表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第一章 凪の終わり
9/80

懐かしい場所へ

 リリンスが目をつけたのは店主に文句をつけている客ではなく、巻き添えを嫌って店の前から離れた二人の男だった。どちらも二十歳そこそこの若者で、土色のゆったりとした上着を身に着けている。

 彼らは並んで足早に広場を横切っていたが、いきなり進路に立ち塞がった美しい少女の姿に驚いて立ち止まった。


「何か用かい?」


 片方の男、東方風の丸い帽子を被った若者が訝しげに訊く。もう一人の無精髯を生やした若者は、ちらちらと背後を気にしていた。


「その上着の中に隠したもの、出しなさい」


 リリンスは、自分よりもずいぶん上にある彼らの顔を恐れ気もなく見据えて告げた。帽子の男の表情が、明らかに動揺の気配を浮かべる。


「何、訳分かんねえこと言ってんだよ。どいてくれ」


 無精髯の男が舌打ちをして、リリンスの肩を押しやろうとした。しかし彼女はその腕から身をかわし、反対に男の胸倉へ手を伸ばした。

 可憐そのものの華奢な少女がそのような行動に出るとは思わず、男は油断していたのかもしれない。彼女の手はやすやすと彼の上着の内側に侵入し、そこから重たげな銀色の輝きを引きずり出した。

 大ぶりな石がたくさんぶら下がった、首飾りらしき装飾品――さきほどの露店に並べてあったものだ。


「何しやがんだ!?」

「これ盗んだでしょ? そっちのあなたも、懐に隠した腕輪二つ、出しなさい」

「それは俺が買ったもんだ! 盗んだって証拠があんのか!」


 帽子の男は上着の前を押さえ、無精髯の男は凄んだが、リリンスはまったく怯まなかった。


「だったら店に戻ってご主人に訊いてみる? あのぎゃあぎゃあ言ってる奴も仲間ね。ああやって注意を引いておいて、その隙に盗むって手口なんだ」


 彼女の声はわざとらしく大きく、周囲の客たちがざわつき始めた。先ほどの露店では、店主がこちらを指差して血相を変えている。

 リリンスは手にした首飾りを眺め、それから堂々とした態度で二人のコソ泥を睨みつけた。


「この首飾り――細工は王都のものだけど、石は東方ヘルナ山地の縞瑪瑙しまめのうね。鉱山から鉱夫が掘り出して、職人が製錬して研磨して、隊商が長い時間をかけて運んできたものよ。確かに高価ではないかもしれないけど、ここへ届くまでに多くの人の手が携わっているの」


 彼女の口調は強く明瞭で、迷いがなかった。


「それを、相応の対価を支払わずに掠め取るってことは、単にあの店のご主人に損をさせるってだけじゃない。その人たちの働きを全部盗むってことなのよ! 流通経路を守護するオドナスの国策に泥を塗るのと同じ! 早く全部返して、謝罪しなさい」

「こ、この小娘……!」


 凛とした態度と物言いは、とても普通の町娘とは思えなかった。理屈では勝ち目がないと察し、無精髯の男は力尽くで強行突破しようと決めた。幸い相手はか弱そうな少女だ。

 自分を突き飛ばそうと乱暴に伸びてきた腕から、リリンスは逃げなかった。一歩も引かず、黒く澄んだ両眼を鋭く細めている。


 その粗野な手は、しかし、リリンスに触れることなく止まった。

 彼女の背後から肩越しに突き出された切っ先が、男の喉元でぴたりと止まったからである。鞘に収まったままの、それは使い込まれた刀剣であった。


「汚い手で彼女に触るな」


 低く押し殺した声でそう言ったナタレは、鞘の中の刃を想像させる眼差しで男を捕えていた。恫喝するふうではないのに、少年のまとった空気には冷ややかな殺気が籠められている。

 喉を反らせて動きを止めた無精髯の男から視線を外さず、ナタレは左手でリリンスの腕を引っ張って自分の後ろに下がらせた。


「無茶しないで下さい、リラ」

「ナタレがいるから大丈夫だと思って。そのための護衛でしょ?」


 リリンスは悪びれもせずに小首を傾げ、ナタレは溜息をついた。


「こいつら殺してもいいですか?」

「駄目。捕まえて憲兵に引き渡す」


 無精髯の男の後ろから、帽子の男が飛び出した。周囲はすでに人垣に囲まれている。開き直ったのか自棄になったのか、歯を剥いてリリンスたちの方へ突っ込んできた。


 ナタレの反応は素早かった。

 右手に構えた剣の先で躊躇なく無精髯の男の喉元を突き、痛みにうずくまる男の横面をさらに剣で打擲する。

 地面に這いつくばったその男は放っておいて、向かってくる帽子の男から身をかわしながら、その胸倉を左手で掴んだ。

 周囲の人々から感嘆のどよめきが上がった。特に派手な動きもなかったのに、帽子の男は掴まれた胸元を支点にしてくるりと前転し、綺麗に宙を舞って地面に叩きつけられたのだ。衝撃で、その懐から金色の腕輪が二個転がり出た。


「さすが剣術師範代」


 鮮やかすぎる腕前を見て、感心したように、少し呆れたように言うリリンスに、


「これは体術です。初歩の初歩」


 ナタレは生真面目に答えた。


「く……くそぉ……」


 帽子の男は背中をしたたか打ちつけて、すぐには動けないようだった。首筋を押さえて呻きながらようやく起き上がった鼻先へ、鞘に入ったままの剣先が突きつけられた。


「もう諦めろ。これ以上暴れると、剣を鞘から抜かせてもらうぞ?」


 ナタレは息ひとつ乱してない。毎日武術鍛錬を積んだ留学生と、街のコソ泥では勝負になろうはずもなかった。


 無精髯の男の方は、集まってきた露店の店主と客たちによって取り押さえられていた。しかし、最初に言い掛かりをつけて注意を引いたもう一人の仲間は騒ぎに乗じて逃亡してしまったらしく、もう姿が見えなかった。


「いやあ強えなあ、若いの」

「軍人さんかい?」

「嬢ちゃんもかっこよかったぜ!」


 野次馬から次々に声を掛けられて、ナタレは困ったように顎を掻く。あまり目立つとまずいと思ったのだが、リリンスは満更でもなさげな笑顔だ。

 群れ始めた客たちを掻き分けるようにして、先ほど文句をつけられていた店主が駆け寄ってきた。彼は盗まれた首飾りと腕輪をリリンスから受け取り、何度も頭を下げた。


「本当に助かりました。ありがとうございます。最近ああいった手合いが増えていて……用心はしていたんですがね」


 店主の言葉に、リリンスは眉を曇らせた。王都は大きな街で、様々な人間が住んでいる。いくら信仰心の篤い国民性とはいえ、多少の犯罪が起こるのは致し方ないだろう。それでも、増えている、という言い回しが引っ掛かった。


「ああいった手合いって?」

「オドナスの自由貿易のおかげで、この王都には一旗揚げようという奴らが集まってきているんですよ。けれど、王都で永住権を得るのは難しくてですね。商売は許すけど住みつくのは駄目って、今の国王陛下の方針なんですかねえ、とにかく商いに失敗して故郷にも帰れない奴らが、ああやってゴロツキになっちまって徒党を組んだりしてるんです」

「そうなの……」


 リリンスは考え込んだ。確かに父は、王都に人口が集中するのを嫌っている節がある。人も物も富も滞留させるな、流せ――という父の信条を、彼女は何となく感じ取っていた。


「リラ、そろそろ行きましょう」


 ナタレが剣を腰に据えながら促した。誰かが通報したらしく、広場の向こうに数人の憲兵が見えた。引き止められて事情を聞かれるのも煩わしい。


「あ、お嬢さん、よければこれを……お礼です」


 取り戻したばかりの縞瑪瑙しまめのうの首飾りを差し出す店主に、リリンスは苦笑して首を振った。泥棒の前であんな啖呵を切っておいて、支払いもなしに受け取れるはずがない。それに、その派手な意匠はあまりリリンスの趣味ではなかった。


 ナタレと並んで足早にそこを立ち去りながら、彼女はぼそりと、


「やっぱりあの柘榴石ざくろいし、素敵だったな……」


 と呟いた。





 歌謡団の興業は南の大門近くの広場で行われていると聞き、二人はそこへ足を運んだが、空振りに終わった。

 広場には天幕も舞台もなく、見物人らしき人の群れも見えない。

 孫を連れて石段に腰掛けていた中年の女性に尋ねると、興業は昨日で終わってしまったのだという。連日好況を博した歌謡団ではあったが、今朝方すべてを引き払って次の街へ旅立ったと教えてくれた。


「ちょっと遅かったわねえ、お気の毒に」


 自分のせいではないのに申し訳なさそうな、人の好い中年女性に礼を言って、リリンスは肩を落とした。心底残念そうである。


「ごめんねナタレ、無駄足踏ませちゃった」

「いえ、仕方ないです」


 ナタレは努めて軽やかに答えた。旅回りの歌謡団の興業日程など、王宮にいるリリンスが正確に知っているわけがなかった。むしろ彼としてはホッとしたくらいだ。これでようやく彼女を連れて帰れる。

 とはいえ彼女との街歩きが楽しかったのも事実で、名残惜しさを感じてしまうところが複雑だ。

 ナタレはだいぶ日差しの柔らかくなった太陽に目をやった。


「では帰りましょうか。時間も経ってしまいましたし、あまり遅くなると抜け出したのがバレてしまいますよ」

「うん……でも、もう一箇所だけ付き合って」


 リリンスは上目使いにナタレを見上げる。大きな黒い瞳が潤んだように揺れて、ナタレはたじろいだ。自分の容姿を知りつくした、ずるい手である。もし意識せずにやっているとしたら、逆に相当な悪女だと彼は思った。


「そ、そんな顔したって駄目です。もう付き合えません。早く帰って……」

「お願いよ、ね?」


 少し弱腰な拒否を最後まで聞かずに、リリンスはナタレの右手を握った。

 華奢で柔らかなその感触に彼が戸惑うことも分かっていたのだろう。彼女はその手を引いて、再び市街地へと踵を返した。





 北端の王宮に近い市街北部は、大通りだけでなくその周辺もかなり余裕を持った造りに整備されていて、大きな隊商宿や高級店が軒を連ねている。しかしいわゆる下町と呼ばれる南部にはこまごまとした商店がひしめいており、大通りから一本奥に入ると狭い路地になっていることが多かった。


 リリンスが強引にナタレを連れてきたのもそんな裏通りのひとつだった。

 大通りからそれほど離れてはいないが、一般市民の居住区と近い。建物のくすんだ壁や、窓から干された洗濯物に生活の臭いを感じる。交易都市の取り澄ました外面ではない、そこに住まう人々の暮らしへの入口であった。


 こんな所に何の用があるのだろう、とナタレは訝しんだ。市中を自由に出歩ける彼にとっても初めて訪れる場所だった。遊び慣れたフツなどはずいぶん王都に詳しく、細かい裏通りまで知り尽くしているようだったが。


 リリンスは時折立ち止まり、辺りを見回して何やらぶつぶつ呟いては、方向を定めてナタレを引っ張って歩く。遠い記憶を辿っているような様子だった。


「ああ、ここだ……」


 ようやく彼女が歩みを止めたのは、細い通りに面した一角だった。太陽はまだ空にあるが、道の両側には小さな建物がぎっしりと肩を並べているので、辺りはすでに薄暗かった。

 ナタレは当惑した。彼らの前にあるのは、二階建ての古びた酒場である。普通の民家よりやや間口は広いが、小さく質素な造りの店舗だった。まだ開店前らしく入口には麻布が下ろされている。

 庇からぶら下がった木製の看板には『ねずの木』と刻まれていた。


「ここに来たかったんですか?」


 彼が尋ねると、リリンスはその看板を見上げたまま肯いた。ようやく解かれた彼女の掌は、少し汗ばんでいた。


「こんな酒場に何が?」

「うん……ここはね……」


 彼女がナタレに向き直って答えようとした時、店の入口の布が左右に開いた。

 店内から出てきたのは若い女だった。髪の毛をひとつに編み、そばかすの目立つその顔はまだ二十歳前だろう。両手に箒と塵取りを持っている。


「あ、ごめんなさいねえ、お店まだ開いてないのよ」


 愛想よくそう詫びる女は、この店の従業員らしかった。開店前に店先を掃除するために出てきたようだ。

 前掛けに隠れたその女の腹部は、明らかに大きく膨らんでいる。彼女が妊婦だとすぐに気づいて、ナタレは何となく目を逸らした。あまりじろじろ見るのは無礼に思えた。


「もう少ししたらまた来て……て、あれ?」


 女は眉根を寄せてリリンスの顔を凝視する。探るような表情が少しずつ解れてくる。


「あれ……あんた、もしかして……」


 リリンスもまたじっと女を見返した。


「タヤタ……タヤタお姐ちゃん?」

「リラちゃんなの!?」


 二人はほぼ同時に声を上げて、同時に笑顔になった。

 女は箒と塵取りを放り出し、リリンスに手を伸ばした。驚きと喜びの入り混じった表情で、確かめるように彼女の細い肩や腕を擦る。


「うわあ、ほんとにリラちゃんだわ! 久し振りねえ! 美人になっちゃって……元気にしてたの?」

「うん! タヤタお姐ちゃんは……赤ちゃんができたのね」

「そう、来月生まれるのよ。今ここで働いてて、店の二階で旦那と住んでるの。リラちゃんは? ミモネさんが亡くなって、お父さんに引き取られたって聞いたけど……」


 タヤタと呼ばれた女は、どうしてよいのか分からずに立ち尽くすナタレに目をやった。


「リラちゃんの、旦那さん?」


 恋人を飛ばして夫ときた。ナタレが否定する前に、リリンスが笑いながら首を振る。


「違うわ。私まだ独身だから。この人は……友達」

「ふうん……まあ、とにかく中に入んなさいよ。開店前だけど、大将も女将もいるわ。あんたの顔見たら二人とも大喜びするわよ」


 タヤタは親しげにリリンスの肩を抱いて、店の中へと促した。

 許してよいものかどうかナタレは当惑したが、リリンスの懇願するような眼差しを受けて、引き止めることができなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=864022292&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ