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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第五章 試練の旅路
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存在価値

「そこの小さいの」


 ぞんざいな呼びかけが自分に向けられたものだと気づくまで、少しかかった。

 ユージュは机の上で開いていた本から顔を上げ、声の方を向く。並んだ書架の向こうにある戸口に、長身の人影が立っていた。偉そうに腕組みをしたその男を、彼女は知っていた。


「私は『小さいの』ではありません。ユージュという名前がございます、国王陛下」


 子供とは思えぬ滑舌のしっかりしたオドナス語で答えて、ユージュは再び本に目を落とした。天文学の専門書である。

 男――といっても二十歳になったばかりの青年は、この国の若い君主だった。彼は凛々しく整った顔立ちを苦笑の形に歪めた。


「小賢しいことを言うチビだ。そこは神官長の机だろう。どけ」

「先に座っていたのは私です。どいてほしいのならばそれなりの礼儀があるでしょう」

「おいシズヤ。こいつ本当に五歳なのか?」


 国王が振り返って呆れたように言うと、純白の神官服を身に纏った男が姿を現した。中肉中背で年は三十歳くらい。温和な微笑みを浮かべている。


「申し訳ございません。子供のすることですので、どうかご容赦を」

「子供ならこんな所に籠ってないで、外で遊べよ」

「知識欲が旺盛な子なんです。ここへの出入りは許していまして――ユージュ、僕と陛下はここで話をするから、場所を空けてくれるかな。本は持って行っていいよ」


 彼のオドナス語にはわずかな訛りがあった。

 ユージュは大人しく椅子から下りる。神官長の地位にある彼の怒った顔を、彼女はまだ見たことがなかった。それなのに素直に従ってしまう。ユージュだけではなく、ここにいる皆がそうなのだった。


「ふーん、天才児という奴か」


 国王はユージュの抱えた書物を眺めて呟いた。彼女はさらに書架に近寄って、別の本を取ろうとしている。背伸びをして精一杯手を伸ばして――。


「あっ」


 目当ての本をひょいと抜き取られて、ユージュは声を上げた。幼い丸みのある頬を膨らませて、相手を睨む。国王は手にした本を高く掲げて、わざとらしくパラパラと捲った。


「幾何学? 生意気な。子供はお伽噺でも読んでろ」


 自らの方がよっぽど子供っぽい意地悪をする国王に対し、ユージュの決断は早かった。無言で彼の向こう脛を蹴っ飛ばしたのである。

 意外な激痛に思わずうずくまった彼の手から、素早く本を奪い返し、彼女は二冊とも抱えて書斎を出て行った。戸口の所できちんとお辞儀をして、国王に向けて舌を出すのは忘れなかった。


「あ、あのクソガキっ……」

「負けん気の強い子で。でも、今のは陛下が悪いです」


 神官長はくすくす笑いながらたしなめた。


「それに判断力も的確でしょう? いずれは僕の後継者にと考えているんですよ」

「あんな可愛げのない女神官長は願い下げだな」

「今日は火薬の改良についてのご相談でしたね。どうぞ、おかけ下さい」


 今までユージュの座っていた椅子を勧められ、国王は痛む膝を撫でて溜息をついた。


 書斎を追い出されたユージュは、神殿の入口の石段に腰掛けて本を読んでいた。午後の日差しが木陰を長く伸ばし、読書には丁度いい明るさと気温だった。

 白い石造りの神殿と、緑の生い茂る小島と、満々と水を湛えた巨大な湖――それがユージュが直接知る世界のすべてだった。


 彼女らの一族がこの地に辿り着いたのが三年前で、それ以前のことは彼女はほとんど覚えていない。動物の背に揺られて、大人たちとともに長く移動していた記憶がおぼろげながら脳裏に残っているが、光景は砂でざらついてひどく曖昧だ。


「僕たちはね、ユージュ、遺産のある場所に行くんだよ。この世界で僕たちが生きていける場所はそこしかない。いつ来るか分からない管理者を待つよりも、僕たち自身で選ばなくては」


 何度も自分に言い聞かせた声は、おそらく神官長――シズヤのものであっただろう。


 『遺産』とは何か、『管理者』とは誰か、ユージュはここで徐々に学んだ。同年代の子供たちの中で、彼女はずば抜けて高い知能の持ち主だった。読んだ書物も大人たちの話も、一度ですべて覚えることができた。

 狭い神殿の中に囲われながら、彼女は外の世界の真実を理解しつつあった。


 時間を忘れて分厚い書物を読み耽っていたユージュの前に、建物の中から国王と神官長が出てきた。いつの間にか日が傾きかけている。

 国王は足元に座ったユージュを気にすることもなく、


「また王宮の方にも来てくれ。タルーシアはおまえを気に入っているようだ。悪阻つわりが酷くてな……不安がっているから話を聞いてやってくれ」

「はい、近いうちに参ります」


 神官長はにこやかに肯いたが、その声にふと苦いものが混じったのに、ユージュは気づいた。


 見送りはここまででいい、と国王は言い、待機していた侍従を伴って坂道を降りてゆく。

 その後ろ姿へ頭を下げる神官長の傍らに、ユージュは歩み寄った。


「ねえ、シズヤ。どうして私たちはあの人に従わなくてはならないの? ここにあるものを使えるのは私たちでしょ?」

「勘違いをしてはいけないよ。ここの遺産は、本来あの人たちのものなんだ。僕たちはそれを借りているだけ」


 神官長はユージュを見下ろし、優しく頭を撫でた。


「いずれ遺産は日の元に晒される。それはきっと避けられない運命だ。その時に僕たちの存在価値が試されるんだろう」


 言葉は分かっても、まだ意味が理解できなかった。しかし彼の掌の温かさだけは、ユージュはずっと忘れなかった。





 タミクが差し出した小さな紙の包みをナタレは受け取り、国王に手渡す前の決まりとして中を改めた。

 丁寧に折り畳まれた紙を開けると、赤黒い色をした薄い欠片が数個――乾いた木の皮のようなものが入っている。数は五枚あった。

 危険なものではなさそうなので、ナタレはそれをそのままセファイドに渡した。彼もまた、訝しげな顔つきになる。


「……サリエル様の左手の爪です。あの方は我々をかばうために、ご自分でご自分の指を潰されました」


 タミクは床に平伏して、そう告げた。


 サリエルが王都を発って、十日後の早朝である。タミクは単身で帰還した。

 その時までナタレは、サリエルが国王の使者としてアノルトの元へ送られた事実を知らなかった。楽師の姿が王宮から消えたことには気づいていたが、市街地を回っているのだろうと思い込んでいた。地震被害の復旧作業と並行して、南部へ向けての出兵準備も本格化しており、業務に忙殺されていたせいもあった。


 護衛団の隊長を務めたタミクは、まさに疲労の極みといった態で帰って来た。ジメシュから夜に日を継いで駱駝を飛ばして来たらしい。汚れた旅装束のまま足を引き摺って、それでも血走った両目には執念を漲らせている。

 謁見室へ彼を案内しながら、ナタレはとてつもなく嫌な予感がした。


 柔らかな陽光が窓から降り注ぐ謁見室には、すでにセファイドとシャルナグがいて、侍従や衛兵は締め出された。ナタレだけが残されたのは、楽師との係わりの深さを考慮されたからかもしれない。


 報告を始めたタミクの声は、苦渋に満ちていた。

 アノルトは投降の勧奨を受け入れなかったこと、だが神官長の解放を許可したこと、彼女は残りの護衛とともに帰路についており数日中に帰着するであろうこと、自分は報告をするために単身で先行して帰って来たこと、そして――。


「サリエルは、どんな交渉をして神官長の身柄を取り返したんだ? 危険を冒して拉致した彼女を、兄がそう簡単に手放すとは思えん」


 椅子に座ったセファイドは、膝の上に乗せた紙の中身を眺めながら訊いた。タミクは床にひざまずいたまま首を振る。


「それは存じません……サリエル様が直接フェクダ殿下とお話をされた翌日、神官長猊下の解放が告げられました。以降、サリエル様とは一度もお会いできず……」


 項垂れたタミクの背中は、後悔の重みを負っていた。鍛え上げられた体躯が今にも押し潰されそうだ。


「お守りできなかった責任は私にあります。どうか私の命ひとつで、部下たちはお赦し下さい」

「おまえを罰したら、サリエルが何のために身体を張ったか分からなくなるだろう。償いたいと思うのならば、逆賊の討伐に参加しろ。準備が調い次第、南部に向けて出兵する」


 セファイドは冷静だった。自らの命でその逆賊の元へ遣られ、奏者として致命的な傷を負い、神官長と引き換えに残留せざるを得なくなった楽師を気遣う素振りもない。

 武力衝突が起これば、敵地に囲われた彼の身の安全は決して保障できないだろう。

 ナタレは――背筋の筋肉が引き攣れるのを感じた。高熱を発した時のような悪寒が全身を襲う。


「おっ、お待ち下さい、陛下……! サリエルはどうなさるおつもりですか?」


 自分でも気づかぬうちに、彼は声を上げていた。

 セファイドとシャルナグとタミク、その場の三人の視線が集まる。


「このまま戦争になれば、彼の身に危険が及ぶ可能性があります。開戦と同時、あるいは先行して、救出を検討されるべきかと……」

「その必要はない」


 セファイドはきっぱりと言い放った。連日の激務でただでさえ少ない睡眠時間が削られているのに、表情は怜悧だった。持ち帰られた紙包みをナタレに差し出す。


「神官長の身代わりになれとは命じていない。どんな取り引きをしたのかは知らんが、あれは自分の意志で残ったのだ」

「しかし……!」

「投降を勧めに送った使者が足枷になるなど、本末転倒だ。追撃は予定通り行う」


 ナタレは紙包みを握り締めた。判断に微塵の迷いも見せないセファイドに対し、感情が逆巻く。抑えきれない強い気持ちが腹から込み上げてくる。

 侍従が主人たる国王に反論するなど許されない。分かっていてなお、彼は口に出さずにいられなかった。


「サリエルを捨て駒にするのですか!?」

「ナタレ、言葉を慎め」


 シャルナグがいさめたが、耳に入らなかった。


「そもそも、オドナスの民ではないサリエルをなぜ使者に立てたのです!? あの人は国とは無関係の人間ですよ。王家の権力争いに巻き込む必要はなかったはずです」

「無関係だからだ。有能な役人や軍人を、こんな非公式な任務のために失うわけにはいかん。あの男ならば、たとえ帰って来なくとも――痛くない」


 愕然とするナタレから、セファイドは目を逸らした。指で顎をなぞる仕草がひどく冷ややかだ。


「たかが楽師一人、消えたところで実害はなかろう?」


 心臓の位置で何かが爆ぜた気がした――次の瞬間、ナタレはセファイドの胸倉に掴みかかっていた。


「それ本気で言ってんのか!?」


 叫んだ声は、自分のものとは思えなかった。

 たかが楽師――その存在がどれだけ支えになっていたか、ナタレは気づく。今の立場を肯定的に受け入れられたのも、気持ちが変容することに罪悪感を持たずに済んだのも、王女への想いを整理できたのも、彼のさりげない励ましがあったからだ。

 だがそれを、こんな形で失うとしたら。


「サリエルはずっと誠実だったじゃないか! この国の誰に対しても! だから無茶な依頼も受けたんだ! それを……あんたは見殺しにするのか!?」


 激情にギラギラと光る瞳は、真っ直ぐに相手を射た。

 セファイドは何の感慨もなさげに彼を見返す。ただ、襟元を鷲掴みにした彼の手を離そうとその手首を掴んで――思いがけず強い力に、目を細めた。若い生徒の成長を体感した教師のように。


「場所を弁えんか! この馬鹿が!」


 見兼ねて、シャルナグが割って入った。ナタレを強引に引き離し、突き飛ばすように押しやる。

 ナタレは床に尻餅をついて、それでも国王を睨みつけた。将軍は太い眉根を険しく寄せて怒鳴りつける。


「今のおまえの振る舞い、首を刎ねられても文句は言えんぞ! このことは他言無用だ……頼むぞ」


 最後の一言は唖然とするタミクに向けたものだった。侍従が国王に掴みかかったなど、外に漏れればただでは済むまい。


「将軍は平気なんですか!? 何の咎もないサリエルが傷つけられても構わないとおっしゃるのですか!」

「子供っぽいことを言うな、ナタレ。サリエル殿は自ら決断した。セファイドとアノルトのために、腹を括ったんだ」

「だけど! 他人のいさかいで……二度と戻って来られないかもしれないなんて……俺は嫌です!」

「嫌なのはおまえの都合だろう。自分の感情ではなく、サリエル殿の気持ちを考えろ。そこの……意地っ張りな男の気持ちもな」


 ぶっきら棒な言い草ながら飾りのない労りを向けられて、セファイドは面倒臭そうに立ち上がった。


「誰が意地っ張りだ。ご苦労だったな、タミク。ゆっくり休養しろ」


 いくぶん優しく告げて謁見室を出てゆく。無礼を働いた侍従を咎めようとはしなかった。ナタレには、その横顔はまったく平素の通りに見えた。

 タミクは我に返って国王の背中に頭を垂れ、それから将軍とナタレにも一礼して退出した。忠実な軍人である彼は、国王にああ言われた以上早まった真似はしないだろう。


「あれでも悔やんでいるんだよ。そうは見えないだろうが」


 誰もいなくなると、シャルナグはナタレを立たせて苦々しげに呟いた。


「上が動揺していては、誰も命を預けられん。あいつはたった一人で、平然と、他人の運命を背負い続けなければならない男だ」

「でも俺は……やっぱり嫌です。サリエルを見殺しにはできません」


 凶暴な感情の波が去っても、心臓はまだ激しく脈打っていた。とんでもない振る舞いをした自覚がようやく湧いてくる。確かに首が飛んでも止むなしだ。

 シャルナグは横目で彼を見て、濃い髯に覆われた頬を掻いた。


「ではおまえも戦うか?」

「え……?」

「今回の出兵に際しては、各属国に派兵を要請している。いずれ即位するオドナスの新女王と新体制に協調する意思があるならば応じるだろう。すでにロタセイにも使者を送った」


 第一王子と王兄が出奔してからすでに一ヶ月近くが経過している。追撃の準備に時間がかかっているのはそういうことだったのかと、ナタレは合点がいった。セファイドはただの逆賊討伐で終わらせる気はないのだ。

 王太子への忠誠を国内に向けて問う――そういう戦争になる。


「王族のおまえが先頭に立てば、ロタセイは従う。南部へ行くか?」

「はい!」


 迷いはなかった。抑えきれぬ衝動を向ける先が、ようやく定まった気がした。

 一も二もない即答に、将軍はにやりと笑った。

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