南の使者と東の戦士
ナタレには父が笑った顔を見た記憶がなかった。
先のロタセイ王であった父ザルトは、常に厳格で武人然としていて、息子たちには公平に厳しく接した。ナタレも兄弟たちも物心ついた時に剣を手渡され、指南役から容赦のない稽古をつけられた。
幼い頃、全身に生傷の絶えなかったナタレは、父から労りの言葉を掛けられたことがなかった。彼はそれが当然だと思っていた。強くならなければ、王の子とは認められないと分かっていたからだ。
そんな父が、たった一度だけ、笑みのようなものを見せた時がある。
ナタレは川原にいた。ロタセイの定住集落付近を流れる貴重な水場である。稽古が終わり、打ち据えられて腫れあがった腕を水に浸して、十歳のナタレはひとりで歯を食い縛っていた。
ふいに姿を現した父に、彼は慌てて腕を隠した。涙が零れそうになっていた目元を拭い、鼻血と鼻水を啜り上げる。
父は怪我を負った息子を気遣うこともなく、ただ、稽古は辛いかと訊いた。
「辛くなどありません! もっと強くなって、皆を守れるようになって、いつか……」
父上の跡を継ぎたい、という言葉をナタレは飲み込んだ。異母兄を蔑ろにする望みを口にするのは、やはり憚られたのだ。
十歳にして自らの立場を弁えている息子に、父は表情を変えなかった。
「我々は数百年前から、この地で変わらぬ生活を続けてきた。祖先が守ってきたこの暮らしを将来に繋げるのが王の役目だ」
「はい、父上」
「だがな……もしロタセイが変わらねばならぬ時が来たら」
父は川の水面を見詰めた。
山岳地帯に源泉を持つこの川は、大陸を縦断して南海にまで繋がっているのだという。今は細く清いこの流れも、様々な濁りと汚れを含んで大河に育ってゆく。そしてこの川の流れ着く果てを見た者は、ロタセイの民の中にはまだいない。
「その時、正しい選択をするのもまた王の役目だ。変わるか、滅ぶか――」
「そんなことはあり得ません。だってロタセイはみんな強いし、父上はいちばん強い。どんな外敵だって跳ねのけられるでしょう?」
「だといいのだがな。今、西方で強い風が吹いている」
空に目を上げる父の横顔に、ナタレはふと不安を覚えた。
「嵐になるかどうかはまだ分からん。が、固いだけの岩はいつか崩れてしまうものだ。ナタレ、おまえは強さとともに柔軟さも学ばねばならない」
できるか、と問われ、ナタレは元気よく肯いた。意味はよく分からなかったが、とにかく父の期待に応えたい一心だった。
すると父は、その大きな掌で彼の頭を撫でたのだった。
「そうか、しっかりやれよ」
黒い頬髯に覆われた口元が、うっすらと笑みを刻む。思いがけず優しく温かな掌の感触とともに、父のその表情はナタレの心に深く刻まれた。
父の語った本当の意味を彼が知るのは、もっとずっと後になってからであったが。
狭い登山道の端を踏み外して、馬の後ろ脚は下方へ滑った。いきなり斜めに傾いた鞍の上で、リリンスは咄嗟に手綱を手放してしまった。
「殿下! しっかり掴まって!」
一列で進んでいた隊の中で、彼女のすぐ後方にいたナタレがまず気づいた。素早く自分の馬から飛び降りて、足を取られてもがくリリンスの馬の手綱を掴む。
続いて前後の兵士たちも駆けつけてきて、馬の首を叩いたり数人で胴を押したりして、落ちかけた人馬を引き上げるのに手を貸した。
青鹿毛の馬は激しく嘶きながら前脚を踏ん張り、何とか平坦な道へ四本の脚を戻すことに成功した。
「お怪我はありませんか!?」
「う、うん、大丈夫。ちょっとボーッとしてたみたい」
リリンスはナタレに支えられて馬から下りた。激しく跳ねる心臓を押さえつつ、端がやや崩れた道から見下ろすと、苔に覆われた急斜面がずっと下まで続いている。あのまま馬ごと滑落していたら命はなかったかもしれない。
「ごめんね、びっくりしたよね」
自分自身を落ち着かせるように、彼女は馬の鼻面を撫でた。兵士が後ろ脚を調べているが、特に怪我はなさそうだった。
「どうした!? 何かあったか?」
進行の止まった隊列の前方から、他の騎馬の脇を擦り抜けて一人の男が走って来た。緋色の旅装束に身を包み、馬上でも扱いやすい短い剣を腰に据えたその青年は、浅黒く日焼けした顔に緊張を漲らせていた。
リリンスは大きく首を振って、しっかりした声で答える。
「大事ありません。私の不注意でこの子が足を滑らせたの。以後気をつけます」
「左様ですか。休憩が必要ならば遠慮なくおっしゃって下さい――ナタレ」
王太子の無事を確認し、やや険しさの消えた青年の面差しは、彼が名を呼んだ相手に酷似していた。
「殿下は山道には不慣れだ。十分に目を配って差し上げろ」
「承知しました――兄上」
答えるナタレもまた、緋色の衣服を身に着けていた。
彼らだけではない。百名ほどの隊列を構成する兵士のほぼ全員が、同様の赤い服を着用している。生い茂った広葉樹の枝と柔らかな下草を背景に、彼らの存在はひどく鮮やかに目に染みた。
「峠までもうひと踏ん張り、頑張りましょう」
笑みらしきものを見せてから列の先頭へ戻って行く青年を、リリンスは感謝の気持ちとともに見送った。決して表情豊かではない彼が、自分を精一杯気遣っているのが分かったからだ。
「やっぱりよく似てるわ、あなたたち」
「そうですか?」
「うん、服がお揃いだから、ますますそっくりよ」
否定したいのか照れているのか、ナタレは複雑な表情を浮かべる
リリンスは鐙に足を掛けて、軽やかに馬の背に跨った。慣れない山中の道行きに、筋肉が強張り全身が悲鳴を上げていたが、ここで弱音を吐くわけにはいかなかった。
オドナスを信じて力を貸してくれているこの人たちに報いなければ――疲労の溜まった彼女の細い身体を、その強い思いが支えていた。
ナタレの兄が率いる、東方から馳せ参じた緋色の兵士たち。誰が想像しただろう――かつてオドナスに刃向った彼らが、次期国王となるべき少女の警護を務めるとは。
リリンスは顔を上げてぴんと背筋を伸ばす。
騎馬の隊列は、木々の間を縫うようにして続く狭隘な山道を、再びゆっくりと進み始めた。
王女の暗殺未遂事件から十日後、南部に足を踏み入れるや否や、第一王子に与する属国の連合軍と本格的な戦闘が開始された。
懸念された王軍と各国からの援軍との連携は、予想外にうまくいった。わずか数日間ではあったが、訓練は十分に功を奏したのだ。もともと領土拡大に伴って統合された異民族の軍隊である。シャルナグをはじめとする王軍幹部は、そのような多様な集団の統制には慣れていた。
とはいえ、南部の連合軍には地の利があった。地形も気候も知り尽くしている。
小集団に分かれて同時多発的に奇襲と撤退を繰り返す彼らを、シャルナグは警戒した。戦闘自体には勝利できても、迂闊に深追いすると本隊が分断される危険性がある。罠だと分かり切っていたから、仕掛けてくる敵をその都度叩くに止めた。
数の上では圧倒的に有利でありながら、王軍の侵攻は遅緩にならざるを得なかった。
当然のごとくリリンスは戦場に出向くことは許されず、後方基地に留まった。
じっとしていられる娘ではなく、炊き出しを手伝ったり、医療班に混じって負傷者の救護を務めたり、彼女は積極的に雑用をこなした。侍女とともに溌剌と働く王女の姿は、前線と基地を行き来する兵士たちに癒しと活力を与えたようだった。
正規王軍の兵士も属国の兵士も、出自に関係なく果敢に戦っている。それを間近に見て、リリンスは自分にできることの限界に歯痒さを感じていた。
優勢とはいえ、毎日のように犠牲者は出ている。惨たらしい傷にも血の臭いにも彼女は怯まなかったが、うわ言で故郷の母を呼びながら息を引き取る兵士を看取る度、この戦争を一日でも早く終わらせたいと願った。
そんな折、ある男が王軍の基地を訪れた。
「連合総長がオドナス王太子殿下との会見を希望しております」
南洋諸島、イーイェン連合からの使者を名乗るその男は、リリンスとシャルナグを前にそう申し出た。三十代前半といったところの、痩せぎすで骨ばった顔立ちの男だった。錐みたいだ、とリリンスは思った。
「ドローブ近郊のウィチクという村で、お会いできる手筈が調っています。殿下にはぜひとも南海へお越し頂きたい」
「たいへん興味深い話だが、貴殿が真実イーイェンの使者だという証拠はない。カサカ殿……とおっしゃったな。だいたい、なぜ殿下が従軍しているとご存じなのだ?」
シャルナグはイーイェン連合総長からの親書を検めながら、重々しく尋ねた。カサカは頬骨の目立つ顔で真面目に答える。
「我々は、この度の内乱の行方を慎重に見守っております。結果如何では、今後貴国との国交を再考せねばなりません。そのためには使える情報源は何でも使います」
「有利な方に与するというわけか。懸命だな」
「すでにアノルト殿下とは会見を終えました」
あっさりと出てきた言葉の内容に、リリンスが椅子から腰を浮かしかけた。
使者は鋭い眼差しを彼女に送っている。細いが、赤銅色に日焼けした身体は引き締まっている。砂漠では見慣れぬ意匠の装束に、聞き慣れぬ訛り――何より、男からは嗅いだことのない臭いがした。それが潮の香りだとリリンスには分からなかったが、自分たちの住む土地とは別の場所からやって来たことは本能的に感じ取れた。
「将軍、私、行ってみたいです」
リリンスはカサカから視線を外さす、そう言った。
「イーイェンと協力できれば、海から連合軍の背後を突けます。そうなれば戦争は早期に収束するでしょう?」
「殿下、十分お分かりだろうが、危険すぎます。敵の罠かもしれません」
「ええ、ですから強力な護衛をつけて下さい。この人は危険を顧みず、単身でここへ赴いた。少なくとも命を懸けていることは確かです。だったら私も、命を懸けるのは当然の務めだわ」
シャルナグは眉間に皺を刻んで凶悪な表情になった。
父親と同じで、こうなると梃子でも動かないのは身に染みて分かっている。また、この場合王女の言い分にも一理あった。本当にイーイェンからの招待であれば、願ってもない機会なのだ。
将軍である彼は戦場を離れらない。いかに王女の身を守るか、彼は考え始めた。
ナタレは前線には駆り出されず、リリンスの身辺警護を続けていた。
暗殺が企てられ、まだ刺客が王軍内に残っている可能性がある以上、気は抜けなかった。戦場に立てないのは口惜しくもあったが、ナタレにとってはリリンスの安全を確保することこそが最優先事項だった。
あの朝、夜明けに交わした約束を守るためにも、必ず無事で王都に帰還しなければ――変わらぬ態度と立ち位置でリリンスに接しながら、彼女もまた思いは同じはずだと彼は確信していた。
彼の眷属が遠い東の地から南部へ到着したのは、戦闘が開始されて数日が過ぎた頃であった。
鮮やかな緋色の衣服に身を包み、五百名の隊列を組んで現れたロタセイの戦士たちを、王軍兵の誰もが畏怖の眼差しで迎えた。王軍だけではない。属国の人間もみな特別の敬意を籠めて彼らを眺める。
オドナスに『喧嘩を売り、しかも生き延びた』唯一の民族なのである。
指揮を取っていたのはナタレの異母兄、ハザンであった。
二年前の反乱以来の再会となる兄が駱駝から下りるや否や、ナタレは足早に駆け寄った。
「兄上! お久し振りです!」
「ナタレか! 背が伸びたな」
周囲の興味深げな視線を気にも止めずに、兄弟はがしりと抱き合った。手紙で頻繁に近況を報告し合ってはいても、直接顔を見るとお互いに懐かしさが込み上げた。
「ご結婚をなさったと伺いました。おめでとうございます」
珍しく年相応の明るい笑顔を見せるナタレに、ハザンは照れ臭そうに顎を掻いた。
「ああ……再来月には子が産まれるんだ」
「それはよかったですね! あれ、でも……」
ナタレはふと思い至り、指を折る。兄が幼馴染であるカザを妻にしたのは、確か二ヶ月ほど前のことである。
計算が合いませんが、と言いかけてナタレはやめておいた。カザがハザンを好いていたのは知っていたし、ハザンもまた憎からず思っていたはずだ。結ばれるべくして結ばれた二人なのだと、心から祝福できた。
到着後すぐ、ハザンはロタセイを代表してリリンスに謁見した。
同席したナタレのわずかな懸念をよそに、自治権を奪った宗主国の後継者の前で、ハザンは丁寧に跪いた。
「初めてお目にかかります、リリンス王太子殿下。先のロタセイ王の長子、ハザンと申します。この度は参上が遅れまして申し訳ございません」
「遠路遥々ありがとうございました、ハザン様。ロタセイのご助力に感謝します。父になり代わりまして、お礼を申し上げますわ」
リリンスもまた礼儀正しく礼を述べて、顔を上げたハザンを前に大きな目を輝かせた。
「まあ、ナタレとそっくり!」
率直すぎる感想に、ハザンは一瞬動きを止め、それから思わず苦笑した。
その場に立ち会っていた王軍幹部たちの間からも、溜息と笑みが漏れる。彼らにとってロタセイの反乱はまだ記憶に新しい。ロタセイ兵を殺した者も、部下をロタセイ兵に殺された者も、この中には混じっている。そんな微妙な緊張感を、王女は和ませた。
奇妙に緩んだ空気の中、リリンスの隣に立つシャルナグが大きく咳払いをした。
「この地で訓練を行った後、貴殿らにはさっそく戦場に出てもらおう。現在のところ我が軍は敵の奇襲攻撃に苦慮している。機動力に長けたロタセイの軍は、必ずや大きな戦力となるものと期待しているぞ」
「そのことなのですが、将軍――私からひとつ提案が」
リリンスは少し気まずそうに手を挙げた。




