雲を纏う月
アノルトが知事府に宿泊するのは初めてではなかった。ドローブ総督である彼は公用で何度かここを訪れており、今回も最上階にある客室に通された。
彼を部屋へ案内したのは、フェクダの十八歳の長女マルギナタであった。南部風の細かな刺繍に彩られた衣服を着た彼女は、大きな籐籠を手に抱えて客室の戸を開けた。
居間と寝室が繋がったこぢんまりとした部屋である。広々とした王宮に比べると、知事府の部屋割りは全体的に小作りだ。白い壁に黒檀の窓枠の取り合わせが素朴で、それぞれの窓には板硝子が嵌め込まれていた。
籐籠から衣服らしきものを取り出すマルギナタを尻目に、アノルトは窓に歩み寄って開け放った。朱色の瓦が連なる街並みが一望できる。吹き込んできた風には、木の臭いが混じっていた。
夕刻から、南部の属国の首長が知事府に集まる手筈になっていた。フェクダの呼びかけに応じ、アノルト側につくことを決めた国々である。
これからが勝負だ――アノルトは逸る気持ちを押さえながら、マージ・オクの街とその向こうに広がる大地を見渡す。南部の国々を纏めて連合軍を組織し、中央に対抗する。どちらにつくか態度を保留にしている他の属国も巻き込むことができれば、勝機はあるはずだ。
ひとつ気になるのはフェクダの動向であった。神官長の代わりに楽師を手に入れた目的が何なのか、彼は詳細には語らない。求めていた神殿の秘密を、あの楽師が知っているとでもいうのか。
だとしても――フェクダがサリエルにした行為は、アノルトには冒涜としか思えなかった。
「入浴の準備が整っております。お召し物はこちらに」
マルギナタは畳んだ着替えと浴布を箪笥にしまって、アノルトの背中に声をかけた。アノルトは我に返って振り向く。
「ああ、ありがとう」
「夕刻までお休み下さい。少し冷えますので毛布をお持ちしますね」
「お気遣い感謝するよ。でも、君がそんな使用人のような真似をする必要はない」
「いいえ、殿下のご滞在中、お世話をするようにと父から命じられています」
意外ときっぱりした口調でマルギナタは答えた。細い顔の輪郭は父親似だが、細かに波打つ黒髪と目元の優しい美貌は母親譲りだった。
フェクダがアノルトに娶せようとしたのがこの娘である。伯父の思惑を推測して、アノルトはわずかに目を細めた。
「何なりとお申し付け下さいませ、殿下。私は女ですから、殿下のなさろうとしていることに直接お力添えはできません。けれど、お疲れを癒すことはできますわ」
マルギナタは彼の疑念になど気づきもしないのか、屈託のない微笑みを浮かべる。けれどアノルトが凝視すると、途端に頬を紅潮させて俯いた。
いそいそとお辞儀をして、籐籠を手に部屋を出て行く彼女を、アノルトは何とも言えない居心地の悪さとともに見送った。
朔に近い月は、夜半を過ぎてもまだ天に現れない。代わりに、細かな星の光が砂礫となって夜空に広がっていた。
サリエルは窓際に座って、半分ほど開けた硝子窓から東の空を眺めていた。そこに痩せ細った月が昇るのをひたすら待っているかのような、静かな佇まいである。
星明りは覚束なく、室内は暗かった。そのなかで彼の顔は発光するように白い――端整に透き通る右半面だけが。左半面は闇に溶けている。
彼の指が、膝に乗せたヴィオルの弦に触れた。低い音が夜に染み渡る。
それを合図のように、部屋の扉がかすかな軋みを上げてゆっくりと開いた。
薄明るい廊下から暗い室内へ、音もなく滑り込んできたのはフェクダである。属国の首長を集めての会議を終えたばかりの彼は、目を凝らして楽師の姿を探した。
「やはり、起きていたか。旅の間も、君が眠っているところを見た覚えがないな」
楽師に与えられたこの部屋の寝台には使われた形跡がない。
サリエルは答えずにそっと頭を下げた。顔を上げると、無残に傷んだ左半面が露わになる。
「まったく……その顔を惜しげもなく……自分自身に何の興味もないのか」
サリエルの顔の半分を焼き潰した張本人は、好奇心と呆れが半々に混ざり合った言葉をかけた。
国王の手を離れ自分に従う証として、その類まれな美貌を差し出せ――サリエルの申し出を飲んでユージュを解放する条件に、フェクダはそう命じた。サリエルはあっさりと承諾し、フェクダはその場で燈台の炎を彼の顔に押しつけたのだった。
焼かれた薄い皮膚はすぐに破れて、赤い皮下組織と白い脂肪を露出させた。それらが焦げて異臭が漂い始めても、サリエルは一声も上げなかった。
「まるで死体を焼いているような気がしたね。あまり楽しいものではなかったな」
「殿下の信用を得られるのならば安い代償です」
未だ治癒しない、一生残るであろう傷をつけられた彼は、穏やかな表情でフェクダを見返した。
薄闇の中でも、完璧に整った右半面と焼け焦げた左半面の落差がはっきりと分かる。にも拘らず、その対比が恐ろしく扇情的でもあった。満ちた月に黒々とした雲がかかったような、病的な美しさである。
フェクダは彼から目を逸らして、窓際に置かれた長椅子に座った。
「思ったよりも多くの国がこちらにつきそうだ。中央と互角、とは言わないが、それなりに時間は稼げるだろう」
「内乱を長期化させて、国王側に味方する属国に造反を持ちかけますか? それとも、他国の軍事介入を誘うおつもりですか?」
「さてね。とにかくサリエル、君には約束を守ってもらわねば。別の遺跡とやらの場所を教えてもらおう」
「ええ、異存はありません。ですが殿下」
サリエルはヴィオルの弦を軽く弾いた。艶めいた音はどこか不吉だった。
「その力をお使いになるのは、本当に王都へ侵攻するためでしょうか?」
「どういう意味だね?」
「少々妙に思うのですよ。あなたがアノルト殿下に助力して、国王陛下を追い落とし政権を奪取するのが最終目的ならば、なぜわざわざ南部まで退かれたのか――味方を集めて内戦など起こさずとも、王都に残って国王と王太子を暗殺した方がよっぽど簡単です」
フェクダは目を閉じて、薄い唇に笑みを刻んだ。
「正々堂々と戦いたい、というのは理由にならんかね」
「立派な理由です。が、あなたの好みとは思えません」
「君のそういうところが、弟を惹きつけたのだろうな」
フェクダは心底面白そうに呟いて、ふと笑みを消した。サリエルを捕える眼差しは、弟と同じ冷酷さを帯びている。
「だが、もう余計な詮索はするな。これ以上僭越な口を利くなら、次は喉を潰す」
「御意に」
「一曲所望だ。君の旅してきた、北国の舞曲が聴きたい」
サリエルの左手の指先は、まだ包帯で覆われている。彼は躊躇せずに膝を組んで、ヴィオルの首を肩に凭せ掛けた。
力強い弦の音色とともに指盤を滑り始めた指は、ごく滑らかに動いた。包帯が巻かれていてもその動きに支障はないように見える。
怪我を負っていても、望まれればサリエルは演奏する。分かっていて、旅の途中にもフェクダは何度も彼に弾かせた。その度に楽師は完璧な演奏を提供し、彼の指の傷は完治から遠ざかった。
そして今も、異国の舞踊の旋律に合わせて激しく動く左手指は血を滲ませていた。包帯の白い布が、徐々に内側から赤く染まってゆく。それでも楽曲は乱れず、サリエルの表情が強張ることもない。
「君の従順さは実に素晴らしいよ、サリエル」
ついに指盤の上を赤い滴が伝い始めた時、フェクダは立ち上がってサリエルの正面に来た。
「本物ならば、だがね。君の真意はどこにある? セファイドにはそれを見せたのか?」
詰問を重ねながら、サリエルの左手首を掴む。明らかな苛立ちは、彼にして初めて見せるものだった。
無言で手を止めるサリエルへ、
「君を本当に支配できれば、遺跡を全部、支配できるのか――」
そう呻くように囁いて、澄んだ銀色を保つ両目を覗き込んだ。
鼻先が触れるほどの至近距離で睨み据えられながら、サリエルは平静だった。微塵も揺らがぬその表情は、感情を押し殺したというより、感情そのものを持たない石像のようだ。
静かすぎる水面に少しでも波を立てたかったのかもしれない。フェクダの手が、サリエルの頬に伸びた――無残に変色した左頬へ、ゆるゆると。
部屋の扉が静かに鳴った。
「失礼いたします、サリエル様」
ややあって、開いた扉から入って来たのはカシマだった。木製の盆を持っている。
窓際に腰掛けたサリエルと、その傍らに立ったフェクダを見て、彼女は足を止めた。何かの気配を感じ取ったらしく、不審そうに眉根を寄せる。
フェクダはさり気なく彼から離れ、妻に向かい合った。
「どうしたね?」
「あ……はい、サリエル様にお薬を」
カシマは盆をテーブルの上に置いた。素焼きの瓶と木綿布が用意されている。
「そうか。頼んだよ」
優しい笑みを浮かべながらも淡々と告げ、フェクダは部屋を出て行った。廊下の灯の中に消えてゆくその後ろ姿は、何の未練も残さなかった。
「オクの山で採れる薬草です。火傷によく効きます」
薬草を潰して油に混ぜたものである。薬師に急遽作らせたそれをサリエルの頬に塗りつけながら、カシマは気まずげに言った。
「染みますか?」
「いえ、大丈夫です」
「夫がやったのですね」
彼女は垂れてくる薬油を拭って、目を伏せた。
「ごめんなさい。こんなに綺麗な顔なのに……」
「奥様が謝ることでは……」
「あの人は、ずっと自分が被害者だと思っているのです。だから弟君のものが何でも欲しいのですわ。国も権利も人も……すべて」
深い溜息は、静かな諦観と薄い寂しさを纏っていた。
「男の人はどうして、今持っていないものばかりを数えるんでしょうね。手の中にあるものだけで満足できないのかしら」
「あなたが止めることはできませんか?」
「私には無理ですわ。だって……あんなに楽しそうなあの人、初めて見ましたもの」
サリエルの眼差しから顔を逸らして、カシマは力なく微笑んだ。見ようによっては、幸せそうな笑みでもあった。
ジメシュを出てから、再び砂の大地を行く旅となった。
ひたすら南へ向かって隊列は進んだが、砂の海には果てがなかった。いくつ砂丘を越えても、その風景は変わらない。だが、一日の間に砂漠は刻々と表情を変えるのだった。
太陽が昇り初める頃は白く、灼熱の昼間には眩い金色に、夕映えの刻には鮮やかな薔薇色に、そして天が月を抱く夜には静かな銀色に、砂は色を変えてゆく。
苛烈にして美しいその変化の中を、彼らは粛々と進んでいった。
リリンスは軍団の隊列の中央、シャルナグのすぐ隣についていた。その脇に侍女のティンニーと、後ろにナタレが続く。
王女の居場所を伝える伝令が王都に帰り、その返信が昨日追いついてきたところだ。
娘は預ける。決して目を離さぬように。危害を加える者は例外なく殺してよい――セファイドの親書からは殺気が滲み出していて、シャルナグの気苦労を増やした。
事後承諾とはいえ国王の承認を受けて、今回の逆賊の討伐は新王太子が行う初の親征となった。
迷惑をかけないと啖呵を切っただけあって、リリンスは弱音のひとつも吐かずについてきた。身体中の水分が全部蒸発してしまうほどの暑さの中、分厚い外套で身を覆って駱駝の背に揺られている。
むしろ文句を垂れていたのはティンニーの方であった。
「こんなに暑くては姫様が死んでしまいますわ! 休憩は頻繁に入れて下さい。それからもっと柔らかい敷物はないんですか? 一日中こんな硬い鞍に跨っていては、お尻の皮が剥けてしまいます。女性の身体はか弱いんですからね」
プリプリと怒りながら、それでも元気そうな侍女の相手は、もっぱらフツが務めた。
「どれどれ、ケツ見せてみ。薬塗ったるわ」
「この助平! 指一本でも触れたらぶちのめすからね」
「あはは、そんだけ元気ならまだ大丈夫やな。あと五日くらいで次の街やから、頑張れ。着いたら飲みに行こ」
「あんたみたいな軽薄男、願い下げよ」
「あんまり喋ると喉が渇くぞ、二人とも」
軽口の叩き合いはいつもナタレが止める。うるさいのが二人になったと彼はうんざりしていたが、おかげでリリンスの気が少し紛れているようなので、その点は安心していた。
笑いながらやり取りを眺めているリリンスは、少し痩せたが健康に問題はなかった。日焼けした顔色と相まって、儚げだった美貌が凛々しくなったようにも見える。
勇敢な美しい王太子の存在は、兵士たちを活気づかせたようだった。
人懐っこいリリンスは、師団長から下級歩兵まで地位の高低を問わず周囲の人間に気さくに話しかけるので、自然と人気を集めるようになった。不審者と間違われて取り押さえられた顛末さえ、笑い話として伝播し、親しみを呼んだ。
実際にリリンスは常に明るかった。体力の消耗を防ぐために移動中は大人しくしているが、笑顔は絶やさないし、冗談も言う。そんな彼女の空気が王軍全体によい影響を及ぼしているようで、傍で見ているナタレは感心していた。
ただ、ごくたまに――遥か彼方を見詰めるリリンスの横顔に、ふと暗い翳が落ちることがある。それが何なのか、何が彼女の気持ちを沈ませているのか、尋ねなくてもナタレには察しがついた。
水源のある都市から都市へ――順調に旅は続いて、永久に続くと思われた砂の風景がやがて変化を見せ始めた。
遥か彼方に黒い山影が望めるようになり、山の向こうの天空は白く霞んでいる。雲が湧いているのだ。足元に目を落とすと、砂はいつの間にか乾いた土に変わりつつあって、ごつごつした黒い石が混じるようになっていた。
彼らが王都を出てから、二ヶ月近くが経っていた。




