきたな」
カヴァールの言葉に、ラヴァリスは、自分の杯を干す。
「始まってしまった以上、仕方あるまい。このために、我々はこの聖域に居るのだから」
「ラヴァリス」
「今まで、双方ともに、小手調べですんでたことが奇跡と言っても過言ではない。違うか。カヴァールよ」
ラヴァリスはそう言って、あけたばかりの杯に、再び、酒を満たす。
「少なくとも、オレたちがこうして、同じ時代を共にしていることに意味があるんだ。そのために、我らはこうしてめぐり合った。運命の女神の導くままに」
「たしかにな」
本来ならば、海王神の一族であり、天上の神々から、近い将来人間であることをやめ、神の一柱となることを熱望されているラヴァリスや、神々とも親交深い妖精族の若き王であるヴァファルとは、一介の錬金術師である己がめぐりあうことなど、なかっただろう。なのに、今こうして、出自も種族も違うふたりを友と呼び、酒を酌み交わす。この空気の、なんと心地よいことか。
カヴァールは、柄にもなく、ラヴァリスの言ったとおり運命の女神に感謝の祈りのひとつでもささげたくなった。
一度は、運命をのろったこのオレがな
かつて、破壊神の気紛れにより、滅ぼされた故郷。見渡すばかり、瓦礫が広がり、死に逝く者たちの声が木霊する中、運命を司る女神を幾度呪ったことだろう。
血と死臭に呼び寄せられたかのように、集まった魔獣を前に、死を覚悟したとき、差し込んだ一条の光は、人間の姿をとっていた。
「だとすれば、これから、あの双子はどう動くと思う?」
「暗黒女神はまず、動かんだろう。あの女神は、基本、ものぐさだ。動くとしたら弟の方だが、そう簡単に我々に尻尾は捕まえさせないだろう。まずは、配下の狂信者集団を動かして、このアクリジェントに血の騒ぎを起こさせ、人々に恐怖と不安の種をまいてゆく。そうして、恐怖と不安の種が、絶望と憎悪の華を咲かせてゆくんだろう」
「その花の色は、血のごとく赤いか、暗黒のごとく暗いか、どちらかだろうな」
カヴァールも干した杯に、手酌で酒を注ぎつつ、あいずちをうつ。
「そうなる前に、刈り取るのさ。『希望』と言う名の鎌で」
ラヴァリスは色違いの蒼い瞳を伏せながら続ける。
「そのために、この時代に生を受けたのだから」
琥珀の髪の若き大将軍はそう呟くと、勢いよく杯を干すのであった。
新雪の如き白銀の髪を結い上げた秩序の女神は、薄い蒼の瞳を、目の前で跪く戦士たちに向けた。
「行くのか?」
「は」
アルティシアは、琥珀色の髪を朝陽に黄金色に輝かせた大将軍から、彼の後ろで跪いている女神官に視線をすべらせる。
「ファリエよ」
「はい。アルティシア様」
「無理はしてはならぬ」
「分かっています」
ファリエは、神官としての衣装を脱ぎ、旅の仲間たちと似たような、動きやすさを念頭に置いた旅着に身を包んでいる。
「このファリエ、自分の限界は重々承知しております」
「ならよいのだが」
純白の衣に身を包んだ秩序の女神は、いささか不安そうにファリエの言葉にうなずく。
「アルティシアよ、我が女神よ」
そんな従姉妹ふたりの様子に、小さく苦笑をもらすと、ラヴァリスは、己が仕える女神に呼びかけた。
「このラヴァリスが、ついております。けっして、ファリエに無理はさせないことをお約束いたしましょう」
「頼みましたよ、ラヴァリス」
ラヴァリスは、アルティシアの言葉に、黙って頭を下げるのだった。
出立の時は近づいてきている。