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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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潮目

 ウィチクを出たウーゴの一行は、総督府からの捜索を躱しつつオク山中を進み、七日後には王軍基地に辿り着いた。


 戻ってすぐ、まずはティンニーから露骨な敵意を向けられた。王女の帰還を待ち侘びていた侍女は、憤怒の形相で今にも殴りかかってきそうだった。

 よくも姫様を置いて帰って来られたわねこの役立たず――無言の罵声に辟易しつつ、ウーゴはシャルナグの元へ赴き、経緯を報告した。リリンスが山向こうで足止めを食らっていると聞くと、シャルナグは凶悪な顔で部下を睨みつけた。


「殿下の身に何かあれば、まずおまえの首を国王陛下に献上する。その後で私の首だ」

「い、嫌だな、脅かさないで下さいよ」


 ウーゴは乾いた笑いを浮かべたが、天幕に集まった王軍幹部たちはみな渋面だった。針のむしろである。

 シャルナグは周囲の面々にいさめるような視線を送り、


「現場の判断は尊重したいが……イーイェンの連中は信用に足るのか? これ幸いに殿下を総督府へ差し出すかもしれんぞ」

「それが狙いならば、我々がウィチクに到着した時点でやったでしょう。奇襲を持ちかけたりもしなかったはずです」

「奇襲に失敗したからこそ、思惑が外れて変節するかもしれん。殿下の身柄を手土産にアノルトに詫びを入れて、あちら側に寝返る可能性もある」


 ウーゴは眉間を摘んでぐうと唸った。本気で悩んでいるふうはなく、どこか芝居がかった仕草だった。


「閣下の疑念はごもっともですがね……連合総長をはじめ、あちらさん、想像以上にオドナスには無関心でして。頭を下げてまでどちらかに擦り寄るとは思えないんです」


 そんな奴らを口説き落とした王太子殿下を褒めてあげて下さい、と彼はなぜか自慢げに付け加えた。


 この男もか――シャルナグは同情に似た感情を眼前の部下に向けた。この男もリリンスに掴まった。彼女の求心力は台風の目のようなものだ。本人は極めて中道なのに、周りが勝手に巻き込まれる。

 あの少女が意識的に人を使い始めたら恐ろしいことになると思い、シャルナグは苦笑した。その笑みもまた誇らしげなものである。ウーゴよりずっと先に、彼はリリンスに取り込まれているのだ。


「俺もさっそく戦線に復帰して、一刻も早く殿下をお迎えに行けるよう尽力します」


 過酷な旅の疲れをものともせず、ウーゴは背筋を伸ばした。その目の下には隈ができていたが、気力だけは漲っているようだった。彼の楽観は努力をこまねく言い訳ではない。


「おまえがいない間に状況は好転したぞ。向こうの情報が手に入ったんだ」

「とおっしゃると……間諜を放っていたので?」

「逆だ」


 眉根を寄せるウーゴの前で、シャルナグは声を潜めた。


「ここにいる幹部以外にはまだ秘密事項だ。王軍内部に敵の間者が残っているかもしれんからな――知事府直属の軍の中に、こちらへ寝返る動きがあるらしい」


 リリンスたちがウィチクへ向けて発った日の夕刻、知事府の兵士を名乗る者が秘密裏にシャルナグの元を訪れ、それを告げた。南部知事の直属とはいえ、もとは王都の出身者がほとんどで、地震で被害を受けた故郷を憂慮する者も多い。密かに王軍に協力するので、戦勝の暁には王都に帰還させてほしい、と。

 証として、使者は南部連合軍の兵員配置や作戦に関する詳細な情報を伝えてきた。


 さっきとは立場が逆転し、ウーゴは訝しげに首を傾げる。


「信用できるのですか? 罠かもしれません」

「もちろん最初は疑ったさ。しかし、実際に敵はその情報通りの動きを見せている。おかげでいくつか突破口も開けた」


 シャルナグの言葉に、周囲の大隊長が同意の肯きを見せた。戦場で敵の布陣を目の当たりにした彼らは、もたらされた情報の正確さを身をもって知っているのだ。


「属国の結束は固くとも、直属軍の忠誠心が揺らいだというわけですか……」

「揺さぶった者がいるんだよ、あちら側に」


 地震による王都の惨状を、被災した多くの民の様子を、知事府の兵士たちに語ったのはある楽師だという。懐かしい故郷の曲を奏でながら。

 シャルナグにはその様子が目に浮かぶようだった。決して感情的にならぬ彼の声と口調は、逆に聞く者の心に強く働き掛ける。

 今回の離反には彼の意図が深く係わっているように思えてならなかった。

 




 甲板に出ると、吹きつける潮風が暖かかった。強い日差しが海面で乱反射し、頬がヒリヒリしてくる。

 荒っぽい風と日光ではあったが、リリンスはそれを心地よく感じた。船室に籠っていては得られない爽快感だ。


 うねりにあわせてゆっくりと上下する視線の先に、彼女の来た世界、陸が横たわっている。オク山脈の黒い盛り上がりを背景に、ウィチクの浜は白く平べったい。海へと突き出した岬を挟んで、左手に見える街並みはドローブだろう。

 ドローブ――兄が治める街。まさか海の上から眺めることになるとは。

 リリンスは手摺りに寄りかかって、大きく溜息をついた。


 王太子がイーイェンに匿われてから十日が経過していた。彼女と護衛のロタセイ兵たちは、沖合に停泊した帆船の中で過ごしている。


 馬を丘陵地に隠して村人に世話を頼み、彼女らがこの船に乗り込んですぐ、ウィチク村には総督府から役人と兵士がやって来たらしい。実に際どく捜索の手を逃れたのだ。

 百名近い客人を余裕をもって収容できるほど、イーイェンの帆船は巨大だった。水や食糧も十分で、もし不足しても諸島部からすぐに補給が受けられる。理想的な隠れ家と言えた。

 海軍を持たない総督府側は、おそらくリリンスがここにいると気づいていて、手が出せないでいる。


 しばらく海面を見ていると吸い込まれそうな錯覚に陥って、彼女は急いで顔を上げた。船の重い軋みにも波の音にも慣れたが、常に足元が揺れている感覚だけにはどうしても馴染めない。駱駝の揺れとは種類が違う。

 外海ではないので波は穏やかなはずなのに、その不安定さが陸育ちのリリンスには苦痛だった。


 実際、乗船してすぐに彼女は酷い船酔いに苦しめられた。絶え間ない眩暈に襲われ、嘔吐を繰り返して何も喉を通らず、ほとんど起き上がれない。いっそ海に飛び込んでやろうかと本気で考えた。

 ハザンたちロタセイの男も、一人を除いて全員やられた。イーイェンの船員たちは客人がこういった症状に陥ると予測していたらしく、てきぱきと世話をした。


「砂漠で最強だかなんだか知らねえが、海の上じゃ赤ん坊の方がまだ使えるな」


 などとからかったニーザに、リリンスは再びあの下品な罵倒を浴びせたらしい。本人は朦朧としていてよく覚えていないのだが。


 とはいえ、その状態で襲われれば、いかに『緋色の勇兵』といえども切り抜けられなかっただろう。今日になってようやく回復してきたリリンスは、イーイェンの誠意と厚意に感謝していた。


「殿下、ご気分はいかがですか?」


 まだ少し顔色の悪いリリンスに、心配そうな表情のナタレが近づいて来た。次々に倒れる同胞の中で、ひとりだけケロッとしていた奇跡の人物である。


「うん、もうだいぶ慣れた」

「これ、船医から貰いました。匂いが酔い止めになるそうです」


 差し出されたのは、掌に乗る麻の巾着袋だった。中に干した薬草が入っているらしく、仄かに柑橘の香りがする。確かに清涼感があって、リリンスは鼻を近づけてくんくんと嗅いだ。


 ナタレは安堵の笑みを浮かべた。ひとり健常だった彼は、この十日間かいがいしくリリンスの看病をした。嘔吐すれば背中をさすり、脱水症状を起こさぬようこまめに水を飲ませ、滋養のあるスープを厨房から運んで食べさせた。

 沐浴と着替えだけは意地でも自分でやり遂げた彼女だったが、その後は力尽きて下着姿のまま寝台に倒れ伏してしまうので、慌てて毛布を掛けたこともしばしばだった。


「こんな苦しい思いしたの、生まれて初めてよ。ほんと迷惑かけてごめんね」


 リリンスは心底情けなさそうに呻いた。


「どうしてナタレだけ平気なんだろう……信じられない」

「さあ……体質だとしか」

「他のみんなは?」

「回復しました。身体がなまると、今、船の連中と一緒に訓練を」


 ナタレは背後を見やった。青空に向かって伸びる太い帆柱の向こうから、木を叩き合わせる音が間断なく響いている。広い甲板を利用して、砂漠の勇兵と南洋の猛者が手合せをしているらしかった。

 同胞をほったらかしにして王女にばかり構うとは薄情者めと、兄や仲間から半ば本気の抗議を受けたが、ナタレは別段気にしていなかった。むしろ、文句が言えるほど元気になってよかったと喜んだものである。


 リリンスはもう一度薬草の匂いを嗅いで、空よりも濃い色の海を眺めた。その先に見えるドローブの白い街並みは、遠方にも拘わらず鮮明に際立っていた。


「でもおかげで、悪いことを考える余裕がなかったわ」


 自分がこの船を下りて陸に戻れるのは、王軍が山向こうから道を開く時――すなわち兄が敗北する時だ。彼女の胸中は複雑である。


「兄様に会って動揺してるのかな……駄目よね、大将がこんな弱気じゃ」

「皆の前では毅然としていて下さらないと困ります。ですが今は俺しかいませんから……好きなだけ弱音を吐くといいよ」


 ナタレの口調が柔らかくなって、リリンスは彼に向き直った。生真面目だけが取り柄だった赤い服の少年は、ひと回り逞しくなって温和に微笑んでいた。

 リリンスはつられて笑って、ナタレの肩に頭を凭せかけた。すっかり身体に染みこんだ潮の臭いが頼もしい。


「人に見られるよ」

「もうみんな知ってるわよ。今さら隠したって遅いわ」


 少し焦ったふうな彼に寄り添いながら、リリンスは気持ちが軽くなるのを感じた。

 我ながら単純だと呆れる。だが、感情の切り替えの素早さも君主の資質だと考えることにした。


 ちょうどそこへカサカがやって来たのだが、彼はさり気なく大きな足音を立てて、ナタレが彼女の抱擁から逃れる余裕を与えた。何かと気配りのできる男である。


「王太子殿下、急ぎご報告申し上げたい件が」


 カサカが流暢なオドナス語で話しかけると、リリンスは神妙な顔で肯いた。二人きりの時間を邪魔されても不機嫌にならないのが、彼女の潔さだった。


「ただ今ウィチクより使者が参りました。オドナス王都の宮廷楽師を名乗る人物が村に現れ、殿下にお会いしたいと申しているとのことです」


 冷静な物言いにかすかな戸惑いが含まれている。リリンスは思わずナタレと顔を見合わせた。


「それはどんな人なの?」

「一見して西方人風の若い男だそうです。頭髪は黒、目は薄い灰色で、見慣れない弦楽器を持っているとか」

「サリエルだ!」


 リリンスとナタレは同時に同じ名前を口にした。神官長の身代わりとなって王兄に囚われたはずの彼が、なぜウィチクにいるのか――あまりに意外で二人とも混乱した。

 カサカは彼らの反応にほっと息をついた。頬骨の目立つ顔を緩めて、


「どうやらお知り合いのようですね」

「ええ、たぶん本物だと思います。でもどうして……」

「その方は顔に大きな火傷の痕があるそうですが、相違ございませんか?」


 最後に与えられた情報を、リリンスは自分の聞き間違いかと思った。





 ウィチクからやって来た小舟には、漕ぎ手である村の漁師とともに、印象的な風貌の男が乗っていた。

 帆船から垂らされた縄梯子を、男は身軽に上ってくる。船員たちは慣れた動きで手際よく彼を引き上げたが、甲板に降り立ったその姿を目にするや否や一斉にざわめいた。

 感嘆のせいではない。彼らの日焼けした顔に浮かんでいるのは恐れであった。


 ひと目で異邦の人間だと分かるその男は、長い外套の上に、布で巻いた丸い包みを背負っている。彼らを驚愕させたのはその顔である。

 黒髪に縁取られた白い右半面は秀麗を極め、左半面は醜く焼き崩れていた。その凄惨な落差のせいなのか、あるいは別の理由か、彼の纏った空気はとんでもなく忌まわしいものに感じられた。

 船乗りたちの多くが唇の中である名前を呟き、背中に隠した手の指を交差させた。呟かれた名前は船を沈めるという深海のあやかしのそれで、結ばれた印は魔除けの形だった。

 鏡のような銀色の眼差しに、イーイェンの民は目を逸らした。目を合せると災いが降りかかると言わんばかりに。


 奇妙な緊張感に包まれた甲板に、よく通る声が響いた。


「サリエル!」


 船首の方から駆け寄って来たのはリリンスだった。

 髪の短い王女に向かって男――サリエルが頭を垂れる前に、リリンスはぶつかるような勢いで彼に抱きついた。自分よりずっと高い位置にある首に両腕を回し、力いっぱいしがみつく。


「会えてよかった! サリエル……あなたが無事でよかったわ!」


 泣き出す寸前の笑顔でそう繰り返す彼女に、サリエルは少しだけ戸惑った表情を浮かべたが、すぐに、


「私もです、殿下。お会いできてよかった」


 と、細い背中を抱き返した。


 心から再会を喜び合う二人の姿は労りと親愛に満ちていて、暗い影など微塵もなかった。そう――彼に纏わりついていた不吉な空気が消え去ったのである。

 濃い朝霧が日の出とともに消え失せ、凪いだ青い海が神々しい姿を現すように。

 船乗りたちは、そこにいた忌まわしい存在が、正反対の何かへ変わったのを本能的に感じ取った。

 真昼の太陽のような少女は、誰憚だれはばかることなく楽師を抱き締めている。


 続いてやってきたナタレは、ほんの数瞬サリエルの傷を見て、生きていてよかったと呟いた。せり上がってきた感情を無理やり押さえつけたような、妙に平坦な声だった。


「どうやってここへ? 自力で逃れてきたのか?」

「知事府の状況が変わったんだ」


 サリエルはリリンスの肩に手をやって、身を屈めた。大きく明るい黒瞳を真正面から覗き込む。


「リリンス殿下、フェクダ殿下はお亡くなりになりました」


 驚いて息を飲む少女の前で、彼は声に疲れを滲ませた。


「私は目下のところ、殺害犯として追われています」


 告げられた言葉が事実であるとすれば、この戦争の潮目を大きく変える内容だった。


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