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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第六章 流れゆく先
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二人の女王

 おかの連中は首領が女だとたいてい侮るんだ、と、シキは滑らかなオドナス語で話した。

 美しい女である。杏仁の実の形をした目に、あまり高くはない鼻、ふくよかな唇、そして均一に日焼けした艶やかな肌――オドナスにおける美女の基準からは外れているものの、人目を引く魅力的な容貌であった。年の頃は二十代後半だろうか。


「だから、相手によって交渉役を変えている。ああ、そちらの言葉は分かる。多少話し方が硬いのは勘弁してくれ」

「……助かります」


 リリンスは自国の言葉で答えて、勧められるまま椅子に戻った。まだ警戒の様子は消していないが、眼前の相手に対する興味がありありと表情に浮かんでいた。

 女であるシキもまた、さきほどまでの交渉役と同じような服装だった。男装なのか、イーイェンではこれが普通なのか、リリンスには判断できない。剥き出しの肩や腕は筋肉質に引き締まり、戦士を思わせた。対照的に、大きく開いた胸元からは零れんばかりの膨らみが覗いている。

 リリンスが目のやり場に困っていると、


「南洋語がご堪能でいらっしゃる。どこでご習得を?」


 と、こちらも興味深げにシキは尋ねた。


「宮廷楽師に習いました。長く旅をしてきた人で、いろいろな国の言葉が話せるんです」


 リリンスは少し沈んだ様子で目を伏せた。

 サリエルを教師に二年間密かに南洋語を学んできたのは、ほのかな夢を抱いていたからだ。いつか兄の治めるドローブへ行ってみたいと――こんな形で役に立つとは皮肉だった。


「さすがに有能な人材を抱えておいでだ。で、なぜ偽物と見破れた? あなたの兄君は気づかなかったのに」


 一瞥されて、強面の偽物はわざとらしく口を引き結んだ。たかが小娘ひとり、脅し上げればいかようにも言いくるめられると舐めていたが、王女の度胸は想像の遥か上を行っていた。


「イーイェンの頂点に立つ方にしては、こちらを挑発するばかりで歯切れが悪かったので。それから……その、指輪」


 男のごつい右手小指に窮屈そうに嵌った指輪を、リリンスは指す。


「右手に剣ダコができているから、あの方、右利きでしょ? 剣を扱う人間が、利き手に指輪を嵌めてるなんて変だわ。第一、全然似合ってないし……」


 リリンスは笑いを堪えるように口元へ手をやった。

 ほう、とウーゴが声を上げた。些細ながら重要な違和感を察知したリリンスの感性に、素直に感心したのだ。後の二人も同じ気持ちだった。彼らは誰もそのことに気づかなかった。


「本当の持ち主は、もっと指の細い方ですよね。彼が嵌めるには右手の小指が精一杯だったんでしょう。指輪が借り物なら、身分も借り物なんじゃないかと思って」

「ご慧眼、畏れ入るね」


 シキが肩の高さに掌を上げると、男は紙屑のように顔をしかめてから、指輪を外して彼女に渡した。

 精緻な細工と真珠が美しい指輪は、シキの左手人差指にするりと嵌った。黄金が褐色の指に映え、自らの正当な持ち主が誰なのか主張している。


「この模様は、代々連合総長にだけ許される意匠なんだ」

「どおりで……見事な細工ですね」

「箔をつけるために貸したのが仇になったか。こいつはニーザといって、私の補佐役のひとりだ。使える男なんだが、下品でがさつで口が悪い。重ね重ね、謝罪する」

「ひでえなあ……」


 上司からの悪口をカサカがそのまま通訳し、ニーザは呻いて天井を仰いだ。周囲の仲間たちがどっと笑う。ずいぶんと砕けた雰囲気にリリンスは戸惑った。

 その後、ニーザがいそいそとテーブルを元の位置に戻したのも微笑ましかった。


「それで、あなたの要請に対する返答だが」


 シキは背筋を伸ばして、口調を真剣なものに変えた。


「私の一存で決められないのは本当だ。連合総長は専制君主ではない。あくまで各部族の族長の代表にすぎず、重要事項は合議制で決定する」

「合議制……」


 聞き慣れない言葉に、リリンスは眉を寄せた。皆で話し合って決めるという意味だよ、とシキは付け足して、


「さっきニーザの言ったことは我々の総意だ。次代のオドナス国王があなたでも兄君でも、別に構わない。だからここで負け組に味方をして勝者からの遺恨を買うよりは、傍観者を決め込んだ方がいいと思っている」

「第一王子に加勢されるよりは、こちらもその方が助かります。ただ、どちらが勝ったとしても、オドナスのイーイェンに対する評価は下がりますよ。官軍と賊軍、双方の代表者と会見をしておきながら、結局戦況を見物していただけの日和見主義者だと」

「リリンス殿下は穏健派だと聞いていたが、ずいぶん挑発してくれるな」

「将来の外交を穏健に進めたいからこそ、お願いしています」


 リリンスは、白い花が開くように柔らかく微笑んだ。ついさっき、大の男の胸倉を掴み上げた少女の笑顔である。


「断言できますが、兄は必ずイーイェンに侵攻します。どちらに味方しようが、傍観しようが、あちらが勝てば数年後には戦争でしょう。もちろん海上でイーイェンが破れるとは思いませんが、無駄な犠牲が出ます」

「あなたの側について、なおかつあなたを勝たせなければ、平和は保てないと?」

「我々は勝ちますけどね。形だけでも協力しておいた方が、今後気持ちよくお付き合いができますよ?」


 美しい連合総長は、じっとリリンスを見詰めた。杏仁の実の形をした目は強く煌めいているが、感情が読み取り辛い。燃え滾っているのは怒りか、戦意か、歓喜か。

 いずれにせよ溢れるほどの情熱が分かって、リリンスは嬉しくなった。できれば敵にはしたくないと思った。


「女性らしい考え方をするね、リリンス殿下、いい意味で」


 目の輝きはそのまま、シキは口元を緩めた。


「武力による完全勝利よりも和を尊ぶ――敵を作らぬために妥協点を探るのは実に面倒臭いが、大国の君主には必要な資質だ。気に食わない相手を片っ端から殲滅するわけにはいかんだろうからな」

「シキ様のことは好きですよ、私。好きになりました」

「光栄だ」


 シキは立ち上がって、右手を差し出した。


「族長会は私が責任をもって説得しよう。あなたの将来性を見込んで、イーイェンは王太子に味方する」

「総長、いいんですかい? そんな簡単に……長老連中にどやされますよ」

「老い先短いジジイどもの小言なんぞ気にするな」


 ばっさり切り捨てられてニーザは肩を竦めたが、その表情は嬉しそうだった。また総長の独断だよ、しょうがねえなあ――他の面子から溜息とぼやきが漏れるも、反対の声は上がらなかった。


「あ、ありがとうございます! 感謝します」


 リリンスは跳ねるように椅子から立って、彼女の手を握った。緊張が解けたからか、腕と足が震える。

 感情が分かりやすく、それを隠そうともしない王女の様子を、シキは好もしげに眺めた。


「いい女王になるよ、リリンス殿下。お会いできてよかった」


 繋いだ手をすいと引かれて、身を乗り出したリリンスの頬に、シキは軽く唇を押し当てた。潮と太陽の臭いが、リリンスの鼻先を掠めた。

 反射的にナタレがリリンスを引き寄せた。かばうように肩を抱いてシキを睨みつける。

 敵愾心を剥き出しにしたナタレの行動に、シキは噴き出した。


「すでに心酔している部下もいるようだしな。が、恋愛はしても馴れ合うなよ」


 最後の一言は南洋語での忠告だった。 





 イーイェンの代表団が客間を退出した後、脱力して椅子に座ったリリンスの周りを護衛の三人が取り囲んだ。

 深々と頭を垂れたのはウーゴである。


「お見逸れいたしました、殿下。見事に目的を達成されましたな。俺の出る幕じゃなかった」

「実務的な交渉は師団長に任せるわ。専門的なことは分からないから」

「十分です。方向性さえ決まれば、後は何とでも」

「しかしまさか南洋語を使いこなされるとは」


 寡黙なハザンまでもが、少し興奮した口調で言葉を挟んだ。

 南洋語を話せる人間は、今のところオドナス王宮にはわずかしかいないはずだった。アノルトをはじめ、職務上イーイェンと関わる者だけに限られている。

 リリンスは照れ臭そうに頬を掻いた。


「ちゃんと通じるかどうか心配だったの。役に立ってよかった」

「そういや、あの無礼な馬鹿に何ておっしゃったんです? ほら……最後の」


 にやにやするウーゴに、彼女は苦笑いする。


「実は私もよく分からないのよね。口喧嘩になった時に使える罵り文句を、サリエルにいくつか教えてもらったんだけど……」


 一撃で破壊力のある悪口を教えて、とせがんだリリンスに、これは効きますよ、と美しい教師が伝授した言葉だ。

 全員から期待の籠った視線を送られて、通事はううと唸った。訳さなかったのは彼なりの気配りだったのだ。


「あれはですね……男性の身体の一部が……その、あまり立派ではなく、なおかつ機能的にも問題があるという……そのような意味で……」

「もう最っ低! サリエルの馬鹿!」


 通事の解説を最後まで聞かずに、リリンスは喚いた。耳まで真っ赤になっている。

 ウーゴは腹を抱えて笑い転げ、ハザンは聞かなかったことにしようと決心し、ナタレはどうしたものかと途方に暮れるのだった。





 強い潮風が短い髪の毛を嬲る。

 濡れた砂に足先が埋もれる感触は、リリンスにとって新鮮だった。服の裾を捲り上げた彼女の細いふくらはぎまで、白い波が濡らしている。

 王都を抱くアルサイ湖は、砂の中に輝く鏡のようなものだった。風で多少波立つことはあっても静謐で、常に穏やかに沈黙している。

 それに比べて、眼前に広がる青い砂漠はひどく雄弁だった。大きなうねりは一瞬たりとも同じ姿をとどめず、常に動き続けている。波は勢いよく打ち寄せ、砂浜を滑らかに駆け上り、跡を残して引いてゆく。

 その動きが面白くて、リリンスは飽くことなく波を追いかけた。たまに来る大きな波の飛沫を被り、顔まで跳ねたその水の塩辛さに驚いた。


「海の水ってほんとに塩辛いんだね! ほら、目に入ると痛いよ!」

「うわっ……やめて下さいよ殿下!」


 リリンスが両手で水を跳ね上げて、それをまともに顔に被ったナタレは、海水の塩分を身をもって知った。彼女が波にさらわれぬよう傍で見張っているのだが、もう全身びしょ濡れになっている。


「若さが眩しいねえ……」


 少し離れた砂浜の上に座ったウーゴはしみじみと呟いた。波打ち際で戯れる二人は仲睦まじい恋人そのものである。

 万が一にもおかしなことにならぬよう監視しておけ、とシャルナグから厳命されていたものの、恋愛は自由だとウーゴ自身は考えていた。それに、あの二人が私情に流されて本来の役目を疎かにするとは思えなかった。


「さっきの話、本当に乗るのか?」


 ハザンが腕組みをしてウーゴを見下ろしている。

 彼の同胞たちは、ウィチクの村で休息を取っているところだ。オドナス王太子とイーイェン連合が手を結んだと知ると、村人たちは途端に友好的になった。シキの口添えもあって、彼らは客人としてもてなされている。


 ウーゴは脛の上に肘を載せて頬杖をついた。リリンスとシキの会見の後、改めてイーイェンの実働部隊と打ち合わせた内容を反芻する。


「面白いとは思うね。ロタセイの協力があれば、十分に実現可能だ。君たちの得意分野だろ?」


 いささか皮肉めいた物言いにも、ハザンは気分を害した様子はなかった。


「殿下がやれと命ずるなら、俺たちは従う。だが、殿下には少々酷ではないか?」

「うちの姫君を気遣ってくれるのかい? ロタセイもずいぶん丸くなったもんだ」

「穏健派の君主を望むのは、俺たちも同じだ」

「殿下はやってのけるさ。それが戦争の早期終結に繋がるのなら」


 ウーゴは再びリリンスに目を向ける。

 いつの間にやら浜に出てきた村の子供たちが十人余り、彼女の周囲に群れていた。初めて見る美しい少女に好奇心を刺激されたのか、みな目を輝かせている。リリンスは気さくに笑って、南洋語で二言、三言話しかけた。

 一緒になって水遊びを始めた彼らを、ウーゴは半ば呆れ、半ば喜んで眺めた。オドナスの王太子はあんな幼子をも惹きつけるらしい。


 彼女の屈託のない笑顔がオドナスの次代を象徴するものならば、国の未来は明るいはずだと信じられた。

 




 ドローブからオク山脈へ続く街道は、長閑のどかな昼の光に満ちていた。

 丘陵地に茂った青草が、吹きつける潮風に揺れている。その間をゆるゆると上ってゆく広い街道は、踏み固められて滑らかだった。港から内陸へ多くの人と物資を運ぶために整備された道だが、今はそこを行き交う隊商の姿はない。内乱が本格化し、多くの流通がオドナス国内を避けるようになったからだ。


 今その道を往くのは、騎馬の長い隊列だった。数は五百――揃いの軍服に身を包んだ騎手はみな腰に剣を携え、弓を背負い、物々しく武装している。

 隊列の中ほどにアノルトの姿があった。

 ドローブでイーイェン連合との会見に臨み、総督の業務をいくつか片づけてマージ・オクへ戻る途中の彼は、さすがに疲労した顔つきだった。

 それでも、イーイェンとの交渉はまずますの成果を得て、アノルトは満足していた。


 連合総長は粗野で単純な男で、アノルトの言葉を信用したらしく、同盟の締結をほぼ了承した。最終的な決定は族長会を経てからになるので、即答をもぎとれなかったのは残念だが、背後の守りが固まったのは確実だとアノルトは思っていた。

 イーイェンが直接的な戦闘に加わらなくとも、海上からの物資の供給を南部で独占できれば、長期戦にも十分耐えられる。

 とにかくあの伯父に主導権を渡してはならない――アノルトはやや足早に馬を進めた。


 隊列は見渡しのよい丘陵地帯を上り切って、やがて山へと続く森に入っていった。

 木洩れ日の降り注ぐ広葉樹の森はひどく静かである。五百頭の馬の蹄の音だけが、やけに大きく規則正しく響いた。

 その音がいきなり乱れたのは、隊列が最後尾まで森に飲み込まれた直後だった。

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