慟哭 Ⅰ
話の都合上、男女のそういった場面が冒頭にあります。R15を指定するほどのものではありませんが、不快に思われる方は、そのところを飛ばしてくださって結構です。
何処とも知れぬ闇より深い暗黒が支配する神殿の最奥。血のように赤い真紅の瞳と、星もふたつの月も昇らぬ朔の夜よりも暗い髪を持った、禍々しくも美しい女がひとり。退屈そうに、ひとり、暗い玉座に腰を降ろしていた。その蠟のように白い手に握られているのは、脈打つ心臓。
「やれ、我が姉君は退屈しているとみえる」
「リュカロスか」
現れたのは、女とよく似た美貌の若い男。ふたりとも同じような顔をしているが、ひとつだけ、女の瞳が血よりも赤い真紅なのに引き換え、男の瞳は今にも雪を降り出させそうな冬の湿った灰色の空を思わせる鉛色。リュカロスと呼ばれた男は、女の手にした心臓を無造作に取り上げた。
「誰の心臓です」
「さあ。誰の心臓だったか。わらわに望みを叶えてくれと、言ってきた男の心臓であったか」
「ああ、あのオーグにも似た醜い面構えの」
「リュカロスよ、それではオーグに悪かろう? アレでも、われらの可愛い下僕じゃ」
女はそう言って、闇色の玉座から気だるそうに立ち上がった。
「もう、これは必要ないですね、デゥオゥラ」
そういうと、リュカロスは無造作にもてあそんでいた心臓を放り出し、踏みにじる。肉のつぶれるひどく耳障りの悪い音とともに、心臓の持ち主である男の断末魔の声が神殿内に木霊するも、リュカロスは気にも留めない。むしろ、その声が心地の良い音楽であるかのように、うっそりとその瞳を細めるのであった。
「いつ聞いても人間の断末魔の声というものはいい。そう思いませんか? デゥオゥラ、我が姉君」
「悪くはないが、声の持ち主がもっと美しいと良い。美しく、清らかな魂の持ち主であればあるほど、絶望に支配された時の声は心地よく、その魂の持ち主が死ぬ時の断末魔の声はさぞ、美しいものだろう」
デゥオゥラと呼ばれた女はそう言って、うっそりと微笑う。
豊満な男の欲望をそそるような肢体を、黒いドレスに包んだ女は、降りてきたリュカロスの口付けを、嫌がるそぶりを見せず、むしろ、嬉々として受け入れる。
瞳と同じように紅い唇が、三日月のような笑みをはいた。
「そなたがおらず、ひどく、退屈であった」
「相手には、ことかかないでしょうに」
「ふん。そなたほど、体の相性がいい男もいないがな。試してみたが、詰まらんものよ」
弟の手により、身に纏っているドレスを乱されつつ、デゥオゥラは艶かしい吐息をはく。
「リュカロス、そなたはどうなのだ? 相性のいい女のひとりやふたり、いなかったのかえ?」
体をまさぐる弟の手により、熱をかきたてられながら、瞳を潤ませつつ女は問い返す。
「どれも似たような女ばかり、デゥオゥラ以上にこのリュカロスの熱をかきたてる女など、何処にもいない」
首筋に歯を立てられ、女は歓喜の声を上げる。
「久しぶりのデゥオゥラの体だ。しばらくは、離して差し上げることはできませんよ、姉上」
「ああ、リュカロス!」
弟の言葉に、姉は全身を激しい喜びでふるわせた。
リュカロスは、寝所に行くのももどかしいとばかしに、玉座に腰を降ろすと、本格的に、デゥオゥラの体に火をともしてゆく。すべてが黒で染められた中、女の白い肢体が浮かび上がり、与えられる快感によって、激しく震えるのであった。
姉と弟の狂ったような饗宴は、まだ、始まったばかり。
姉のデゥオゥラが司るのは、絶望より深い暗黒。
弟のリュカロスが司るのは、全てを狂わせる破壊。
この美しくも禍々しい、破壊と暗黒の双子神が仕えるのは、一切を無に帰する滅びの神。名は、イーダース。破壊と暗黒、そこから生じる全ての絶望と嘆きを愛する『虚無』と『滅亡』の神である。
アルティシアの統べる聖域に、その一報がもたらされたのは、遅い夏の太陽がようやく沈みかけた、黄昏時であった。
「それは本当か!!」
さる国の大身の貴族がひとり、王の面前で突然、全身から血を噴出し事切れたと言うのである。
「心臓がなかっただと」
集まった勇者たちも、この報告には、言葉を失う。
実はその貴族。この数ヶ月まえから、突然羽振りが良くなり、彼の邪魔になるものは全て、不審な死に方をしていたため、アルティシアの命を受けたラヴァリスが配下の諜報部員をその国に送り込み、その貴族が邪神である破壊と暗黒の双子神に魂を売り渡していないかを調査させていたその矢先のできごとである。
「ラヴァリス卿……」
その場に居合わせる戦士たちの視線が、上座に座り、目を閉じて報告を受けている大将軍に向けられた。
「…シベリウスよ」
「はッ!」
「ご苦労だった。しばらく休むがいい」
「は」
シベリウスは、ラヴァリスの言葉に深々と頭を下げ、立ち上がると、すべるように部屋を出て行った。
「まさかこんなに早く…」
ティアールの呟きに、彼女の左隣に腰を降ろしている若き万騎隊長であるレオンニーナがうなずいた。
「思っていたよりも、破壊神が戻るのが早かったと見えます。彼の女神は、厭きやすいですが、その反面、ひどくものぐさな性格です。暗黒女神だけでしたら、何処かそのあたりに放り出して忘れ去ってしまうでしょう」
「今回のような派手な真似は、破壊神の専売特許。姉の興味が自分以外に向くのがよほど、気に入らないとみえる」
そう言って薄く笑ったのは、ラヴァリスの左横に座っている、黒髪の錬金術師。その卓越した頭脳から、参謀長も兼ねている彼は、過去に破壊神の気紛れによって、故郷を滅ばされ、かろうじて生き残った人々ともに何とか生きていた時に、魔獣に襲われ死に瀕したところを、その魔獣を追っていたラヴァリスに助けられたことがある。十年近い過去の出来事ではあるが、ラヴァリスは当時からアルティシア神軍の中心人物として名をはせており、大人の頭よりも太い魔獣の首を、長剣の一撃でもって切り落としたほどの剣の腕を持っていた。
「オレの町を襲ったのも、デゥオゥラが別の何かに気をとられていたから、その腹いせと鬱憤を晴らすためだけだったからな」
カヴァールはそう、忌々しげに吐き捨てる。
そのカヴァールの言葉に、ヴァファルは眉を顰める。妖精族の王である彼は、カヴァールとはラヴァリスを挟んで逆の位置に腰を降ろしている。
「カヴァール、まさかとは思うが、勇み足だけはしてくれるなよ」
青みを帯びた黒髪を、左肩の上で束ねた妖精王は、妹の恋人であり、種族を超えた親友でもあるカヴァールの様子に不安なものを感じ取り、そう、釘をさすのであった。
「そこまで馬鹿じゃない」
「それはわたしもわかってはいるが」
お前にもしものことがあれば、サイネリアが嘆くからな…と、続けたヴァファルの言葉に、カヴァールは思わず苦笑する。
「分かっている。せっかく永らえた生命だ。無駄にするつもりなど、これっぽちもないからな」
「だといいが」
妖精王と稀代の錬金術師の会話は、そこで途切れた。
「いかがされます? 我が君、ラヴァリス卿」
腹心の部下であるティアールの問いかけに、ラヴァリスは、色違いの蒼の瞳をゆっくりと見開いた。
「アルティシアにご報告してくる。その後、ファリエにターヘル国に行ってもらい、彼の王宮の浄化をしてもらおう。その時には、オレの他にも何人かついてきてもらおうか」
ラヴァリスはそう言って、ティアールに後を任せ、自身はこの一件を報告するために聖域の最奥のアルティシアの神殿へと、向かうのであった。
「そうか。事態は、思っていたよりも早く動き出したと言うわけか」
「御意」
白銀の長い髪を薄い水色の飾り紐で束ねた戦女神は、背後で跪き、頭をたれている大将軍を振り返った。
「それならば、ファリエをターヘル国に向かわせるか」
「本来ならば、彼の国から正式な要請があってからの話ですが、事態は風雲急を告げています。ターヘル国は、この聖域よりはるか南の国。一刻の猶予もなりません」
「そうだな」
アルティシアは、水晶でできた玉座に腰を降ろし、溜息をつく。
「ターヘルの王都にある神殿には、わたしから根回しをしておこう。同行者が決まったら、教えてもらえるとありがたい」
「このラヴァリス、ファリエとともにおそばを離れることになりますが、よろしいでしょうか?」
「ヴァファルが居てくれるのであれば、かまわぬ。とは言っても、できるだけ早く戻ってきてもらわないと、少々困る」
やわらかな羽毛を詰め込んだクッションに身をもたれさせ、アルティシアは従兄の問いかけに、そう答えた。
「一応、ティアールとカヴァール、あと、レオンニーナを予定しておりますが、できましたら、あとふたりほど、連れてゆきたいと思っています」
「そうか。なら、コーマディアスはどうだ?」
ラヴァリスは、アルティシアの提案にうなずいた。
大将軍であるラヴァリスに対し、かなりの心酔を見せる嫌いはあるが、彼の弓の腕前は、アルティシア神軍でも、五指に数えらている。残して、何かと問題を起こされるよりは、自分の監視下に置いたほうがお互い楽である。そう、一瞬の内に考えをまとめ、ラヴァリスは女神の前から退去するのであった。
「だいたい、わたしの考えていた人選と一緒ですね。ラヴァリス卿さえよろしければ、弟を連れてゆきたいのですが」
「バーリンを?」
「はい。カーフルよりも、バーリンの方が。カーフルは先の異臭騒動の折、階段から落ちて足の骨を折ったのが、ようやく完治したばかりです」
ティアールの言葉に、ラヴァリスは頭をかいた。
「そうだったな」
ラヴァリスは、ティアールが作成したリストを手に、再び神殿に引き返し、ティアールは今回の旅の仲間に選ばれた者たちにそのことを告げるため、部屋を後にするのであった。