暁月の君
声をかけられる前に、誰が近寄ってきているのか、彼には分かっていた。
舞を舞うような軽やかな足音、わずかな衣擦れ、ごく薄い香水の匂い――人混みの中でも、彼の鋭敏な感覚はそれが誰であるのかはっきりと告げている。
「サリエル!」
予想通り、明るい声で背後から彼を呼んだのは、キルケであった。
サリエルが振り向くと、オドナス随一の歌姫は褐色の頬に笑みを浮かべた。縮れた髪を頭頂で丸く結い、象牙色の麻の衣装に身を包んでいる。飾り気のない格好をしているぶん、彼女の持つ天性の華やかさと艶やかさが余計に滲み出ているようだった。
サリエルもまた親しげに微笑んだ。
「おはよう、キルケ」
「おはよう。今朝はここで弾いてたのね。聴き逃したわ、残念」
キルケは天を仰いで嘆息する。大袈裟な仕草が舞台の上の振り付けのようで、かえってしっくりくるから不思議だった。
彼らがいるのは王都の市街地の中心にある広場だった――二人が初めて出会った場所である。
朝から賑やかに市が開かれ、食料品や衣料品、薬や書物や花や武器まで、雑多な露店が立ち並んでいる。その活況と商品の豊富さを見れば、この国がいかに繁栄しているか分かろうというものだった。
朝いちばんの買い物客がだいぶ落ち着いた時間帯で、騒がしい呼び込みや値切りの声は少なくなっている。昼に備えて店主は新たな商品を補充し、多くの客が両手に荷物を抱えて店先を冷やかして歩いていた。広場の空気はどことなくのんびりと和やかだ。
その片隅で、サリエルはたった今まで演奏をしていたのだった。満足した聴衆はもう三々五々に帰って行ったようだったが、まだ数人の幼い子供たちが彼に纏わりついていた。
「僕も大きくなったらサリエル様みたいな楽師になるんだ!」
「ねえ、今度弾き方を教えてよ」
無邪気にはしゃいでサリエルの手を引っ張る子供たちに、母親がこつんこつんとゲンコツを落とす。母親はしきりに頭を下げて子供たちを引き剥がしたが、サリエルは、またおいで、と優しく彼らの頭を撫でた。
彼の木綿の衣服の懐が、たっぷり詰まった銀貨の袋で膨らんでいるのを認めて、キルケは少し呆れた。
「宮廷楽師が何やってんのよ。他の大道芸人の営業妨害でしょうよ」
「今夜、少し資金が必要でね。たまにしか来ないから大目に見てくれ」
彼は手にした弦楽器を抱え直した。無花果を縦に割ったような形のそれは、ヴィオルと呼ばれる。
宮廷楽師として、王宮だけでなく貴族の邸宅に招かれて演奏することの多いサリエルだが、時間が空くと、こうやってふらりと市中へ姿を現すことがあった。王都へやってきたばかりの頃にそうしていたように、広場の隅や街角で艶やかな音色を響かせる。
そしてその度に、異国の旋律と楽の音に誘われるように、多くの聴衆が集まってくるのだった。
「いい演奏だったよ! 次はいつだい?」
「こんな綺麗な音楽が毎日聴けるなんて、王様が羨ましいねえ」
「これ今朝入った西瓜! 持っていきな」
今日も、市場の店主や売り子や買い物客が、次々とサリエルに声をかけてきていた。
そんな様子を眺めて、キルケは皮肉ではなく心からの感嘆を言葉にした。
「サリエルが演奏を始めると、他の辻音楽師も聴きに来るって話だわね。どこに行っても人気者なんだから」
「ありがとう」
サリエルは顔を上げて笑った。
馥郁たる香りの白い花が開いたような微笑みだった。見慣れているはずのキルケでさえ、至近距離で目にすると思わず呆けてしまいそうになる。
砂漠の民にはあり得ない透き通る白い肌、艶やかな黒い髪、そして長い睫毛に縁取られた両眼の瞳は、鏡のような銀色である。優美な孤を描く眉といい、真っ直ぐに通った鼻梁といい、左右対称な口唇といい、彼は月神の手で刻まれた彫像のごとく完璧な容貌をしていた。
いわゆる女顔というのとは違う。皮膚は滑らかだが、明らかに男性の骨格だ。それでいて、この楽師ほど美しい人間をキルケは未だかつて見たことがなかった。
「キルケは今からどこへ?」
サリエルは名残惜しげな広場の人々に別れを告げて、キルケと並んで歩きながら訊いた。広場から出るとすぐに大通りだ。
「午後から『赤猫亭』で歌うの。女将にまた頼まれちゃって。あなたも来る?」
市中にある老舗の隊商宿である。キルケがまだ無名であった頃に、日々の糧を得るためにその酒場で毎夜歌っていた。キルケにとっては古巣のような場所で、彼女の才能をいち早く見抜いた女将とは未だに交流が続いている。
「『オドナスの黒い歌姫』を客寄せに使うとは贅沢だね。でも今日は遠慮しておくよ。デガート卿のお招きを受けていて」
「あのオジサン、すぐサリエルに色目使うからやだ」
「悪い人ではないよ。それに大事な贔屓筋だ」
「まあ……あなたのことだから適当にあしらってるんでしょうね。でもねえ、サリエル、あなた頼まれればどこででも弾くんだもの。そんなに自分を安く売っちゃ駄目よ」
「君は選り好みしすぎだろ」
「当たり前よ。私は歌いたい所でしか歌わないの」
キルケはなぜか自慢げに胸を反らせた。
乞われればどこででも演奏するサリエルとは対照的に、キルケはいくら報酬を積まれようとも自分の気に入った相手の前でしか歌わない。奴隷の身分から歌手として自由を手にした彼女にとって、歌は唯一の武器であり、存在証明であり、誇りなのだ。決して粗末には扱わない。
サリエルは静かに首を振った。大通りを行き交う人々に視線を送りながら、
「私はこの国の人たちと接するのがとても楽しいんだ。だから、私の演奏を望んでくれるのなら、誰の所にでも行く」
「だけど、決して誰のものにもならない」
キルケは少し面白そうにサリエルの横顔を見やった。
「最近あなた王宮で『暁月の君』って呼ばれてるの知ってる?」
「ぎょうげつ?」
「夜明けにようやく空に昇り、すぐに蒼天へ消えてしまう、美しくも素っ気ない月――みんなに愛されながら、浮いた噂のひとつもない品行方正なサリエルにぴったりじゃない。あなたは誰とでも親しくできる人だけど、いつも上手に距離を取ってる」
サリエルは銀色の目を細めて苦笑した。歌姫の言葉はなかなか痛いところを突いていたらしい。
彼はその美貌と見事なヴィオルの演奏で、出会う者すべてを魅了した。雇い主である国王が、彼を巡って諍いが起きるのを危惧して、王宮内での色事は禁止、と釘を刺したほどである。だからさすがに堂々と言い寄ってくる怖いもの知らずはいないが、国王の目を盗んでちょっかいを出してくる者が男女問わず後を絶たない始末だ。
何者をも拒まない穏やかな物腰ながら、サリエルはそういった手合いの誘いに乗ったことは一度もない。いつも上手くかわし続けている。
「自分が原因で厄介事が起きるのは避けたい」
困ったようなその答えに、キルケは半分は納得した。確かにサリエルがその気になれば、嫉妬に狂った者同士を争わせて国ひとつ滅ぼすことすら可能かもしれない。
それでも、あえて彼女は踏み込んだ。彼が周囲と距離を置く理由は、あくまでも彼本人の中にあると思えたからだ。
サリエルの肩をいくぶん乱暴につっ突きながら、
「人間関係って厄介事の連続なのよ? 面倒臭いこと避けてるようじゃ、ほんとに心を開いてるとは言えないでしょ」
と、姉が弟を叱りつけるような口調で言う。
「もちろん付き合い方は人それぞれだから、強制するつもりはないんだけどさ……あなたはヴィオルの音色を盾にして、本当の自分を隠しているような気がする。異邦人だからと一歩引いているのなら、大きな間違いよ」
「それはどういう意味?」
サリエルの問いは、気分を害したふうではなかった。歯に衣着せぬキルケの物言いは相変わらずだが、小気味よく聞こえるのが不思議だった。
お揃いでお出かけかい、と、通りの向こうから食堂の親爺が声をかける。またうちにも食べに来てくれよ、親爺がそう気さくに挨拶すると、店先に集まっていた人々も同じように手を振った。
キルケは微笑んで会釈をした。彼女も、サリエルに負けず劣らず市中での人気が高い。酒場の歌手から国を代表する歌姫にまで上り詰めた彼女は、もはや伝説のようになっていて、下積み時代を知っていると自慢げに語る者たちも多かった。
うなじにかかる後れ毛を撫でながら、キルケは少し間を置いた。思わず身体に籠ってしまった力を抜く。
「サリエルが王都にやってきて二年になるわね」
「そうだね」
「あなたは二年間ちっとも変わらなかった。少しも衰えず綺麗なまま――容姿だけじゃないわ。あなたが病気になったり怪我をしたところを、私はまだ見たことがない」
「身体が丈夫にできているものでね」
「じゃあ、髪も髯も爪も伸びないのはどうして? それどころか日焼けもしない、汗すら掻かない。そんな人間、いる?」
キルケはきりりとした眉を興味深げに上げて、楽師の美貌を見返した。彼女に不審や敵意はなく、相手の反応を真摯に確かめている。
サリエルは穏やかな表情を崩さなかった。その白い顔には一筋の皺も一点の染みもなく、眩い日差しを平然と浴びている。
どこか他人事のような彼の様子に、キルケは息をついた。
「私だけじゃなく、たぶんみんな気付いてると思う――あなたが普通とはちょっと違うってこと。だけどね、それでも受け入れてるの。国王も姫様も将軍も街の人々も……ああ、あのロタセイの坊やも、あなたのことが好きだから、あなたが何者であろうと受け入れているのよ」
象牙色の衣装からすらりと伸びた彼女の腕が、サリエルのそれに絡んだ。恋人というよりは親友にするような、何気ない仕草だった。
「だから、自分が余所者だなんて思うのはよしなさい。あなたはとっくにオドナスの住人なんだから、彼らの気持ちに応えてあげて」
「どうすれば応えられるだろう?」
「簡単よ。普通に笑って泣いて怒って……何も包み隠さず自由にしていればいいのよ。たまには恋愛もいいと思うわ……いずれここを出て行くのなら尚更ね」
そう、この男がずっとここに留まることはないだろうとは感じている。来た時と同じく、風が吹き抜けるようにさり気なく、去っていく日がくるのだろう。
だからこそここにいる間は、結ばれた縁を大切にしてほしいとキルケは思った。ここは自分の大事な国だから――大事に想う人のいる国だから。
ぎゅっと強くなった彼女の腕を振り払うことなく、サリエルは微笑んだ。
「ありがとう」
礼の言葉には確かな感謝が込められていて、キルケは安堵した。多くの謎を含んではいるが、決して心のない男ではない――こんなに冷たい手をしていても。
「あ、私もあなたのこと好きだからね」
彼女は悪戯っぽく囁いて、紅を引いたその唇をサリエルの頬に軽く押し当てた。
周囲で、きゃあ、という若い娘の黄色い悲鳴が上がった。何かと人目を引く二人だから仕方がない。
「じゃ、またね」
キルケはするりと腕を解いて、大通りと交わる路地のひとつを指した。『赤猫亭』への近道である。
軽やかに駆けていく歌姫の後ろ姿を眺めながら、サリエルは自分の頬にそっと指を当てた。そこに残る香りと体温を確かめるように。彼にしては珍しく、戸惑いに似た色が顔をよぎっていた。
やがて少し笑って歩き出した様子は、まるで自分のそんな感情の揺らぎを楽しんでいるかのようにも見えた。
王宮に向かって賑やかな通りを進んでいく。通行人は多かったが、彼が人にぶつかることはなかった。ごく普通に歩いているようで、彼の動きは実に俊敏だ。
ふと、サリエルの視線が道の向こうに引き寄せられた。
たくさんの通行人に混じって歩く一組の男女。どちらもまだ若い。恋人同士らしく、楽しげに会話しながら肩を寄せ合っている。
サリエルは女の方に見覚えがあった。彼の足を一瞬止めたほど、ある意味それは場違いな人物だった。
ようやくのんきな楽師様が登場しました。相変わらず街中で荒稼ぎしているようです。