リラという娘
いそいそと立ち去っていった少年と少女を、サリエルはしばらく眺めていた。
神殿を訪れるにしては、二人の簡素な服装はあまりにも不自然だった。それ以前に態度が怪しすぎる。
しかし彼は後を追おうとはせず、思い立ったように踵を返した。
彼がその足で訪れたのは意外な場所であった。
「いかがなさいましたか、楽師殿? 本日は芸術鑑賞の講義はありませんが」
学舎にやって来たサリエルを困惑顔で出迎えたのは、教官の一人である。周囲には留学生たちが集まり、突然訪れた著名な楽師を物珍しげに見物していた。
王宮に隣接した学舎は、王宮よりはずっと簡素で装飾の少ない建物ではあるが、十分に広く機能的な造りをしていた。武術訓練に使用する円形の中庭を取り囲むように、一箇所の大講堂と三つの教室が並んで配置されている。属国の王族である五十名余りの留学生がここで学んでおり、彼らが共同生活を送る部屋や食堂はまた別の棟にあった。
集まってくるな、さっさと午後の講義へ行け、と教官は学生たちを厳しく注意し、ますます困った表情でサリエルに向き直った。
「お忙しいところを申し訳ありません。フツ殿にお会いしたいのですが、お許し頂けますか?」
サリエルは微笑んで丁寧に尋ねた。
彼の顔を正面から見てしまって、若い教官は目を逸らした。何度か講師として演奏を依頼したことがあり初対面ではなかったが、この美貌は何度目にしても慣れない。
「フツ……ですか。さあ今おりますかどうか……あいつは居残り組で受講義務がないのをよいことに、しょっちゅう街を遊び歩いていますから」
「ナタレ殿と一緒に、剣術の講師を務めることもあると伺いましたが」
「まあ、腕が立つのは確かです。あれでもう少し真面目なら……」
「俺の話してます?」
教官の後ろからぬっと顔を出したのは、件の不真面目な留学生だった。大柄で逞しい体つきながら、愛嬌のある目鼻立ちをした若者――フツである。
彼はサリエルを見て、嬉しそうに笑った。砂漠の北方ヒンディーナ国の王族の末席は、人質として送られたオドナス王都の住み心地がいたく気に入ったらしく、成人後もこの地に留まっている。
「こんにちはサリエルさん。俺に会いに来てくれるとは光栄ですわぁ」
「君にお願いしたいことがあってね。よろしいでしょうか、彼をお借りしても?」
研磨された金属のような瞳で凝視され、教官はたじろいだ。二、三度咳払いをして、
「仕方ありませんね。どうせフラフラしているのだから、楽師殿のお役に立てた方がいいでしょう」
「えらい言われようやな……」
フツは鼻の頭に皺を寄せた。言われ慣れているらしく、おどけたような表情である。
サリエルは教官に礼を述べて、フツを学舎から連れ出した。
「すまないね、寝起きのところを」
学舎の正門の前で立ち止まったサリエルにそう言われて、フツは少し驚いた。
「何で? 何で分かりました?」
「まだ髯も剃ってないだろう? それに、髪に寝癖が」
「おっと」
北方民族の特徴である茶色がかった髪が、後頭部でぴんと跳ね上がっている。フツはそこを押さえて、にっと笑った。まったく悪びれない、人懐っこい笑顔である。
彼は優秀なナタレとはまた違う意味で、後輩たちから頼りにされているらしかった。悪知恵を伝授してくれる、話の分かる先輩といったところなのだろう。
「綺麗な顔して相変わらず鋭いですやん」
「誰でも気付くよ。ちょっと面倒な頼みごとをするけれど、いいかい?」
「あんたの頼みなら何でも。その代わり、また演奏聴かせて下さいね」
少々軽率に了承する彼に、サリエルはある依頼をした。
王都の賑わいに、リリンスは興奮した様子だった。
ちょうど昼時で、大通りには人が多かった。市街の商家や工房で働く者たちが、今日の昼食に迷いながら、あるいは馴染みの店舗に向かって、通りを忙しなく歩いている。そんな彼らを誘い込むように、食欲をそそる匂いがあちこちの店先や屋台から漂っていた。
「人がいっぱいいる!」
きょろきょろと辺りを見回すリリンスが通行人とぶつからぬよう、ナタレは彼女の腕をしっかりと掴んだ。王女に対して無礼な振る舞いだとは重々承知しているが、今はそんなことを気にしていられなかった。
「歌謡団が興業を打っているのはどこなんですか? さっさと行きましょう」
「そう急がなくてもいいじゃない。せっかちな男は嫌われるわよ。私お腹が空いたわ」
リリンスは服の裾を摘み、軽やかな足取りで通りを横切っていく。腕を掴んだナタレが逆に引っ張られる形になってしまった。王女身のこなしは意外と俊敏で、人混みの中をすいすいと進んだ。
「これ! 私これ食べたい」
彼女が立ち止まったのは、焼肉の屋台の前だった。角切りの羊肉にタレをたっぷりかけて、野菜と一緒に串に刺して網で焼いている。濃厚な肉汁の匂いが漂い、確かに空の胃袋には誘惑がきつい。
ナタレが答える前に、
「小父さん、二本ちょうだい」
と、屋台の店主に声を掛ける。
汗を掻き掻き肉を焼いていた店主は、愛らしいリリンスの姿に目を細めた。
「おっ、こりゃ綺麗なお嬢さんだ。一本四十カルだよ」
「高いわ、小父さん。まけてよ」
「うちのは肉が大きいんだよ」
「三本買うから全部で百にして。ね?」
リリンスは上目使いに店主を見詰めて、にっこりと笑った。その様子はちょっと可愛い町娘といったところで、近寄りがたさなど微塵もなく、ナタレは感心してしまった。物凄く上手く庶民に馴染んでしまっている。
案の定、店主は日に焼けた顔いっぱいに苦笑を浮かべて肯いた。
「仕方ないねえ。三本で百カルね。ほら、タレたくさん掛けといたよ」
「ありがとう!」
リリンスは香ばしい焼き目のついた串焼を三本受け取り、ナタレに向かって、
「払っといてね」
と澄まして告げる。
「えっ、お金持ってないんですか?」
「当たり前じゃない。私の自由になるお金なんて一カルもないんだもの。よろしく」
ナタレは眉間を押さえた。さっそく肉にかぶりついているリリンスを睨んでから、自分の財布から銅貨を取り出して店主に支払う。
「いい女には金がかかるもんだよ」
気の毒そうに店主に慰められて、ナタレは複雑な気分になった。もちろん恋人同士などではないが、一瞬にして力関係を見透かされてしまった。
リリンスはナタレに串焼を一本渡して、食べながら通りを歩き出した。
「美味しいね。こういうの久々に食べた」
唇にタレをつけながら美味しそうに咀嚼する彼女を見ていると、はしたないとか不作法だとか咎める気も失せて、ナタレも同じように肉にかぶりついた。
今に始まったことではないが、この王女は本当に王女らしくない。自分よりよほど街に溶け込んでいるように見える。
「何? どうしたの?」
「あ、いえ……何でも。食べ過ぎないで下さいね」
見詰められたナタレは慌てて適当なことを言ったが、彼女は気にせず二本目を平らげた。
「じゃあそろそろ歌謡団を……」
「あっ、ナタレ、次はあれよ!」
リリンスは今度は甘い焼き菓子の屋台に目をつけたらしく、汚れた指先を舐めながら一目散に駆け出した。周囲の通行人が慌ててよける。
「姫……いや、リ……!」
何と呼ぶべきか、ここで名前を口にしてよいものかどうか、ナタレは一瞬戸惑った。
結局無言で追いかけ、甘い匂いを漂わせる屋台の前で彼女に追いついた。
「急に走らないで下さい。ええと……」
「リラよ」
リリンスは振り向いて迷いなく答える。
「今はそう呼んでね」
「リラ……」
ナタレはその愛らしい名前を繰り返した。こういう時に備えて偽名を準備していたのかと思うと、少し微笑ましかった。
「小母さん! この蜂蜜味のやつ、五個ちょうだい。安くなるよね?」
元気のいい声で、彼女は再び値切り交渉を始めた。
王都の街は、基本的に水路に沿った格子状に設計されている。アルサイ湖畔にある王宮から南の大門へと一直線に伸びる南北の大通りと、それに垂直に交差する東西の大通りを基軸に、大小多くの道で巨大な街が綺麗な升目に整えられている様は見事だった。
人口の増加に対応して水路を増やし、最も効率的に水を供給できる今の構造に街を拡張してきたのは、現王の功績のひとつだ。
街のそこかしこに設けられた広場は水路の分岐点である。豊かな水に育てられた植栽の木陰に、人々は賑やかな市場を形成している。
二人はそんな広場を巡ったり、また大通り戻って店舗を冷やかしたりしながら、ぶらぶらと王都を散策した。
リリンスは本当に楽しそうで、高級店に並んだ金細工の装飾品から、露天商が扱う子供向けの安っぽい玩具、食用の生きたカエルの水槽まで、興味を惹かれた物を次々と見て回った。王宮で美しい物、珍しい物は散々見ているはずなのに、彼女の好奇心には際限がないようだった。様々な種類の人間の臭いの入り混じった、この王都の空気がそうさせているのかもしれなかった。
そんな王女の態度に、最初こそ振り回されていたナタレであったが、そのうちに諦めてのんびりと彼女の後ろをついて歩くようになった。歌謡団を観に行かないのか、とせっつくのも馬鹿らしい。何より、彼女の輝くような笑顔を眺めているのは悪い気分ではなかった。
「ねえ、これ可愛いわ」
リリンスは服の裾が汚れるのも構わずにしゃがみ込み、露店の茣蓙に並べられたものに見入っている。ナタレが上から覗き込むと、小間物に混じって若い娘が好みそうな装飾品がたくさん揃っていた。
とある広場の一角、雑貨や小間物の露店が集まっている場所だ。時刻は午後になり、料理を出す屋台は夜に備えていったん店じまいをしている。通りの人波は少しその数を減らしていた。
彼女は商品の一つを手に取り、しげしげと眺めた。真鍮の首飾りである。ごく細い鎖に菱形の小さな台座がぶら下がり、深い赤色の石が一粒だけ埋め込まれていた。
「お嬢さん、目が高いわねえ。それ北方産の紅玉なんですよ」
茣蓙の向こう側に座った店主の若い女が、にこやかに声をかける。
「……たぶん柘榴石だと思いますよ」
ナタレが隣にしゃがんで値札を確認し、小さな声で言った。ここにある商品の中ではいちばん高いが、本当に紅玉なら桁が違うだろう。
「欲しいんですか?」
「そういうわけじゃないけど……綺麗ね」
それこそ本物の紅玉や蒼玉や金剛石や、本人も呆れるほど高価な装飾品を所有しているはずなのに、リリンスは慎ましやかなその首飾りを熱心に品定めしている。
「買ってあげたら? 彼氏さん」
女店主が悪戯っぽく片目を瞑ってナタレに水を向ける。
「可愛い恋人の首につけておあげなさいよ」
「こ、恋人じゃない」
大きく首を振るナタレの慌てぶりを照れ隠しと取って、女は笑いながら隣の露店を見た。そこで綿織物を売っていた男も肯いて、
「そうそう、甲斐性のあるとこ見せとけよ。俺がかみさん口説いた時みたいにさ」
と、小間物屋の女店主を見詰め返す。二人は夫婦らしい。
まったく悪気のない冷やかしに、ナタレはじんわりと汗を掻いた。もしかして自分たちは、街に出てからずっとそのような目で見られていたのだろうか。
隣のリリンスの顔を見るのが怖かったが、彼はそっと彼女の様子を窺った。
リリンスは気まずげに目を伏せていた。不機嫌そうなわけではない。ただ、恋人に間違われたことに照れているのか、珍しく恥じらうような表情だった。
その途端、ナタレは本気でその首飾りを贈りたくなった。
「あの、リ……リラ、よかったら本当に俺が……」
勇気を振り絞った彼の声を、突如湧き起こった怒号が掻き消した。
「舐めた口きいてんじゃねえぞ、こら!」
野太い蛮声に、周囲の視線が集まる。ナタレとリリンスも同様だった。
広場の隅、ひとつの露店の前で男が喚いていた。二十歳代半ばの、若者といっていい男だ。どこにでもいるような平凡な顔立ちだが、それが今は怒りの形相に歪んで店主に詰め寄っている。
「こんなクソみてえな偽物掴ませやがって! ペテン師野郎! この店は客を騙すのか! ああ!?」
口汚く罵る男が手にしているのは、緑色の石が象嵌された髪飾りだった。安っぽい派手な装飾品だが、石は大きく豪華だ。
「てめえが翠玉だって売りつけたから女に贈ったのに、とんだ安もんじゃねえか! 恥掻かせやがって!」
「だ、騙したなんて滅相もない! 私はちゃんと橄欖石だと言ったじゃないですか」
髯面の中年の店主は、激高した客におろおろとしている。装飾品を扱う露店らしい。リリンスたちが見ているものよりは少し高級だが、表通りの大店に陳列されている宝石には及ばない程度の商品を並べているようだ。
「お値段だって決して高くはなかったはずですよ?」
「うるせえ! 俺は翠玉のつもりで買ったんだ! てめえは確かにそう言った!」
「そんな、言いがかりだ……!」
どうやら、安い半貴石の髪飾りを翠玉だと勘違いして買った客が、贈った恋人に指摘されて、それで激怒して店に文句をつけているらしかった。苦情、というには男の態度はあまりに剣呑で、とても穏やかに返金を要求している雰囲気ではなかった。
他の露店を覗いていた客たちも、眉をひそめて成り行きを見守っている。
「どうしてくれんだよ!? 俺は女に結婚を申し込むつもりだったんだ!」
「勘弁して下さいよ、旦那、私は関係ありませんよ……」
ぐい、と男に襟首を掴まれ、店主は顔を背けた。同じ店の前にいた数人の客たちが、厄介事を回避しようと慌てて立ち去る。
騒ぎを遠目に見つつ、ナタレは小さく息をついた。ガラの悪い客に当たった店主は気の毒だが、商売をしている以上、ああいったいざこざも珍しくはないだろう。うまく収めるのも商才のうちだろうし、暴力沙汰になるようだったらさっさと憲兵に通報するつもりだった。
ただ、あまりリリンスには見せたくない光景だと思い、ナタレは彼女を促してその場を離れようとした。
だが、リリンスはじっと喚き散らす男を見詰めている。
「リラ? どうしました?」
「……今、盗ったわ」
「え?」
「あれ泥棒よ、ナタレ!」
リリンスは立ち上がって、止める間もなく駆け出した。
宝石の名前については以下の通りです。
紅玉=ルビー
蒼玉=サファイア
翠玉=エメラルド
金剛石=ダイヤモンド
橄欖石=ペリドット
柘榴石=ガーネット