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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
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指輪

 ユージュは小作りな唇を引き結んで、サリエルの手当てをしていた。

 表情の薄さは今に始まったことではないが、不機嫌な気配を隠そうともしない。それが分かって、サリエルは苦笑した。

 ユージュは目を上げてじろりと彼を睨む。


「何が可笑しいんです?」

「いえ、失礼しました」

「痛くないんですか?」

「痛いです、とても」


 爪を失った惨たらしい指先に向けて、無遠慮に消毒液を振りかけ終わると、今度は小さな素焼きの壷を取り出した。中身は個体とも液体ともつかない黒々としたもので、強烈な臭いがする。


「化膿止めの軟膏です。神殿ならばもっとマシな薬剤があるのですが、まあ、あなたにとってはどれも同じでしょう」


 彼女はぼそぼそ呟きながら、若干乱暴にそれを傷口に塗りたくった。しかしその後包帯を巻きつけてゆく動作は丁寧なものだった。


 宿にある薬でできるすべての処置が終わると、サリエルは白い布で覆われた左手をしげしげと眺める。どこか物珍しげでもあった。


「こんな傷を負ったのは久し振りです」

「意外と馬鹿なんですね、サリエル」


 ユージュは心底呆れた口調で言った。

 再び苦笑したサリエルは、宿の一室に軟禁されていた。アノルトの気が変わらなければ、このまま王都に帰されるはずだった。説得には失敗したが、もとより無謀な話だったのだ。


「本当に申し訳ありませんでした」


 椅子に腰掛けた彼の足元で、タミクたち五名の護衛兵が平伏していた。


「サリエル様の身を守るのが我々の務めであるにも拘わらず、このような失態――どう謝罪しようと許されることではないと心得てはおりますが、今はお詫びを申し上げるしかございません」


 床に額を擦りつけて詫びる彼らに対し、サリエルは穏やかに首を振る。


「お気になさらず。命に係わる怪我ではありませんよ」

「しかし……左手がそのような有り様では、しばらく演奏は……」

「あ」


 サリエルは本当に初めて気づいたように、弦を押さえるべき左手指を見た。確かに回復するまで満足な演奏はできないだろう。


「まあ、何とかなるでしょう」


 ますます恐縮して頭を垂れるタミクは、すでに死すら覚悟していた。警護対象から逆にかばわれ、王国きっての楽師の手を潰してしまったのだ。隊長として責任を取るつもりであり、また、何より自分自身の不甲斐なさが許せなかった。

 悲壮な思いが伝わったらしく、サリエルは椅子から立ち上がって彼らの前に膝をついた。


「どうか頭をお上げ下さい。あなた方に咎はありません」

「この人が勝手にやったことですからね」


 ユージュが薬箱を片づけながら口を挟む。こちらは、兵士たちを慮ってというよりただの皮肉だろう。


「いえ! サリエル様にそうさせてしまったのは我々の責任です。王都に帰還した後、必ず償いはいたします」

「償いなど、お考えにならなくて結構。その代わり……皆さんに頼みたいことがあります。神官長猊下を、王都まで連れ帰っていただきたいのです」


 サリエルは声を潜めた。さらりと告げられたとんでもない依頼に、タミクは思わず顔を上げた。


「アノルト殿下が許可されたのですか!?」

「それは、これから交渉します」

「交渉の通じる相手とは思えませんね。第一王子はともかく、あの王兄は相当な曲者ですよ。余計なことはしないで、さっさとお帰り下さい」


 ユージュは当然のごとく拒絶した。けれどサリエルは彼女の冷淡さをまったく気に留めていない様子だ。分厚い氷に隠されたものを、正確に見抜いているからかもしれなかった。


「神官長、あなたのことも頼まれているんですよ。国など滅んでもいいから、無事に連れ帰ってほしいと」

「誰がそんなふざけたことを?」

「中央神殿にいるあなたの同胞、全員です」


 ユージュは何か言葉を発しかけて、すぐに横を向いた。相変わらず不機嫌そうだが、当惑しているふうでもある。どう反応すればよいのか分からない、といったような。

 彼女を黙らせたサリエルは、タミクたちに向き直り、


「神官長は必ず解放させますので、国王の元まで送り届けていただけますか?」

「それはもちろん……だがサリエル様、あなたはどうなさるのです?」

「私は……たぶんここに残ることになるでしょうね」

「サリエル、あなたまさか」


 珍しく声を跳ね上げて詰め寄って来たユージュに、彼は肯いて見せた。

 傷のない白い右手が、薬品の臭いが染みこんだユージュの左手を取る。


「私のために……秘密を売るつもりなの?」

「もともと秘密でも何でもないでしょう。彼らにも知る権利はあります」


 ユージュの中指に嵌められた黒い指輪が、するりと抜き取られた。彼女はなぜか抵抗できなかった。先代神官長の形見である、黒地に金をあしらった指輪は、サリエルの手の中で光っている。


「どうかあなたを待つ人たちの元へ戻って下さい。すべきことがあるはずです。皆があなたを愛しています――その事実をいい加減に自覚した方がいい」


 きっぱりと厳しい言葉は、彼女にしか理解できない言語で真摯に語りかけられた。

 サリエルの手は、何の余韻もなく離れた。地中で眠る水晶のように冷たい手ではあったが、その感触が失せると、ユージュは寂しさに似たものを感じた。


 わずかな沈黙が下りた時、部屋の入口に吊るされた麻布が勢いよく開いた。


「お邪魔するよ」


 そう言って入って来たのはフェクダであった。

 彼は室内に漂う薬品臭に鼻を鳴らし、サリエルの左手に目をやって肯いた。


「中央神殿の神官たちは治癒の魔法を使えると聞いていたが、噂は当てにならんな。傷の具合は?」

「新しい爪が生えてくるまで演奏はできませんよ」


 素っ気なく言い捨てるユージュをよそに、サリエルは丁寧に頭を下げる。神官長の無事を確認したいと求めた彼に対し、面会を許可したのはフェクダなのだった。


「猊下にはそろそろ部屋に戻っていただくが、もう十分話はできたかな、楽師殿」

「はい。お心遣いを感謝いたします」

「何の。面白いものを見せてもらった礼だよ」


 彼は口元に手をやってクックッと笑った。


「君ならば切り抜けられる方法がいくらでもあっただろうに、物好きな男だ。脅すつもりが逆に脅されて、アノルトも勉強になっただろう」

「畏れ入ります。実は……殿下にもうひとつお願いがあるのですが」

「何だね? まさか神官長を返せとでも?」

「ええ、ご明察の通りです」


 軽口に対して、サリエルは真面目に答えた。ユージュをかばうように一歩踏み出し、正面からフェクダに向かい合う。

 フェクダは笑みはそのまま、両目を細めた。獲物をじっくり検分する、用心深い夜行獣の目だ。


「やはりそちらが本命か。私を納得させるだけの対価はあるんだろうな?」

「対価は、殿下のお求めになっている答え――私はそれを存じております」

「よろしい。来なさい」


 意味深な台詞を吐きながら気負いのない楽師の物腰に、何か感じるところがあったのかもしれない。フェクダは手招きをしながら踵を返して、部屋を出て行った。

 残されたユージュたちには一瞥もくれず、サリエルはその後に続いた。





 先ほどの広間に、二人は戻ってきた。

 随行する側近に外で待つよう命じ、フェクダは部屋の奥に並べられた椅子のひとつに腰掛けた。面会の際にアノルトが座っていた布張りの椅子だ。


「アルサイ湖の下にあるものに、殿下はご興味がおありなのですね」


 自らは椅子に座らず、サリエルは彼の傍らで立ち止まった。少し数を減らした灯台が、彼の恐ろしく整った顔立ちを照らしている。


「神官長は頑として喋ろうとしないよ。彼女の前で君を痛めつけてみたらどうかとも思ったのだが、君も……一筋縄ではいきそうにない」


 穏やかではないフェクダの物言いにも、サリエルは驚いた反応を見せなかった。平然と素手で自分の爪を剥がす男には、確かに何をしても無駄だろう。


「あの湖に何があるのか、君は知っているのかい?」

「神官長のご存じないことまで」

「今ここで、言ってみなさい」


 落ち着いた口調で話すサリエルへ、フェクダは探るような視線を送った。肘掛に頬杖をついて半身を傾ける。

 疑念も謀略も、銀色の瞳はすべて受け止めてなお静謐だった。


「あそこにあるのは旧い文明の遺産――技術と知識です。アルサイ湖の底は、オドナス建国より遥か昔に放棄された、旧時代の遺構なのですよ」


 室内の空気が、わずかに軋んだようだった。巨大な歯車がゆっくりと動き出す、低く不気味な振動である。

 それを感じたのかどうか、フェクダは長く息を吐き出した。


「信じると思うかね?」

「他にどういった答えをお望みなのでしょう」

「ふむ、ではそれが真実だとして……中央神殿の神官たちはなぜその遺産とやらの秘密を知っている?」


 あまりに突飛な話に、彼は未だ半信半疑のようだった。事実そのものよりも、それを語る楽師自身の信憑性を判断しようとしている。

 サリエルは目を伏せ、淀みなく答えた。


「彼らは、同じような遺跡のある場所から流れてきた一族です。二十数年前に彼の地に辿り着き、アルサイ湖の遺跡を動かすことに成功しました」

「セファイドはそれを使って、オドナスを強国にしたと言うのか」

「そのおっしゃりようは、国王陛下にとっては心外でしょうね。神官たちに扱えるのは、ごく限定的な機構のみです。蘇った技術は国王の助けにはなったでしょうが、あの方の功績のすべてがそれに頼ったものとは思えません」

「では、遺跡のすべてが目覚めたら、どうなる?」


 いつしか身を乗り出して問いかけるフェクダに、サリエルは即答した。


「今の世界の秩序が変わります」


 穏やかな表情を変えない彼の銀の双眸に、一瞬赤い色が混じったように見え、フェクダは口を閉ざした。


 南部知事という大層な肩書とともに、王都から遠ざけられたのが六年前。その時からずっと、不毛な砂の大地を挟んで、狡猾な弟を見据えてきた。その秘密の答えが、今目前にある。

 曲者、とユージュに言わしめた王兄の背筋を、冷たいものが伝った――渇望していた真実であるはずなのに、そのすべてを知るのはなぜか恐ろしかった。


「君にはそれができるんだな」


 サリエルはそれには答えなかった。ただ少し、口元に笑みらしきものを浮かべる。


「君は……何者だ?」

「私はただの『墓守』――旧時代の遺産を管理する者です」


 楽師は続けて言った。フェクダにそれ以上の質問をさせまいとするように。


「ですから、同様の遺跡が他にいくらでもあることを知っていますよ。手つかずの遺産の場所を把握しています。もちろんその使い方も。オドナス国王の管理下にあるアルサイ湖を奪うよりも、ずっと効率がいい」

「神官長よりも君の方が利用価値が高いか――自分がそそのかされるとは思わなかったよ」


 フェクダは白い筋の混じった前髪を払った。サリエルの提案はまったく思惑の埒外で、冷静に判断する前にその魅力に捕らわれそうになっている。その申し出にも、また圧倒的に蠱惑的な彼自身にも。

 肯きかける寸前で、彼は踏み止まった。


「だがその話――証拠が何もない」


 するとサリエルは右手を上げて、手の甲を見せた。小指に指輪が嵌っている。黒地に細かい金色の模様が刻まれた指輪である。

 それがユージュの指にあったものだとフェクダが気づくより先に、サリエルは親指で指輪の裏側を軽く擦った。


 高く、何かが弾ける音がした。耳を澄まさないと気づかぬほど小さな音だった。


 フェクダは気配を感じ、自らの左側を見る――椅子の背凭れに、手指の太さほどの穴が開いていた。彼の左こめかみからわずかにずれた位置である。

 彼は思わず立ち上がり、その穴を凝視した。錐で開けたようなものではない。布が黒く焼けて、焦げた臭いがする。背凭れの裏を見ると、頑丈な木製の板まで穴は貫通していた。


「これも、遺産のひとつです。一度使うとしばらく太陽光に晒さなければ次が撃てないので、実戦向きではありませんが、護身用にはなります」


 淡々と言って指輪を外すサリエルを、フェクダは今度こそ戦慄の表情で見返す。額から冷たい汗が流れた。

 ちっぽけな指輪から撃ち出された何かが、分厚い木板に穴を穿ったと理解したのだ。


「私を殺そうと思えば……今、殺せたな」

「神官長もそれは同様でした。彼女の場合、これを他人に向けて使うとは限りませんが」

「よく分かった」


 彼は衣服の襟元を緩めながら、深呼吸をした。

 何かとんでもないものが手の先にある――それを掴むのは空恐ろしく、だが拒絶することは到底できなかった。

 弟もこの気分を味わったのか、と想像すると、どうしようもない羨望が湧いた。


「サリエル、君と引き換えに神官長は解放しよう」

「感謝いたします」


 サリエルはゆっくりと頭を下げ、指輪をフェクダに渡した。想像もできない技術が組み込まれた武器は、わずかに熱を帯びていたが、異国風の宝飾品にしか見えなかった。


「他にも訊きたいことはたくさんあるが……君はなぜこんなことを? まさか彼女を助けるためだけに、セファイドを裏切り重大な秘密を売るのか?」

「私は本来あなた方とは無関係ですが、遺産を巡って諍いが起こるのは望みません。利益を平等に分配することも、管理者の役目ですから」

「ふうん」


 フェクダは椅子から離れて、サリエルを至近距離で眺めた。『墓守』なら遺跡を眠らせておくのが役目だろうが、『管理者』ならばそれを円滑に動かすのが主務なのかもしれない。

 この美しい存在の正体を、彼はまだ掴みかねている。しかし、手放してはならないということだけは分かった。


「では、私が遺産を手にするまで、私に従うと誓うか」

「お約束します」

「私は疑り深い人間でね。証しを貰おうか――君の大事なものを半分、貰う」

「お好きなように」


 フェクダは広間の隅で燃える燭台の炎に目をやる。

 なぜ思いついたか自分でも不思議だったが、今からしようとするその行為はひどく背徳的で、そのぶん暗い愉悦を感じた。


 人間の内にある負の高揚感を、目を背けたくなる深い淵を、彼は若干の後ろめたさもなく受け入れた。

次回より第五章に入ります。

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