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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第四章 激震の王国
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微熱

 自宅を失った民の大部分を受け入れた王宮では、彼らの援助に多くの人員が割かれた。

 王軍兵に誘導されてぞくぞくと訪れる王都の民に、とりあえずの安全な居処と食糧と身の回りの物を提供せねばならない。王宮に勤める女官も衛兵も、日常業務に優先して非常事態に対応した。

 その一方で、避難してきた者たちの身元を一人ひとり確認し、名簿を作成する作業も進められた。死者と行方不明者の数を把握するためだ。役人たちは昼も夜もなく作業に追われた。


 リリンスもまた多忙な日々を過ごしていた。

 王太子教育はいったん中断されている。ひとり時間を持て余しているのは彼女には耐えがたく、何か手伝わせてほしいと父に申し出たところ、被災者支援に加わるように命じられたのだ。願ってもないことだった。


 もともと目端の利く活動的な少女である。担当の役人たちに混じって倉庫の備蓄品を仕分け、現場から上がってくる必要物資を確認し、不足分は購入を指示した。非常事態につき、決裁権は王女に委任されている。

 売り渋ったり値を吊り上げたりしようとする商人に対しては、


「いいからあるだけ出しなさい。言い値で買ってあげるから。でも断っておくけれど、私は市中での適正価格を知ってる。あんまり悪どいことやると、二度と出入りさせないわよ。ボったくるつもりならその覚悟でボるのね!」


 と脅し上げて値切った。


 身体が空くと、厨房に入って炊き出しの手伝いなども進んでやった。女官どころかもっと身分の低い使用人に対しても気さくに声をかけ、ともに汗を流す。そんな王女の態度に周囲は恐縮して戸惑っていたが、リリンスがあまりに自然体なので、間もなく慣れた。

 朗らかで元気な彼女の存在は、余震の続く中で不安を抱える者たちを和ませたのだった。


 リリンス自身も、とにかく忙しく働くことで余計なことを考えずに済んでいた。伯父による神官長の誘拐、兄の行動、そして神罰の意味――じっとしていると不安に押し潰されそうだった。

 だから、王兄フェクダの手の者によって撒かれたという文書の内容が耳に入っても、意外なほど平静だった。すでに覚悟していたことだったからかもしれない。


「姫様、お言いつけ通り、市中で手に入れて参りましたが……」

「ありがとう。面倒なことを頼んでごめんね。お父様もエンバスも、私には見せたがらないものだから」


 久々に自室で纏まった時間を過ごしていたリリンスは、侍女のティンニーが遠慮がちに差し出した紙片を受け取った。キーエは地震で負った骨折のため、しばらく休養を余儀なくされている。

 皺くちゃの紙片は、昨日街中にばら撒かれた文書の現物である。大半が憲兵に回収されたが、まだあちこちに残留していた。

 リリンスは椅子に座り直し、肘をテーブルについてそれを読んだ。


「えーと……『今回の大地震がアルハ神からの神罰であることは疑いようもない。中央神殿はその原因を王兄による神官長の拉致だと発表したが、それはとんでもない欺瞞である。神罰を招いたのは、国王による第三王女への王太子指名に他ならない』……なるほど」


 ティンニーが辛そうに俯いているが、リリンスは気にせずに続けた。


「『国王セファイドはアルハ神の定めを無視して、男子でもなく長子でもない第三王女リリンスを後継に選んだ。さらに第三王女は正式な婚姻を経ずに生まれた庶子である。その母親は最も卑しい身分の女であり、何人もの男と関係を持ったいわば娼婦だ。第三王女と国王に血縁関係があるかどうかさえ定かではない』」

「ひっ、酷い内容ですわ! 姫様のお血筋に対してこのような……」

「まあいいから落ち着いて、ティンニー。『神意に逆らい裁きを招いた国王に、もはやその玉座に留まる資格はない。我は国王に対し、王太子指名の撤回と即時退位を要求する。この要求が聞き入れられない場合は、我は我と志を同じくする王兄と協力し、武力行使も辞さない覚悟である。すべてはアルハ神の御心のままに――オドナス王国第一王子アノルト』……やっぱり兄様の名前なのね」


 リリンスは紙片をテーブルに置いて、深い溜息をついた。さすがに暗い表情である。

 アノルトとフェクダが王都の外で合流したらしいという情報はすでに王宮にもたらされていたが、あまりにも重大で、また確たる証拠がなかったため公表はされていなかった。それを向こうから認めてしまったのだ。


 兄は父に刃向うつもりだ――あの夜、国王の執務室で報告を受けた時に、リリンスは直感していた。だから今さら動揺はしなかった。アノルトが自らの正統性を主張するために、庶子である妹の出自を貶めるやり方も納得できた。


「私がお父様の子じゃないなんて、さすがは兄様、大胆な指摘だわ」

「そのようなわけがありません! 姫様はお父様にそっくりでいらっしゃいます!」


 妙なところを力いっぱい主張するティンニーに対し、リリンスは苦笑を浮かべた。侍女に言われるまでもなく、それはリリンス自身疑いようのないことだった。

 ただ、父子を直接見知っているわけではない一般市民はどう思うか――。


 それに、リリンスにはもうひとつ気掛かりなことがあった。


「お母様には……もう伝わってるのかな」

「正妃様ですか? さあ……地震以降、ご体調が優れないと伺っておりますが……」

「兄様がこんなことになってるって知ったら、お母様はどんなに……」


 リリンスは口元を押さえて俯いた。義母とはあの王太子指名の日以後、顔を合せていなかった。

 急に元気をなくした王女をティンニーが気遣わしげに見詰める。こんな時、先輩のキーエならばどんな言葉をかけるだろうと思いあぐねていると、リリンスは勢いよく立ち上がって、後宮に行くと言い出した。





 思い立つとすぐに、リリンスは後宮の最奥へ赴いた。

 国王正妃の居室である。ここ数日の喧騒もここまでは届いていない。

 非常時対応で多忙な国王の足が遠のいていることもあり、気味が悪いほど静まり返っていた。後宮の女官の中にも避難民の支援に駆り出されている者が多く、人の気配も薄かった。


 迎えに出てきたのはエムゼ総女官長だった。本来なら女官の陣頭指揮を取るべき立場の責任者だが、後宮の人員が手薄になった今だけ、正妃の世話を務めているらしかった。もともとタルーシア付きの侍女で、彼女から絶対の信頼を寄せられた古株である。

 付き従ってきたティンニーを外で待たせ、リリンスは少々緊張しながら入室した。


 広い居間を通って、寝室へ向かう。あの地震でこの部屋も相当に荒れたはずだが、そんな名残りなど微塵も感じさせぬほど整然と片付けられていた。ただ窓には遮光布がかけられ、昼間にも拘わらず薄暗かった。

 寝室に入ると、セファイドの姿があった。

 天蓋の紗が半分ほど下ろされた瀟洒な寝台の端に腰掛けている。彼が見下ろす先には、寝台の上に横たわったタルーシアがいた。


「お父様、お母様は……」


 リリンスが声をかけると、セファイドは掌を上げて彼女を制した。ごくごく小さな声で、


「静かに――ようやく眠ったところだ」

「お母様のお加減はいかがですか?」

「うん……微熱が下がらないらしい。やはり心労が祟ったのだろうな」


 リリンスはセファイドの傍らに立って、同じようにタルーシアを眺めた。

 タルーシアは絹の敷布に身を沈めて瞼を閉じている。細い寝息を立てる安らいだ表情はどこか幼く見えたが、枕に広がった長い髪の中には白いものが混じっていた。

 彼女の右手に自らの右手を重ね、セファイドは労りに満ちた眼差しを妻に注いでいる。その姿を見て、やはり父は義母を愛しているのだとリリンスは思い知った。


「兄様のことは、すでに?」

「遅かれ早かれ耳に入るだろうから、俺が伝えた。気丈に聞いてはいたが……」

「お母様、お辛いでしょうね」


 タルーシアが唯一の実子であるアノルトにどれほど期待と愛情を傾けているか、知らぬ者はいない。彼女がリリンスを受け入れ養育したのも、アノルトが王の後継者として順調に成長していたからこそだ。

 薄い香の匂いが漂う寝室の空気は、リリンスにとって今は淀んだ水のように息苦しく感じられた。

 少し躊躇した後、彼女は切り出した。


「どうなさるおつもりなのですか? やはり……アノルト兄様を討つのですか?」

「仕方があるまい。あいつはそれだけのことをした」


 分かり切っていた答えとはいえ、リリンスはぞっとした。血を分けた実の息子を殺めると、父は宣言したのである。


「どうしてもですか? フェクダ伯父様に騙されている可能性だってあります。逆賊として討伐するなんて……実の子なのに」

「実の子だからだよ、リリンス。騙されているのなら、なおさらあいつは自分の愚かさの責任を取らなければならない。上に立つ者は、他人にする以上に肉親には厳しい態度を示さねば、下からの信頼は得られないのだ」

「お父様は、国王としてのお立場とアノルト兄様の命と、どちらが大切なんです?」


 思わず出てしまった質問は、責めるような語調になった。リリンスはすぐに後悔したが、やはり分かり切ったその返答を父の口から聞いてみたくはあった。あるいは、父の動揺が見たかったのかもしれない。

 セファイドは、しかし眉一筋動かさず、娘を見返した。


「愚問だな。次期国王になるべきおまえからそのような言葉を聞くとは、情けないぞ」

「申し訳ございません。失言でした」


 リリンスは素直に頭を垂れた。セファイドの態度に微塵の揺らぎもないことに腹は立たなかった。むしろ安堵したが、一方で寂しくもあった。

 本当に平気であるはずがないのだ――ただ平気な素振りが上手いだけ。娘である自分にすら、父は本心を見せない。


「では……これだけお答え下さい。今回のことで、兄様に失望を?」


 すると、セファイドは初めてその表情を緩めた。あの激震の夜以来、彼が初めて見せる笑みは、飾り気がなく清々しかった。


「いや、むしろ見直したよ。あの欲深さ――さすがは我が息子だ」

「それを聞いて安心しました。お父様に蔑まれることが、兄様にとっては何よりも辛いでしょうから」

「リリンス、おまえは本当にアノルトを想っているのだな。なぜアノルトはそれで満足できなかったのか……兄としておまえを支える道を選べなかったのか……残念だよ」


 セファイドは右手をタルーシアの手から離し、リリンスの頭を撫でた。


 ほぼ同時に、それまで規則正しく続いていたタルーシアの寝息が途切れた。彼女は長い睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を開ける。

 ぼんやりと霞んだ黒い瞳が、寝台の脇のセファイドとリリンスを映した。

 気づいたリリンスが呼びかける前に、彼女は勢いよく起き上がった。


「私の夫に触らないで!」


 悲鳴のような声でそう言って、セファイドの腕にしがみつく。

 リリンスは驚いたが、セファイドは彼女の肩をゆっくりと叩いた。


「落ち着け、これはリリンスだ。よく見なさい」

「リ……リリンス……」


 タルーシアは数度瞬きをした。眼差しから徐々に濁りが消えてゆく。

 寝起きの彼女が自分を誰と見間違えたのか――リリンスには分かる気がした。

 ようやく現実を認識しても、タルーシアの興奮は去らなかった。


「リリンスおまえは……おまえたちは! どうして私から大切なものを奪うのですか!? 私のかけがえのないものばかりを……母子二代に渡って!」


 彼女は身悶えして、白い夜着に包まれた腕をリリンスへ伸ばした。化粧を落としても十分に美しい顔が苦悶に歪み、乱れた黒髪を青白い頬に貼りつかせている。

 そんな義母の姿が恐ろしくて、リリンスは一歩後ずさった。セファイドは寝台に腰掛けたまま、身を乗り出してくるタルーシアを抱き留めた。


「タルーシア、落ち着け」

「それとも、これは復讐だとでも言うの!? リリンス! 私への復讐なの?」

「タルーシア!」


 セファイドは鋭く窘めた。妻たちに対しては普段かなり鷹揚な彼が、今は腹立たしげに、少し焦ったように、彼女の動きを封じようとしている。

 タルーシアは夫の肩越しに手を伸ばし、リリンスを睨み据えた。血走ったその眼は縋りつくようでもあった。リリンスには言葉の意味が分からない。


「ど、どうして私が復讐など……」

「それは私が、私がおまえの……」

「やめなさい、タルーシア」

「おまえの、母親を」

「聞くなリリンス! 今の母は正気ではない」

「私の実母を、何ですか?」

「おまえにそっくりなあの女を」


 血の気の失せたタルーシアの顔に、狂気じみた笑みが浮かんだ。勝ち誇ったような、自暴自棄になったような――両の目から涙が溢れ出す。


「私が殺してやったから」


 リリンスの身体が寝台脇の戸棚に当たって、並べられた香油瓶がカタンと音を立てた。すべての血潮が爪先へ向かって流れ落ちる気がして、リリンスは眩暈を感じた。


 今、義母は何と言った?


 タルーシアは気力をすべて使い果たしたのか、顔を覆うこともなくはらはらと涙を流し続けている。セファイドは彼女を庇うように強く胸に押しつけて、その髪の中に顔を埋めた。


 二人の姿を、リリンスは遠くに見た。


 騒ぎを聞きつけたらしいエムゼが隣室から入ってきて、その恐ろしい沈黙が破られるまで、誰もが動けなかった。

 ぐったりしたタルーシアをセファイドが横たえ、エムゼが慌ただしく薬湯の準備をする。他に二人の侍女も入室してきた。


「……おまえは部屋へ戻っていなさい」


 こちらも呆けていたリリンスは、父の言葉で我に返る。


「病の言わせたことだ。真に受けるな」


 それは本心ではないと、暗い眼差しが告げている。

 訊きたいことは山ほどあった。だが父の疲弊した表情がそれを拒み、リリンスは逃げるように立ち去るしかなかった。

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