国王侍従の負債
王宮の資料室は、背の高い書棚に埋め尽くされていた。
壁に沿ってずらりと並んだほか、やや小ぶりな棚が部屋の中央にも背中合わせに配置されている。広い室内が書棚によって仕切られている状態だった。
棚の中にはぎっしりと本が詰まっていた。本といってもここにあるのは製本された書物ではなく、紐で簡易に綴られたものばかりだった。書類に表紙をつけた資料である。それが表題ごとにきちんと分類されて、行儀よく並べられている。
乾いた紙とインクの臭いは独特だったが、室内の空気に黴や埃は籠っていない。資料の出し入れが頻繁なのだろう。
高い位置にある窓は大きく風通しはいい。普段は紙の劣化を防ぐために締め切っている日除け布が、今は半分ほど開いていた。そこから差し込む日光の下で、一人の若者が熱心に資料を捲っていた。ナタレである。
現在十七歳の彼はずいぶん背が伸び、体つきも逞しくなっていた。紙上の字を目で追う横顔から幼さは消え失せ、代わりに研ぎ澄まされた刃物のような精悍さが宿っている。
本来は剣を持ち、駱駝で砂漠を駆け回るのが相応しいであろう雰囲気の持ち主なのに、今は剣ダコのできた指で懸命にページを捲っていた。
そんな彼に不満げな声をかけた者がいる。
「ねえ、ナタレってば、聞いてる?」
書棚に凭れて退屈そうにしているのは、リリンスであった。資料の背表紙に目を通すのにも飽きてしまった彼女は、棚から適当に書類の綴りを抜いてはぱらぱらと目を通している。
「聞いてますよ……西方からの歌謡団でしょう? 王宮にも来てたじゃないですか。あ、元の場所に戻しておいて下さいよ、それ」
「分かってるわよ。まだ終わらないの?」
「もう少しで終わります。邪魔しないで下さいね」
素っ気なく言われて、リリンスは頬を膨らませた。
ナタレは資料の中から目的の部分を探し、紐を解いてそのページを抜き、抜いた部分に栞を挟むという作業を繰り返していた。明日の国王への謁見希望者に関する資料を集めているのである。資料室の役人に依頼すれば済んだのだが、急に決まった来客に対応する仕事であったため、侍従である彼が自ら探すことにしたのだ。
昨年成人の年を迎えたナタレは、その時点で留学生の身分を解かれた。
本来であれば国へ戻り、代わりに別の王族を送るのが筋であったのだろうが、彼の故郷ロタセイは一昨年の反乱により王権を差し止められた状態である。王位はオドナス国王預かりになったまま、ナタレは王都に留め置かれていた。
「最近ほんと忙しそうよね。正式に国王侍従になってから、急に仕事が増えたみたい」
「給金を貰ってるんですから忙しくて当然です」
「学舎の方でも、たまに剣術の授業の講師やってるんでしょ? 留学生の憧れの的だって聞いたけど?」
「誰からお聞ききになったんですか?」
初めて顔を上げたナタレに、リリンスはにんまりとした。
「フッくんから。彼も居残り組だもんね」
ナタレは溜息をついたが、彼に羨望の眼差しを向ける後輩は実際に多かった。留学生として学んでいた頃から文武ともに優秀で、その才覚を認められて国王侍従に取り立てられたナタレは良くも悪くも有名人だ。
属国から送られた人質であろうと王都で身を立てられると証明した、と讃える者がいる一方で、自国を見限り国王に取り入ったのだ、と蔑む者もいる――当のナタレは、どちらの意見もあまり気に留めてはいないようなのだが。
彼以外にも、成人しても帰国せずに学舎に留まっている者は相当数いた。王都でさらに見識を深めたいというのが彼らの希望で、つまりはオドナスに傾倒してしまったわけである。国王はそれを容認し、また国元にとっても新たな人質を送る必要がないため都合がよかったらしい。自称ナタレの親友フツもそんな一人だった。
「あまり連中と仲良くされるのは感心しませんよ」
「どうして? みんな面白い人ばかりよ」
「姫様がよくても、あいつらの方が……」
あなたの兄上に殺されます、とはさすがに口に出せなかった。ちょうどすべての書類が手元に揃ったところだった。
「あ、終わったみたいね! 午後は非番でしょ? これから付き合ってよ」
リリンスは背の低い書棚に肘をついて身を乗り出した。待ちくたびれたぶん、期待に目が輝いている。
「付き合ってって……どこにですか? 姫様がこんな所へお一人でいらっしゃるのさえ、人目に触れたら大変なことになるんですよ。この上……」
「あーもう、それは聞き飽きたから! あのね、さっきも言ったけど、王都で西方の歌謡団が公演を打ってるのよ。すっごい踊りを見せてくれるんだって」
「王宮にも来てたでしょう。姫様、陛下とご一緒にご覧になったのでは?」
書類の束を纏めながら、ナタレは淡々と言った。しかし内心では、物凄く嫌な予感がしていた。彼女が何を言い出すか――。
「あんな大人しいのじゃなくて、市中の舞台ではそりゃ過激な踊りをやってるそうよ。綺麗な踊り子さんが、ほぼ全裸で踊ってるって。全裸で!」
ナタレの思った通り、リリンスは頬を紅潮させて言い放った。
「ね、見物しに行かない? 一緒に街へ出ようよ」
やっぱりな、とナタレはこめかみを押さえた。
「勘弁して下さいよ……」
「街ではこういう服が流行の最先端なんだって。出入りの商人にこっそり頼んで買ってきてもらったの。ほら、可愛いでしょ?」
困り果てたナタレの様子などまったく気にせずに、リリンスは丈の長い上着の帯を解いて見せた。
ナタレはぎょっとした。彼女がその下に着ていたのは、白い木綿生地に可愛らしい花模様が刺繍された衣装だった。彼を驚かせたのは、その丈が膝が見えるほどに短かったことだ。
「ひ、姫様! 何て格好ですか……!」
手にした書類をバサバサと取り落とし、彼はリリンスの上着の前身頃をを合わせた。それから慌てて横を向く。
リリンスは上着の間からふくらはぎを出して、
「何で? 可愛いじゃない。動きやすいし」
「ああ足を見せないで下さいっ。とにかく俺は行きませんからね。王宮を抜け出すなんてとんでもない」
ナタレは視線を逸らしたまま書類を拾い集めて、話を打ち切ろうとした。
背を向けた彼の肩を、リリンスがぽんと叩く。
「だったら私、この服着て一人で出て行くわよ?」
「そんなに裸踊りが観たいんですか? すぐにキーエ殿に報告させて頂きます」
「ナタレ」
細い指先が肩の筋肉に食い込むと、意外に痛かった。リリンスは、深窓の姫君に似つかわしくない強い握力で、強引にナタレを自分へ向かせた。
「あなた、私に借りがあるはずよね? 二年前のあの一件……少しずつ返してもらうって約束でしょ?」
「ですから、姫様のお遊びに散々お付き合いしてきましたよ。でも外へ出るなんて反則です。危険すぎる」
「危険だからこそ頼んでる。王女の警護をしなさい、ナタレ。これでチャラにしてあげる」
リリンスは可憐な顔立ちに無邪気な微笑みを浮かべた。書物から巻き上がった小さな埃の粒子が、日の光に金色に輝き、艶やかな黒髪を縁取っている。こんな時でなければ見蕩れてしまう美しさだが、王女の性格を知り尽くしたナタレは騙されない。
「……ふざけんなよこのワガママ娘っ……」
顔を背けてぼそりと毒づく彼を、リリンスは澄んだ笑顔のまま見詰めた。彼女は自分の容姿をよく理解していて、相手が断れない表情の作り方を研究していた。
「ワガママ聞いてくれるのナタレだけなんだもの」
「分かりました、お供します! ただし、その服は着替えてきて下さい。目のやり場に困ります」
見過ごせば本当に単身で抜け出しそうだと危ぶんで、ついに白旗を上げたナタレの返事に、リリンスは飛び上がって喜んだ。
「あなたがその資料を届けてる間に着替えてくるわ。待ち合わせ場所はね……」
喜々として脱出経路を説明し始める彼女を眺めていると、ナタレは身体の力が抜けるのを感じた。
自分が危ない片棒を担ごうとしているのは分かっている。それなのに、なぜか最後までは抵抗できない。そして決して嫌な気分になるわけでもない。
とんでもない相手に借りを作ってしまったのかもしれないな――この二年間、幾度も繰り返した呟きを、彼はもう一度胸の中で再生した。
王宮の裏の堤防を乗り越えて、湖畔に降りてから街へ向かうことになった。
十日に一度の女官連絡会に出席するため、キーエは午後から不在にしている。古株の筆頭女官さえいなければ、残りの侍女の目を誤魔化すのはさほど難しくはなかった。
生理痛が酷いから横になるわ、起こさないでね――今月の生理はまだ先の予定だったが、リリンスは侍女たちにそう告げて、一人で寝室に籠った。名残惜しく思いながらも流行の服を脱ぎ、簡素な麻織の服に着替える。脱いだ服は丸めて寝台の布団の中に押し込んだ。天蓋を閉じればリリンスが伏せっているように見えるだろう。
工作を終えると、リリンスは低い窓枠に足を掛けて、ためらいなく乗り越えた。
広大な王宮の敷地で、棟と棟に挟まれた狭い通路、意外な場所に繋がる抜け道、警備の死角などを、彼女は熟知していた。伊達に幼い頃から王宮を駆け回って叱られていたわけではない。
見張りの目を潜り抜けて進んでいくと、待ち合わせ場所に辿り着く前に、ナタレと合流することができた。
「やっぱり抜け出せましたか……」
「抜け出せないことを期待してたみたいな言い方ね。こっちよ」
リリンスはナタレの袖を引っ張った。彼が着ているのは水色の普段着だ。腰に剣を据えているのは念のためだろう。
王都にやって来た時に持参したロタセイの衣服――鮮やかな緋色が特徴的な衣装を、少し前からナタレは着なくなった。身体が成長して合わなくなったのだろうが、新たに取り寄せることはしていない。式典の場でもオドナスの正装に身を包んでいる。
二年前の武装蜂起の責任を負う、彼なりの自粛なのかもしれなかった。本来ならばロタセイの王位を継いでいる立場の王太子なのだから。
二人は衛兵や女官たちを避けながら、こそこそと建物の間の細い道を歩き、庭の植栽の中を進んで、裏庭へと向かった。
この廊下を横切れば裏庭、という所まで来た時、
「何をなさっているのですか?」
と、極めて落ち着いた声に呼びかけられて、彼らは立ち止まった。
身を隠す所はどこにもない。リリンスとナタレは身体を強張らせて、同時に振り返った。
廊下の脇で、すらりとした姿が佇んでいる。透き通るような美貌の主を見紛うことはあり得ないだろう。
「サ、サリエル……」
「ごきげんよう、姫様、それにナタレも」
楽師は少し身を屈めて二人に近づいてきた。左手にはヴィオルを抱えている。
まずいのに見つかったわ、とリリンスは心の中で舌打ちをしつつ、平静を装った。
「あなたこそ何を?」
「昼食を頂いておりました。これからデガート卿のお屋敷へ出かけます」
この棟には使用人たちの食堂があった。サリエルが食事時に彼らに演奏を聴かせており、好評を博しているという評判はリリンスの耳にも届いていた。
「ええと、私たちは……」
「王宮裏の埠頭へ行くんだよ。中央神殿の神官長様の講義を受けに……俺はそのお供」
口ごもったリリンスに代わってナタレがそう答えた。
咄嗟に出てきた言い訳にしてはよくできてる、とリリンスは感心した。神官長と王女が親しいということはよく知られているし、この楽師が後でわざわざ神殿に答え合わせをするとも思えなかった。
「左様ですか」
サリエルは銀色の目を細めて、二人を交互に見た。皮膚の内側、心の中まで見透かすような、神秘的な煌めきが瞳に宿っている。
「そう、そうなの、行ってくるわね」
「お気を付けて」
「サリエルもね。デガート卿、すぐあなたに色目使うんだもん」
奇しくも今朝のキルケと同じようなことを口にしてから、リリンスはナタレを引っ張ってその場を立ち去った。
幸運なことに、辺りにサリエル以外の人間はいなかった。背中に銀色の視線を痛いほど感じながら、リリンスとナタレは廊下を小走りに進んで行った。
「バレてます、確実にバレてますよ姫様」
「大丈夫、サリエルはキーエにチクったりしないわ」
「キーエ殿をすっ飛ばして、陛下に話すかもしれません」
「だったら口封じに斬り捨てちゃう?」
リリンスは怖いことを笑顔で言ってナタレを黙らせた。
何とか王宮を抜け出せそうだ。バレたらバレた時で何とかなるわ――父親譲りの楽観的思考で、彼女は心配していなかった。それに、どうしても街に出たい理由もあった。
石造りの廊下を渡り切って外に出ると、裏庭に出ることができた。熱帯植物の濃い緑が生い茂る中庭とは違って、背の高い樹木はない。柔らかな下草の中に、淡い色合いの花々があちこちに植えられている。穏やかで優しい雰囲気の庭だった。
その向こうに、人の背丈よりずっと高い石塀が見えた。精緻に組み立てられたその塀は堤防で、王宮の北側を守るように水門まで続いている。これを越えればアルサイ湖畔だった。
石の隙間に手と足を掛けてよじ登るのは、リリンスとナタレには苦もないことだった。