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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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交錯する思惑

「それは確かか?」


 執務机の向こうに座ったフェクダは、部下の報告に眉根を寄せた。


「はい、確かな情報です。王軍には王太子が同行していると」


 部下の男は潜めた声でそう答えた。彼の主な職務は、情報の収集と分析であった。


「よくセファイドが許したな……」

「それが……どうやら王女が勝手について来たらしいのです。国王は後で知って、渋々認めたとか」

「あの娘らしい」


 フェクダは口元に浮かんだ笑みを押し殺す。


「いかがなさいますか? ご指示頂けましたら、すぐにでも手は打てますが」


 部下が尋ねると、フェクダは唇を指でなぞって少しだけ考え、やがて大きく肯いた。


 主人の意志を確認して、部下は静かに頭を下げた。その顔に緊張が走っているのは無理からぬことであった。

 対照的に、机上の一点を見詰めたフェクダは平静である。黒い瞳の中で、蝋燭の炎だけが揺らめいていた。


 報告を終え指示を受けた男が部屋を出てゆくと、入れ替わりにアノルトが姿を現した。

 荒い足音とともに入って来た甥を、フェクダは意外そうに眺めた。


「どうした、こんな遅くに血相を変えて」

「伯父上、マルギナタを俺に近づけるのはおやめ下さい」


 アノルトは低い声で言った。口調は極めて冷静だが、怒りに呼吸が乱れていた。


「何をお考えか存じませんが、彼女を妻にする気はありません。俺の妻になるのは……」

「リリンスだけ、かね?」


 彼の怒気をいらうように、フェクダは笑った。


「無理だよ。国王となるべきおまえに、二代続けての近親婚は許されない」

「リリンスは父上の実子ではないと、我々は主張しているはずです」

「そんなものは建前にすぎぬと、誰もが知っている」


 突き放すような素っ気ない言い方だった。欲しい物を手に入れるのに手段は選ぶな、と彼を焚きつけた男である。


「大人になれ、アノルト。何もリリンスを諦めろと言ってるわけじゃない。愛人にして好きなだけ可愛がってやればいいさ。だが妻にはできない。子も作るな。正妻にはマルギナタを選べ」

「伯父上……やはりあなたは、正妃の父親として権力を振るいたいのですね?」

「まあね、否定はせんよ」


 その答えに、紅潮していたアノルトの頬からすっと血の気が引いた。驚愕したのではなく、興奮の熱がいきなり引いたためだ。


「何事にも代償が必要だろう? 私は別段無茶を言っているつもりはない。それに、娘婿になろうと、おまえが私に付け入る隙を見せねばよいだけのことだ」

「伯父上のご意向はよく分かりました。心に留めます」


 大人しく首肯したアノルトは、すでに平静さを取り戻していた。

 執務机を照らす蝋燭の炎が、彼の目の中にも赤く揺れていた。


 甥が納得したと取ったのか、フェクダは机の上で両手を組んで身を乗り出した。


「明日にしようかと思っていたんだが、来てくれて丁度よかった。イーイェン連合の代表との面会の手筈が調ったんだ」


 その名詞に、アノルトは眉を上げた。


 イーイェン連合とは、ドローブの先、南洋に点在する島々の国で組織された共同体である。一国一国は国土が狭く人口も少ないが、数百の島、数十の国が集まって、ひとつの巨大な文化圏を形成している。

 大陸の南端までオドナスの領土が広がってからは、オドナスとイーイェンはドローブを窓口に活発な商取引を行ってきたが、未だ正式な国交はない。和平を結ぶか、侵攻を開始するか――セファイドとアノルトの意見が対立する選択であった。

 だが今は、手を結ぶしかない。内乱に乗じて背後から攻撃されるのを避けるため、不可侵条約の締結を画策していたところだった。


「ではさっそく、明日ドローブへ発ちます」


 戦の勝敗に拘わる、責任の重い仕事に、アノルトはむしろ嬉しそうに肯いた。





 何にせよ事態は進展した――アノルトはようやく手応えを感じて、高鳴る胸を押さえながら知事府の廊下を歩いた。

 燈台に照らされた深夜の廊下は薄暗く、木の床の軋む音がやけに大きく聞こえる。


 イーイェンには有利な条件をチラつかせて、不可侵条約を、できれば援軍を求めるつもりだった。もちろん自分がオドナス国王に即位して国内が安定した後には、そんなものはいつでも反故にできると考えていた。

 そう、伯父の意向も――アノルトは冷静に判断する。本人の言う通り、隙を与えなければよいだけのこと。今は正面切って逆らわず、従う振りをしておくのだ。大した問題ではない。

 国王となった自分の隣に立つ女は、彼にはひとりしか考えられなかった。





 知事府の裏門から、三騎の人馬が明け方の街へと駆けて行った。

 万一を考えて、知事からの命令は書面ではなく口頭で伝えられる。今回の内容は単純なものだった。北へ向かう三人の伝令役を、男は疲労感の漂う顔つきで見送った。

 昨夜、王女の従軍をフェクダに報告した男である。彼は、知事のもと間諜であった。


 砂漠の南限に住まう知事が王都の動向を事細かに把握できたのは、彼ら間諜を数多く放っていたからである。王宮や貴族の屋敷や、彼らはあらゆる場所に入り込み、この六年間密かに南部へ情報を送っていた。

 そんな優秀な間諜たちでも、唯一、内部へ紛れ込めない場所があった。それは――。


「あなたを王都でお見かけしました」


 ふいに背後から声をかけられ、男は振り返った。丸腰にも拘わらず、反射的に腰へ右手をやったのは身体に染みこんだ慣習だった。

 鉄製の頑丈な門柱に、白く優美な姿が凭れていた。水分をたくさん含んだ黎明の青い大気が、彼を水彩画の中の人物に見せている。

 足音も息遣いも感じさせず至近距離に入ってきたサリエルに、男は戦慄を禁じ得なかった。類まれな美貌の右半面と、焼け爛れた左半面を同時に見ると、また別の冷たいものが背筋に走る。

 まだ傷は痛むであろうに、サリエルの表情は大気と同じく静謐だった。


「中央神殿のイオナ神官とご一緒でしたね」


 その口調に何ら含みはなく、淡々と事実を述べているだけのようだった。だが、男――マグナスは不愉快そうに顔を歪めた。


「見間違いでしょう。そのような方は存じ上げません」


 とだけ答えて踵を返す。怯えすら感じさせる素っ気なさだった。

 足早に去ってゆく後ろ姿に、サリエルは言葉を重ねた。


「イオナ神官は懐妊なさっています。それはご存じでしたか?」


 マグナスの足が止まる。


「神官長は出産させる気です。生まれてくる子供は、彼らとオドナスの民が融和する第一歩になるとお考えのようで」

「彼女は……イオナは俺の子など望まないでしょう。俺が何をしたか、彼女はもう知っている」

「そうですね。神殿の秘密を探るために利用されたのだと、自責の念に駆られているはずです。胎児もろとも、自ら命を絶とうとするかもしれません」

「まさか!」


 愕然と振り返ったもと間諜を、サリエルは見詰めた。ようやく色彩が判別できるようになった薄明かりの中、銀色の両目は不自然なほど金属的に煌めいている。


「他の神官が監視をしているとは思いますが――無事出産できるかどうかは、彼女の精神状態次第でしょうね。気になりますか?」


 マグナスは言葉に詰まる。

 これは主人に命じられた大切な仕事だ、と自分に言い聞かせても、まだ若い彼はイオナを騙すことに罪悪感を拭い切れなかった。彼女は神殿育ちらしく世間知らずで、純真で、彼の言葉を毛ほども疑わなかった。


「だとしたら、あなたは間諜としては失格ですよ。情報提供者を処分するくらいの決断ができなければ務まらない仕事です。ましてや子を儲けるなど」

「何がおっしゃりたいんですか? それよりご自分の心配をしたらどうです。知事がなぜあなたを連れてきたのは知りませんが、用済みになれば確実に始末されますよ。その顔では……もう誰もたぶらかせない」

「用済みになるのは神官たちも同じ」


 サリエルは密やかに笑った。東の空が鮮やかに赤らみ、柔らかな光がその顔を照らす。

 たぶらかせない、とはマグナスの本心ではなかった。楽師の容貌は、半分崩れているからこそ、なおさらに蠱惑的である。


「私はその力を知事に与えることができます。彼にとっては邪魔者は国王よりもむしろ神官たちでしょうね。あなたは……静観できますか?」

「何を……馬鹿な……」


 マグナスの声は掠れて喉に貼りついた。本能的に危険を察知し、サリエルから視線を逸らそうとする。が、どうしてもできなかった。

 サリエルが一歩近づいた。その姿には清澄さと邪悪さが矛盾することなく共存している。


「イオナと子供に対して何ひとつ後ろめたさがないのならば、今すぐ立ち去って構いませんよ」


 低い声は弦の響きに似て、甘く鼓膜を震わせた。

 




 野営地の周辺に水場は豊富で、駐留した王軍は水源には不自由しなかった。

 まだ遥か彼方に見えるだけのオク山脈に源を発する河川が、この岩だらけの荒れ地にまで至り、そこかしこに緑を薄く茂らせている。人と駱駝の飲料に用いる水は、そこから十分に供給できた。

 また川とは別に、この地域には温水の湧き出す奇妙な泉が点在していた。

 地中からぬるい湯が噴き出して、湯気の立ち上る湯溜まりを岩場にいくつも形作っている。鼻を突く異臭がして飲むことはできないが、身体を温めるのには向いていた。じっくり浸かれば傷の治療になるのだと、地元の人間は言っている。 


 シャルナグ将軍の指揮のもと、本格的な交戦に備えて訓練を重ねる師団の兵士たちを尻目に、リリンスは時間を持て余し気味だった。実戦に参加するわけではない彼女にとって、会議のない昼間は特にすることがなかったのだ。

 本当に自分はお飾りなのだな、と情けなく思うリリンスを、ティンニーが湯浴みに誘った。


「お飾りならお飾りで、それらしく綺麗にしておかなくちゃ。美人だってことは物凄い才能なんですよ。どうせ戦うなら、美人のために戦いたいものでしょ」


 将軍に指示され、ナタレとフツが付き添うことになった。訓練を抜け出せてフツは喜々としているが、ナタレは釈然としない。王女の護衛は自分の役目だが、いつの間にやらフツとひと絡げにされているのが不本意だった。


 野営地から少し離れた岩場に、例の温かい泉が湧いている。

 小さいが、温度は丁度よい。周囲は大きな岩に囲まれて、目隠しも申し分ない。


 護衛の男二人を十分離れた場所に追いやった後、王女と侍女はそれぞれ服を脱いで、湯の中に身体を沈めた。

 泉の深さは彼女らの腿の辺りまであり、座ると肩まで浸かることができた。湧き上がる湯気が青空へ抜けてゆく眺めは実に爽快だった。


「外でお風呂に入れるとは思わなかったわ!」


 リリンスは久々にはしゃいだ口調で言った。湯は白く濁っていて、少しぬるりとした手触りだった。最初は臭いが気になったが、そのうちに慣れた。


「この臭い、硫黄が混じってるのね。だから周りに草が一本も生えてないんだ」

「お肌にはいいそうですよ。王都に持って帰りたいですね」

「ほんとほんと。みんな喜ぶわ」


 湯を顔に掛けながら笑うリリンスを見て、ティンニーはほっとした。

 王女の日焼けした肌はずいぶん荒れて、手や足には細かい傷がたくさんついている。身体も少し痩せてしまった。ティンニー自身もそれは同じなのだが、やはり見ていて痛々しく、彼女が少しでも癒されることを願った。

 リリンスは肩や腕を撫でて独特のぬめりを楽しんでいたが、そのうちティンニーを見詰め、湯の中をすいすいと近寄って来た。


「前から訊きたかったんだけどね」


 真剣な眼差しで詰め寄られ、ティンニーは思わず身を引いた。


「な、何でしょうか?」

「どうやったらそんな胸になれるの? 同い年なのに……いつ頃から大きくなったの?」


 答えに詰まるティンニーの乳房は、形も大きさも見事だった。濁り湯の中でふるふると揺れるそれを羨ましそうに見下ろしてから、リリンスは自分の胸元に手をやる。彼女のそれは美しくはあったが、それぞれ片手に収まってしまうところが物足りない。


「覚えてませんけれど、うちは母も祖母も胸の大きい家系で」

「いいなあ……私はもう手遅れかなあ」

「そんな姫様……大きくても肩が凝るだけですわよ。それに、殿方の好みだって人それぞれですし。小さい方ががお好きな方だって……」

「ね、ちょっと触っていい?」


 興味津々な眼差しで両手を伸ばしてくる姫君に、ティンニーは引き攣った笑みで肯いた。


 彼女たちはすっかり寛いでいて――忍び寄る者たちの足音にはまだ気づいていなかった。

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