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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第七章 水面の月を抱く国
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落花流水

「お気遣いは……無用に願います……」


 張り詰めた空気を、サリエルの掠れた声が乱した。彼は緩慢な動作で身を起こし、苦しげに眉をひそめた。


「ここまで損傷しては……やむを得ません。できれば見なかったことにして下さい」


 そう言うと、サリエルは二人が止める間もなく、血に塗れた掌を自らの傷にあてがった。はみ出した臓腑を平然と体内に押し戻して、大きく深呼吸をする。

 長い呼気とともに、薄い湯気のようなものが彼の胸部から揺蕩たゆたった。


「な……んだ……?」


 ナタレは思わず声を出した。瀕死の楽師の瞳は、いつしか朱色へと変わっていた。血よりも鮮やかな、低い空に輝く満月の色だ。

 人間のものとは思えないその不吉な色の目を細めて、サリエルは両掌を腹部から胸部へゆっくりと押し上げた。掌がなぞっていった跡を見て、ナタレは今度こそ驚愕した。

 

 流れ出した血で赤く染まってはいるものの、そこには何もない。滑らかな皮膚には擦り傷のひとつも残っていないではないか。


 自分が夢を見ているのだと思い、ナタレは何度も目を擦る。さもなければ趣味の悪い手品に違いない。あれほど深く裂けた腹が瞬時に塞がるなど――。

 だが何度見直そうとも、破れた衣服から覗く皮膚は完全に繋がっていた。床に血溜まりが残っていなければ、あの重傷が現実だったかどうかすら判断できなくなる。


 信じがたい現象を起こしてみせたサリエルは、長椅子に凭れたまま荒い息をついていた。黒い髪は汗で濡れて額に貼りついている。彼が初めて見せる人間的な身体反応であった。


「そういうことか……」


 セファイドもまた呆然と見入っていたが、深く納得したように何度も肯いた。

 おもむろに手を伸ばし、サリエルの左頬に触れる。焼け爛れた皮膚をそっと擦ると、乾燥した土壁が崩れるように、変色した表皮がパラパラと剥がれ落ちた。下から出てきたのは白く真新しい皮膚である。


「ユージュからお聞きになってはいませんでしたか?」


 痣ひとつない完璧な美貌が、朱色の瞳で微笑んだ。惨たらしい火傷の痕は今や名残りすら留めていない。肩に落ちた古い皮膚を払う左手の指先もいつの間にか完治していた。ようやく歪に爪が生え揃ってきた状態であったのに。

 ナタレは恐怖すら感じたが、セファイドは苦々しく顔をしかめて、


「おまえが……旧時代の生き残りだとしか聞いていない。あいつめ、肝心なことを言わなかったな」

「私の身体機能は少し特殊で、新陳代謝を意識的に統制できるんですよ。大抵の外傷ならば瞬時に治癒しますし、どんな環境下でも合理的に生命活動を維持できます」

「だったらどうして火傷や爪の怪我を……」


 問いかけて、ナタレはやめた。旅の間、サリエルが傷をそのままにしていた理由は分かりきっていた。目立つ負傷を完治させてしまっては、普通の人間ではないことが露見するからだ。生命に拘わる重傷を負って、やむを得ずその能力を発動したのだろう。

 普通の人間ではない――本当はずっと前からナタレも気づいていた。

 日焼けもしない、汗も掻かない、睡眠すら取らない――そんな個々の事象に言及せずとも、何より本能が違和感を察知していた。この男は自分たちとは違う何かだと。おそらく初めて会った時から。


「あなたはいったい……何者なんだ?」


 ナタレはついにそれを訊いた。答えを得るのが空恐ろしく、長くためらっていた問いであった。

 サリエルは彼を見詰めた。瞳は銀色に戻っている。呼吸はすでに平静だが、急激に細胞を再生させた負荷が掛かっているのか、顔は青白かった。


「その質問には意味がない。自分自身が何者か、ナタレ、君は正確に答えられるかい?」

「俺は……人間だ。腹を裂かれれば死ぬ」

「程度の違いだよ。私と君たちの差は量であって質ではない」

「よく分からないよ。アルハ神の遣いだと言ってくれた方が、まだ理解できる」

「まあ、とにかくだな」


 胡乱すぎる問答に、セファイドが割って入った。


「ナタレ、今見たこと聞いたことは他言無用だ。それから、隣の部屋でまだ息のある者がいる。とどめを刺して来い」


 有無を言わせぬ厳しい口調に、ナタレは我に返った。今は楽師の正体を問い詰めている場合ではない。衛兵隊が国王暗殺を謀ったのだ。


「は……しかし……首謀者が誰か聞き出さねば……」

「それは見当がついている」


 セファイドは返り血で汚れた上着を脱ぎ捨てて立ち上がった。珍しく表情が強張っている。努めて抑えてはいるが、彼が抱えた痛みをナタレは感じた。





 どこで間違ってしまったのかと、タルーシアは外を眺めてぼんやりと考える。

 遮光布の開け放たれた広い窓からは夜風が吹き込み、白い窓枠の向こうに黒々とした空が広がっていた。冷たく瞬く星々が無数に散らばってはいても、その光は夜を明るく照らすことはない。闇は深く、地上のすべてを飲み込むようだった。


「正妃様、ご用意が調いました」


 エムゼの声を聞いても、窓際に座ったタルーシアは振り向かなかった。膝の上に乗せた小さな壷を撫でながら、ぽつりと呟く。


「我慢する必要なんてなかったのかもしれないわ」


 タルーシアの乾いた声には自嘲の響きが混じっていた。


 外に子ができた――夫の口から気まずげな報告を聞いた時、タルーシアは冷静だった。

 夫が平民の女の元へ足繁く通っていることはとうに知っていたし、側室以外の愛人も他に大勢いる。相手を妊娠させたのは意外だったが、今さら取り乱すことではなかった。

 だが、その女を側室として迎える準備を始めようとしたタルーシアに、セファイドはこう言ったのだった――さらに気まずげに。

 いや、後宮には入れない。本人が拒否している。


「本当は嫉妬したのよ、私は、あの女に」


 セファイドの子を宿しているからこそ、自分の目の届く所に置いておきたかった。夫の愛人を後宮で監視することで、タルーシアは彼女たちとは一線を画していたのだ。


「夫がどんなに女を作っても、私だけは特別だと思っていたの。彼女たちを管理する役目は、むしろ望むところだった。愛人たちはどうせすぐに飽きられるけれど、私だけは違う――優越感で自尊心を保っていたんだわ」

「陛下はタルーシア様を愛しておいでですわ。それでなくて、二十年以上も連れ添えるはずがございません」

「そうね……でも私は嫉妬したの。私の知らない所でセファイドに愛され、子を成しながらも何の要求もしないあの女の、本心が知りたかったのよ」


 身分を隠して何度も会いに行くうち、相手の女に奇妙な友情を感じるようになったのは計算外だった。散々思い悩んだ末、タルーシアは彼女に自分の正体を告げ、子供とともに後宮に入るよう勧めた。

 あなたのことは私が守ってあげる。一緒に暮らしましょう――本心からそう言ったタルーシアに、女は詫び、そして拒絶した。

 自分の行いがどんなに罪深いか承知しております。正妃様にはどんなにお詫びしても足りません。けれど娘にだけは自由な人生を送らせてやりたいのです。娘を連れて王都を出ますから、どうかもうお捨て置き下さいませ。


 床に頭を擦りつけて謝る女を見て、タルーシアの心に初めて激しい憎悪が湧き上がった。国王の子を産んでおきながら、そんな勝手は許されないと思った。王家の血を継ぐ責任を、女にも子供にも思い知らせねばならないと。


 タルーシアは窓枠に置いた小瓶を指でなぞる。ほとんど空になった瓶には、かつてある薬品が入っていた。


「あの時私がすべきだったのは、これを彼女に飲ませることではなかったのね。ただ、セファイドに泣いて縋ればよかったのよ。他の女の所へなど行かないで、私だけを愛してと……小娘みたいに泣き喚いて困らせればよかったんだわ」


 一度やったことを繰り返すのは簡単なはずだった。


 姉上のご心中、お察しします――耳の奥で、六ヶ月前に聞いた囁きが甦る。王太子の指名がリリンスに下り、失意のタルーシアに彼女の弟が吹き込んだ言葉である。夫セファイドではなく、もう一人の弟であった。

 ご安心下さい、姉上の大事なアノルトには、南で新たな玉座を用意して差し上げます。ただそのためには、姉上のご助力が必須――夫と息子、どちらが大切かは考えるまでもないでしょう?


 酷薄な笑みで掌に握らされたのは、彼女の持っていた物よりひと回り大きな瓶だった。

 そそのかせばタルーシアは必ず息子のために夫の寝首を掻く――あの狡猾な男の目測は正しかったが、彼女がセファイドを愛していたことが唯一の誤算だった。


 皮肉にも、それからの数ヶ月間はタルーシアに訪れた初めての幸福な時間となる。

 セファイドは他の女には目もくれず、彼女の元だけにやって来た。それが夫の罪悪感だと知っていて、タルーシアは砂像のような平穏を拒むことができなかった。結局、フェクダから渡された劇薬はセファイドの喉を通ることはなかった。

 自分の望んだ幸福は、こんな状況にならなければ得られないものだったのだと思い知った。息子の血はその代償にされたのだ。

 件の薬は今、謀反を起こしたノジフら衛兵の剣先に塗布されている。アルサイ湖の水位低下を知った彼らに、神意を汲めとタルーシアはそれを渡したのである。


 罪を犯すのが人なら、罰を与えるのも人であるべきだ。夫に対しても、自分に対しても。


 本当のところ、湖が干上がろうが王都が砂に消えようが、もうどうでもよかった。自分を捉えていた国が亡びるのならば、むしろ嬉しかった。

 旧い災いは、自分の想いごと断ち切ってしまばいい。先のことは次代の人間が決めるだろう。その筆頭になるべき義娘は生き残るという強い確信が、彼女の中にはあった。


「セファイドは……もう死んだかしら?」

「まだ知らせは届きません。お待ちになりますか?」

「いいえ」


 タルーシアはようやく夜空から目を逸らして、室内を振り返った。エムゼが銀盆に硝子ガラスの杯を乗せて佇んでいる。杯の中では葡萄酒が深い紅に揺れていた。





 セファイドが後宮の最奥に辿り着いた時、正妃の部屋には静寂が落ちていた。

 絹布を押し開き、部屋に入るとすぐ、エムゼが床に倒れ伏していた。すでに息はなかったが、部屋の入口に向かって手を伸ばした格好は、死んでなお侵入者の入室を拒もうとするかのようだった。


 セファイドは女官の遺体を避け、奥へ進む。居間を横切って寝室へ入ると、妻の姿があった。


 冷たい夜風の吹き込む窓辺で長椅子の背凭れに身を預け、タルーシアは静かに目を閉じている。

 細かな襞のある薄紫色の衣装や、髪を纏めた水晶の櫛や、豪華な品々で身を飾りながらもその表情は少女のようにあどけなかった。床に杯が転がっている。

 セファイドは無言でタルーシアを見詰めて、長椅子に腰掛けた。そっと肩に手を回すと、彼女の身体は力なく凭れ掛かってきた。肌はまだ温かかった。

 夫婦は、そのまましばらく動かなかった。


 やがてサリエルが入室してきた。彼は窓際に近づくと、杯を拾い上げた。葡萄酒の芳香に混じって、独特な異臭が嗅ぎ取れた。


「刺客の剣に塗られていたのと同じ薬です」


 夫を殺すであろう毒をあおったのは、心中を意図したものであろうか。


「もしこれを飲まされていたら、あなたの命はとうになかった。盛られていたのは別の薬でしょう」


 サリエルは窓枠を見た。そこには空の小瓶が残されている。かつてリリンスの生母の命を奪った毒である。タルーシアはそれをごく薄く希釈して、この数ヶ月間、夫に飲ませ続けていたのだった。

 ひと思いに強い薬を使えなかったのは、二十年で培われた愛情ゆえである。夫が死ぬのが先か、息子が討たれるのが先か――それはひどく残酷な賭けだった。間に合わなかったと、タルーシアは泣き崩れていたではないか。


「知っていたよ。タルーシアが何をしようとしていたか――過去に何をしたか。知っていて、俺は何もしなかったんだ」


 セファイドは肩に凭れたタルーシアの亡骸を抱いて、その髪に顔を埋めた。


 リリンスの生母ミモネの急逝が自然死ではないと、彼は早くに気づいていた。同時期にタルーシアが頻繁に市街に出ていたと知り、彼女に疑惑を抱いた。

 だが、追及はできなかった。原因が自分にあることは分かり切っていたし、それに、国王正妃が夫の愛人を手に掛けたなど公にできようはずがない。

 だから、セファイドは遺されたリリンスをタルーシアに託し、彼女の出方を監視した。もしも娘にまで危害を加える素振りを見せれば、彼は迷わず妻を排除したことだろう。しかしながら、セファイドの不信をよそに、タルーシアは幼い王女を我が子同然に養育した。ぎこちなくも誠実な慈しみを注ぎながら。


 それで――セファイドはよしとしたのだった。子供たちはみな順調に成長し、妻同士の関係は平穏で、国は拡大の一途を辿っている。国王である彼には考えるべき事案が多すぎて、自らの家庭問題に拘泥している時間はなかった。リリンスに対しては、ミモネへの贖罪のように特段の愛情を傾けた。

 それでよかったはずだった。


「多忙を口実に、俺はタルーシアの傷から目を逸らし続けてきた。妻の強さにずっと甘えてきた。本当に……惨いことをしてしまった」


 お互いに見ない振りをし続けた秘密。秘密で繋がれた夫婦の絆。

 妻はひたすらに夫に毒を盛り続け、夫は黙ってそれを飲み続けた。

 介在したのは、偽りだけでは決してなかった。情愛も慈しみも確かにあった。しかしどちらも、結局最後まで本心を吐露することはなかったのだ。


「サリエル、俺は国も家族も守ることができなかったよ。親も兄弟も妻も子も、みな死なせてしまった。神の湖さえ消えようとしている。これが……俺の選択した結果か?」

「そう、陛下の選んだ結果です。ご家族を失った原因はすべてあなたにあります」


 サリエルは冷然と告げた。なじっているのでも憐れんでいるのでもなく、ただ事実を口にしただけのようだった。数え切れない死と悲しみを前に、彼だけは何も変わらない。

 続けて同じ口調で、


「ですが、湖の消失だけはまったく別の次元の問題です。あなたに一切の責任はありません。なるべくしてそうなった――分かっていて放置したのは他でもない、私です」


 サリエルは長椅子の前に立ち、セファイドを見下ろした。その青白い顔、感情を含まない無機質な眼差しは、アルハ神の石像そのものであった。


「この世の事象に善悪はありません。罪も罰もない。あるのは原因と結果だけ。ご自身に原因がなくとも、陛下はその結果を背負う覚悟がおありですか?」

「決まっている――それが国王というものだ」


 セファイドは深い翳を刻んだ顔を上げ、挑むように彼を見返した。


「湖に捧げるという犠牲、俺を使え」

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