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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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旅立ちの朝

 翌日は満月だった。


 先月の今日は何をしていただろう――リリンスは天窓を見上げ、すぐに思い出す。王宮の礼拝堂で兄から想いを告げられた夜、天空では白くて巨大な月が皓々と輝いていた。

 あの夜から、兄は兄でなくなったのだ。


 たった一月の間とは信じられぬほど、様々な出来事が起きた。それまで凪いでいた彼女の日常はあっけなく崩れ、今や凄まじい嵐に飲み込まれている。いつかは終わる平穏だと覚悟していたが、何と急激な変容であったことか。


「お座り下さい、殿下。床が冷たいですが、一晩中立っているのは疲れますよ」


 ユージュは堂内の灯台に蝋燭の火を移して回った。礼拝堂の四分の一ほどの広さの部屋の照明は灯台だけでは覚束なかったが、今夜は天窓からの月明りが十分な光量を与えていた。

 『月神の間』――中央神殿の礼拝堂から隧道で繋がるこの小さな部屋には、王族と神官以外立ち入れない。今はリリンスとユージュの二人きりだった。


 正確にはもう一人、いやもう一体、彼女らを見下ろす存在がある。台座に乗った、アルハ神の石像である。


「綺麗な像……まるで生きてるみたい」


 リリンスは呟いた。

 ここでアルハ神像を見るのは初めてではなかった。父に連れられて何度かやって来た記憶がある。それでも、やはり美しいと思う。


「久しぶりに見たけど……あれ、ちょっと誰かに似てる? ええと……」

「楽師殿でしょう?」


 笑いを含んだ声で指摘されて、リリンスは納得した。


「顔立ちはそんなに似てないのに、何でだろう、サリエルに見えるわ」


 青い月光に照らされた優美な姿をまじまじと眺め、それからリリンスは唇に手を当てた。忘れていた痛みが蘇ったように。


「サリエル……無事でいるかな」


 兄が彼に対して酷い扱いをするはずはないと信じたい。だが兄の命令によって彼が傷を負ったという情報は、すでに彼女の耳にも入っていた。


「大丈夫ですよ。あの人は要領がいいから」


 ユージュはあっさりと言うが、勘の鋭いリリンスはそこに親しみを感じ取った。神官長と楽師の関係性は、彼女には未だによく分からない。


 伝統にのっとり、月の満ちた今夜、夜半に合わせてリリンスの立太式が執り行われた。

 王都を襲った大地震に、第一王子と王兄の謀反が重なった非常事態の最中さなかである。延期してはどうかという声も一部からは上がったが、セファイドはあくまで予定通り進めることを選んだ。こんな時期だからこそ、正統な後継者を示す必要性を重んじたからだ。

 王族と国宰たちの列席する中、中央神殿の礼拝堂で神官長の長い祈祷を受けた後、リリンスは国王から王太子の証である剣を受け取った。

 その後、この『月神の間』に籠って夜明けまで夜伽を務めるのが習わしである。


 白い礼服姿のリリンスは、神像の台座の下に座った。その腰には優美に湾曲した剣が提げられている。宝玉と金で飾られた儀礼用の剣ではあるが、今の彼女にはずしりと重く感じられた。


「サリエルの行く末など、ご心配なさっても詮無いことです。この程度の雑事に心を乱されていては、王太子は到底務まりませんよ。今の殿下がお考えになるべき事柄は、他にいくらでもあります」


 厳しく突き放すようなユージュの言い方を、リリンスは肯定的に受け止めた。確かに、今彼女がどんなに騒いでも、サリエルの救出には繋がらないだろう。

 ナタレにも同じことを言われた――未来だけを考えろと。その通りだ。気持ちが揺れていては前に進めない。


 職務に忠実なユージュは神像に向かって祈りの言葉を唱え始めた。リリンスも居住まいを正し、その言葉を復唱する。

 天窓に円く切り取られた夜空に、巨大な月が収まっている。その凄まじく冷たい光を浴びて、真下にある石像は白々と輝く。本来の姿を取り戻したように。

 無機質な視線を全身に感じながら、リリンスは、ここを出てまず会わなければならない人物を思い浮かべていた。





 眩い朝の光は、窓を覆った遮光布の隙間から無慈悲に闇を切り裂く。

 天蓋から垂れ下がった薄い紗などでそれが防げるはずもなく、タルーシアは曖昧な意識を引き戻された。

 ここのところ服用している睡眠薬が効き辛くなっている。一晩中自分が起きているのか眠っているのか分からない状態だったが、覚醒を感じたということはやはり眠っていたのだろう。

 重い半身を起こし、枕に凭れる。窓から差し込む細く鋭い光が、彼女の胸元に当たっている。わずかな熱に痛みすら感じた。


 昨夜は中央神殿でリリンスの立太式が行われた。

 本来ならば国王正妃であるタルーシアの出席は必須であったが、体調不良を理由に見合わせた。事実、発熱は収まったものの全快には程遠く、床を離れられない。何よりも気力が衰えた妻の状態を知るセファイドは、欠席を認めた。


 今のタルーシアは、リリンスが王太子に立つことにもはや何の感情も湧かなかった。どこか別の世界の出来事のように思える。

 ただ、このままこの暗い部屋で、息子の死の知らせを待つしかない状況に絶望していた。そんな未来ならば、明日など永久に来なくていいと願う。だが彼女が泣こうが喚こうが現実から逃避しようが、必ず夜は明けた。そしてまた息子の死が近づいたと思い知るのだ。


「私に対する罰ならば、私を殺して」


 掠れた声が、陰鬱な空気に相応しく呪詛のように響いた。

 彼女の呟きに応じたのか――寝室の戸口に人の気配が湧いた。


「タルーシア様、お目覚めでいらっしゃいますか?」


 間仕切りの絹布を慎ましく揺らした声は、エムゼ女官長のものだ。自分へもたらされる知らせが果報とは思えず、タルーシアは緊張する。


「起きています。どうしたの?」

「リリンス様がおみえになっています。ご挨拶がしたいと……お断りいたしましょうか?」


 戸惑いよりも安堵が先に立ち、彼女はほっと息をついた。


「構いません。通して」


 エムゼの気配が去り、ややあって、ほっそりした人影が絹布に映った。タルーシアは天蓋の紗を開いてリリンスの入室を待ったが、彼女はそこに留まった。


「お母様、今朝はこちらで失礼いたします」


 リリンスの声は穏やかに大人びていて、気遣いこそあれ、敵意や侮蔑は微塵も感じられなかった。


「立太の儀、つつがなく終了しました。ご報告をいたします」

「そう……おめでとう」

「今日まで育てて下さったこと、心より感謝します。お母様、ありがとうございました」


 衣擦れの音がした。戸口の向こうで礼服姿の娘が深々と頭を垂れている様が、タルーシアには想像できた。その腰には王太子の持ち物である宝剣が提げられているのだろう。


「私は義務を果たしただけです」

「それでも、感謝しています」


 リリンスは迷いのない口調で告げる。


「私と私の生母の存在がお母様をどれほど苦しめたか、少しは分かるようになりました。それなのにお母様は私を受け入れて、実の娘として育んで下さいました。私が同じ立場だったら、きっとそんなふうに寛大にはなれません」

「けれど私は、おまえの母親を……」

「お母様と生母の間にどんなやり取りがあったのか、私は存じ上げません。お父様が何も教えて下さらない以上、知らなくてよいことだと思っております。ただ、母はとても幸せでした。彼女の口から一度たりとも、お父様やお母様への非難を聞いたことはございません。母は幸せなまま一生を終えたのです。私にとっての真実は、それがすべてです」


 タルーシアは布団を跳ねのけて、寝台から下りた。ずっと横たわっていたため足元がふらつき、天蓋の柱で身体を支えねばならなかった。


 リリンスの顔が見たかった――夫を惑わせた女に生き写しのあの美貌を。母親と同じく彼女の実の息子を奪い、王国の継承権すら掌中に収めた十六歳の少女は、憎悪の対象であるはずだった。

 しかし今その少女は、タルーシアの思いを知っていて、彼女に本心から感謝している。


「リ、リリンス……」


 よろけながら戸口へ向かうタルーシアを押し止めるように、リリンスの影が一歩下がった。


「あなたの娘になれて、私はとても幸運でした。教えて下さった誇りと責任を胸に、自分の役目を果たします。それだけどうしても申し上げたくて参りました」


 お身体お大事に、と付け加えて、彼女の影は消えた。長い裾をさばく衣擦れの音とともに、小さな足音が遠ざかってゆく。


 タルーシアは家具に掴まりながらようやく戸口へ辿り着くと、絹布を勢いよく開いた。

 強烈な光に、闇に馴染んだ目が眩んだ。タルーシアは思わず額に手を翳す。朝の日光は質量さえ持って、彼女をよろめかせた。

 ようやく戻ってきた視界の中、居間を挟んだ戸口の向こうに白い衣服の裾が消えていくのが見えた。清らかで凛とした、朝の光そのもののような色だった。


 居間に控えたエムゼが困惑顔で近寄って来る。タルーシアはどうしても去って行く娘に声をかけることができず、壁際にしゃがみ込んだ。





 王宮の正門前広場は、王軍兵士で埋め尽くされていた。

 遠征用の身軽な軍服に身を包んだ、五千名の将校たちだった。隊ごとに整然と並び、直立不動の姿勢で時を待っている。彼らの列の先頭には所属を示す軍旗が掲げられ、ずらりと並んだ旗竿の先端が朝日に鋭く輝いていた。

 広場に向かって張り出したテラスには、国王を中心に二人の王子と、神官長、各大臣がすでに揃っている。


「遅いぞ、リリンス」

「申し訳ございません」


 後宮から直行して来たリリンスは、セファイドに詫びてその隣に並んだ。明るすぎる直射日光が徹夜明けの目と頭に染みたが、気持ちは高揚していた。


 南方へ向かう討伐軍の出陣式が始まるのだ。

 今回の遠征には、王都から二個師団二万名が送られる。広場に入りきらない下士官以下の兵士たちは、準備を調えてすでに王宮の外で待機していた。


 テラスの前には、各大隊長と二人の師団長を率いたシャルナグ将軍が控えていた。逞しい体躯を真っ黒い外套で覆い、同じく黒い長剣を差した彼は、この軍団を統率する立場に相応しく堂々と立っていた。


 セファイドがテラスの端に歩み出て、これから長い旅に出る彼らに向けて激励の辞を送る。

 場慣れした父の言葉に耳を傾けながらも、リリンスの目は自然と一人の若者を探す――求める姿はすぐに発見できた。


 いちばん端の列の先頭に、ナタレはいた。周囲の将校たちと同じ服装をしていても、リリンスにはたやすく見分けられた。

 彼の後ろには、同じく属国の王族たちが居並んでいる。フツの姿もあった。

 彼らの国許は、王都からの派兵要請を受け入れたのだ。南方へ向かう行程で、各属国の軍隊と合流する手筈になっている。最終的に討伐軍の規模がどこまで膨れ上がるか、未だ定かではなかった。


 ナタレはひどく緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。意識的なのかどうか、リリンスとは目を合わせなかった。

 兄と話をしてくる――真面目な彼は何としてでも自分との約束を果たそうとするだろう。無茶なことを頼んでしまった、とリリンスは今さらながら申し訳ない気持ちになる。

 だが、このまま彼だけに背負わせるつもりはなかった。


「……私なら絶対にやれるわ」


 不敵にも取れる彼女の呟きは誰にも聞かれることなく、式典は続いてユージュの祈祷に移った。





 長い隊列が王宮の正門を出て、魔除けの赤い花弁の振り注ぐ大通りに消えてゆくのを見送ってから、リリンスはようやく自室に戻った。

 徹夜明けの王女を休ませようと寝台を整える侍女たちを集め、リリンスは突如こう言い放った。


「私も晴れて王太子になったことだし、いい機会だから環境を変えたいの。で、全員、今日限りで侍女の役目を解きます。悪いわね。長い間ありがとう」


 誰もが予想だにしていなかった宣告だった。

 あまりのことに言葉も出ない彼女らに、いつの間に用意していたのか、リリンスは解任の辞令を配った。





 クビになった、というティンニーからの訴えを聞いて、キーエは思い切り顔をしかめた。

 王宮の下級役人や女官が利用する食堂である。まだ昼食の客は少ないが、旨そうな匂いが漂い始めたその場所で、彼女らは顔を合わせた。


 いきなり辞令を渡されて、次の配属は女官長から知らせるからそれまで出仕しなくていいわと一方的に言われ、部屋を追い出されたティンニーは途方に暮れていた。

 女官の人事権はエムゼ総女官長にあるが、粗相をした侍女を『飛ばす』権限は主人である王女も持っている。明らかに急いで記したと思われる辞令は、ともかく有効だった。

 今後について考えようと、同僚同士で食堂に集まったところ、傷病休暇中のキーエが姿を現した。


「もう動けるようになったから、女官長と復帰の相談をしに来たのだけれど、みんなどうしたの? 仕事は?」


 まだ運びのぎこちない右足を擦りながら、筆頭侍女のキーエは後輩たちに尋ねた。それで、ティンニーが今朝の理不尽な解任をぶちまけたのである。


「こんな仕打ち、納得できません! そりゃ私はいろいろやらかして、本来ならクビになってるところを人手不足に救われてる立場ですけどっ……他の皆さんには何の落ち度もないじゃないですか! 姫様……王太子になられて変わってしまわれたわ」


 つぶらな瞳に涙を溜めて喚くティンニーの口を、他の侍女が慌てて押さえた。昼前とはいえ食堂には他の人間もいる。

 キーエは丸い顔を曇らせて、さっぱりと結い上げた髪の中を軽く掻いた。


「……怪しいわね」

「は?」

「姫様は突飛なお振る舞いも多いけれど、決して薄情な方ではありません。必ず何か目的があるはず……姫様は今何を?」

「お休みになっていると思います。昨夜は一睡もしていらっしゃいませんから」

「すぐに部屋へ。嫌な予感がする」


 リリンスが子供の頃から仕えてきた侍女の予感は当たった。王女の部屋はもぬけの空だったのだ。

 すでに解任された侍女たちに何ら責はない、との書き置きだけが、脱ぎ捨てられた礼服の上に残されていた。

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