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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
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父の選択

 身内同士とはいえ公式な場であるから、リリンスは準礼装に身を包んで支度を整え、自室で呼ばれるのを待っていた。

 会議へ顔を出すこと自体は別に苦痛ではない。普段は疎遠な親類に、当たり障りのない挨拶をしておけばよいだけだ。ただやはりアノルトと会うのは心苦しかった。

 大丈夫、普通に振る舞える――リリンスは胸を押さえた。象牙色の衣服の中には柘榴石の首飾りが吊るされている。切れた鎖を丁寧に繋ぎ直したのだ。

 昨夜少し泣いたら、自分でも意外なほどすっきりした。今はこの石のささやかな重みが気分を落ち着かせている。

 瞼の腫れは引いただろうかと目を押さえていると、やがて、キーエが声を掛けてきた。


「姫様、お迎えが参りました」


 少し戸惑ったような響きを感じて、怪訝に思いながらもリリンスは椅子から立ち上がった。長く歩き辛い裾を捌いて、部屋の出口へと向かう。


 そこで待っていたのは、ナタレだった。

 あまりにも突然の遭遇で、リリンスは固まってしまった。キーエの当惑の理由が分かり、次にどう反応してよいのか迷ったのだ。

 硬直する王女の前で、ナタレは深々と一礼した。


「国王陛下がお待ちです、姫様。大広間へおいで下さい」

「あ……は、はい、すぐに……すぐに参ります」


 しどろもどろに答えるリリンスとは対照的に、ナタレは落ち着いていた。だが決してリリンスと目を合せようとはしない。ごく事務的に侍従の務めを果たそうとしているかのようだった。

 彼について、リリンスは回廊に出た。


 随行するキーエは、気を遣ってか少し離れた位置を歩いている。広間までそう長い距離ではない。その間にナタレと何か言葉を交わしたかったが、彼の背中は彼女を振り返ろうとはしなかった。

 礼拝堂での出来事――あんな場面を見られてしまって実に気まずいが、お礼を言わなくてはならないとリリンスはずっと思っていた。

 ナタレの方でも彼女に訊きたいことがあるだろうに、彼の態度はひどく素っ気なかった。すぐ前を歩く背中まで、リリンスは果てしない距離を感じる。

 萎えそうになる気力を振り絞って、


「この前は……ありがとう。あなたのおかげで、その……助かったわ」


 と話しかけると、ナタレは横顔を見せて小さく首を振った。その唇は固く引き結ばれ、眉間に深い皺が刻まれているのが分かって、リリンスは胸騒ぎを覚えた。

 彼もまた自分に対してどう接してよいのか困っているのだと思っていた。しかし今の表情は、ただの困惑では片付けられないほどの緊張を感じさせた。王太子指名の場で何かあったのだろうかと、彼女はにわかに不安になる。


「指名は無事に終わったのよね? アノルト兄様が……選ばれたんでしょう?」

「俺の口からは申し上げられません。国王陛下から直接お言葉があるはずです」


 遠慮がちな問いかけに、ナタレはきっぱりと答えた。

 それから足を止め、振り返って、初めてリリンスを真正面から見詰めた。何かを押し殺した、しかし強い眼差しを受けて、リリンスは何も言えなくなる。


「何があっても……俺は……」


 ナタレは震える低い声で呟く。

 奇妙な期待が胸をよぎり、リリンスは続きを聞き取ろうと身を乗り出した。だが、彼はすぐに顔を逸らして再び背を向けた。


「失礼いたしました。急ぎましょう」 


 今度は距離だけでなく壁を感じた。なぜだかリリンスは彼の本当の心中を知る最後の機会を失ったように思えて、肩を落とした。





 リリンスが大広間に足を踏み入れた途端、そこに集った全員の視線が彼女に集中した。

 二十名余りの王族と、ほぼ同数の廷臣たち、それから軍関係者と神官。エンバスら事務担当の役人を併せると、百人以上の人間が集まっている。


 彼らの間には異様な空気が流れていた。それを一瞬で感じ取って、リリンスは歩を進めるのをためらった。

 緊張とも違う、熱気とも違う。動揺――いや、呆気に取られているというのが近い。リリンスを見て、多くの者が一斉に溜息をつくのが聞こえた。


 私何か変な格好をしているかしら――リリンスは咄嗟に礼装の胸元を確認してしまい、そんなわけもないと思い直して、丁寧にお辞儀をする。


「リリンス、こちらへ」


 最も上座にいるセファイドが、娘を手招いた。

 彼の隣には兄たちが座っている。セラムとサークは他の皆と同じく奇妙な動揺の表情を浮かべていたが、長兄アノルトだけは硬い無表情で目を伏せていた。

 リリンスは無意識に背後へ視線を巡らせた。ここまで彼女を案内してきたナタレは、入口の脇で控えていて顔を上げようともしない。助けを求めたわけではないのだが、彼女は軽い失望を感じた。


 注がれる視線に居心地の悪さを覚えながら、人々の輪の外円に沿ってリリンスは父親の元へ進んだ。

 どこにも自分の席がなく、いきなり上座へ呼ばれるのも変だったが、誰も何も言葉を発さないのが不思議だった。

 リリンスが隣へ来て軽くお辞儀をすると、セファイドは椅子から立ち上がった。


「では改めて紹介しよう。第三王女リリンス――オドナス王国の次期国王である」


 いつもと同じく明朗な、よく通る声での宣言であった。

 リリンスの耳にもその言葉ははっきりと届いた。だがその意味を彼女が理解するまで数瞬かかった。


「……え?」


 口を突いて出たのは、ひどく間の抜けた声だった。

 それきり二の句が継げなくなった娘の背に手を添え、セファイドは彼女を一歩前に、皆の眼前に押しやった。


「先ほど伝えた通り、俺はこのリリンスを後継者に指名し、いずれは全権を譲渡する。皆、異存はないな?」

「お父様!?」


 リリンスは父に向き直った。

 あまりの事態に停止していた思考がようやく動き始め、自分の置かれたとんでもない状況に驚愕したのだ。


「な、何をおっしゃるのです!? 私が……私が王太子などと……有り得ません!」

「もう決めたことだ。おまえには国の役に立ってもらうと言っただろう」

「私の役目はアートディアスへ嫁ぐことでしょう!? 先方へもすでにお返事を……」

「そんなもの、とっくに断っているよ、うちの国王陛下は」


 口を挟んだのは、フェクダだった。彼女の伯父は椅子に腰掛けたまま両腕を組んで、皮肉めいた笑みを浮かべていた。


「最初からおまえを他国に遣る気などなかったのさ。まったく騙されたよ。ここにいる全員、その男に騙された」

「人聞きの悪いことを」


 その男呼ばわりに立腹したふうもなく、セファイドは軽く肩を竦めた。


「俺は最後まで迷いました。結論を出したのはつい先日だ。次代のオドナスを統治する人間として、リリンスが最も相応しい」

「だって……兄様が! アノルト兄様がいるではありませんか! なぜ私などが!?」


 場所も忘れてセファイドに食って掛かってから、リリンスはアノルトへ目をやった。長兄は相変わらず硬い表情で、身じろぎひとつせず席に着いている。父の決定を受諾したのか反発しているのか、彼女には図り兼ねた。


 物心ついてからずっと父の後継者として教育され、自覚も責任も十分に背負っていたはずのアノルトを差し置いて、自分のような末娘が選ばれるなど悪い冗談にしか思えなかった。リリンスはなぜ自分なのかまったく理解できなかった。

 この場に流れる異様な空気の理由――意外すぎる国王の決定に誰もが呆然としているのだ。


 セファイドはリリンスの抗議を無視して、着席した面々を睥睨した。その手元には、革製の台紙に挟まれた書面がある。国王印の押された、正式な勅書であった。

 完全に納得している者はいないだろう。しかし誰もこの場で反対はできない。王太子の指名は国王の権限であり、ここに集められたのは協議のためではないのだ。


「本日をもってオドナス王国の王太子をリリンスに決定する。まだ若輩者だが、皆の支援を期待する」

「お待ち下さい!」


 鋭く高い声が広間に響き渡った。


 入口の絹布を大きく押し広げ、タルーシアが入室してきたところだった。

 リリンスと同じく象牙色の準礼装を身に纏い、乳白色の宝石で黒髪を飾りつけている。正妃の身分に相応しい豪奢な装いであったが、美しい顔は険しく歪んでいた。

 彼女は、服の裾が跳ね上がるのにも構わずに大股で上座へ歩み寄った。棒立ちのリリンスを押しのけて、セファイドへ詰め寄る。


「私は到底承服できません! 第一王子を差し置いて第三王女を王太子に指名するなど、何を考えておいでです!?」


 怒りと呼ぶのも愚かなほどの激情に、黒い瞳が焔のごとく輝いていた。蒼褪めた頬には細い静脈が透けている。

 セファイドは冷然とそんな妻を見返した。


「おまえの意見は聞いていない。口を差し挟むな」

「私は正妃である前にあなたの姉です。リリンスの即位は認められません。これは先王の長女としての意見です!」

「では訊こう――姉上。なぜリリンスではいけないのだ?」

「知れたこと! オドナスの王位は代々嫡男に受け継がれるもの――それがアルハ神のご意志でしょう。覆されるのは唯一、父上の時のような事象が起こった場合のみ。あなたがいちばんよくご存じのはずですわ。それを……第一子でもなく、ましてや女が!」


 タルーシアは射るような眼差しでリリンスを見た。リリンスは震え上がる。義母はいつも冷淡ではあったが、こんな剥き出しの棘を向けられたのは初めてだった。


「そもそも、第一王子に何の不満があると言うのです? アノルトは総督として、国王の代行者として立派にドローブを治めているはずです。後継者の資質を疑う余地がありましょうか!?」


 生母の欲目を差し引いてもタルーシアの主張はもっともだと、その場の全員が感じたことだろう。

 総督の地位に就いたアノルトは優秀で熱心で、着々とドローブの街を発展させている。たった二年ではあるが、彼の統治者としての才覚を測るには十分な成果だった。

 当のアノルトは、感情を押し殺したように無言で席に着いている。

 セファイドは小さく息を吐いた。ひどく穏やかな口調で、


「王に必要とされる資質とは何だと思う?」


 と問う。タルーシアと、その隣のリリンスを同時に視界に収めていた。


「俺はな、そんなものは時代と場所によって変わると思っている。人も国も刻々と変化してゆくのに、王だけが唯一絶対であるはずがない。その時々で求められるものは違う」

「何がおっしゃりたいの?」

「アノルトは確かに優秀だよ。才覚も熱意も申し分ない。おそらくよい国王になるだろう――俺と同じでな」

「当然ですわ。アノルトはあなたを目標にしてきたのですから」

「ただそれは、二十年前であればの話だ」


 セファイドは顔を巡らせて、広間に集った全員を眺めた。静かだが微塵の揺らぎもないその物腰は、水底の金剛石を思わせた。


「幾多の戦争を重ね、周辺諸国を平定し、国土を広げていた頃のオドナスであれば、アノルトはこの上なく優れた王になれた。だが今はもうその時代ではない。大国となった我が国に今後必要なのは、外へ向けたさらなる侵攻ではなく、内部の結束と融和だ。雑多な民族を無理なく纏められる柔軟な精神だ。いつまでも俺と同じような人間がこの椅子に座っていてはいけないのだよ」


 アノルトはあらゆる意味で父親に似ていた。戦場での統率力も、政治的な判断力も、そして国外へ向けた野心も。

 だからこそ次代を委ねることはできない――彼はそう言っているのだった。


 しん、と静まり返った中で、リリンスは混乱していた。

 父の言葉の意味は分かる。分かるが、どうしてもそこに自分が係わっていると実感できないのだ。

 セファイドの手が、リリンスの細い肩に添えられた。温かく力強い手であるはずなのに、今の彼女にはとてつもなく重く感じられた。


「リリンスはこれまで後継者としての教育を受けてきたわけではない。未熟なくせに好奇心だけは強くて、市中で喧嘩騒ぎを起こすほどに短慮だ。しかし、他者を受け入れる謙虚さと懐の深さを持っているのは確かだと思う。そして何よりも周囲との親和を望んでいる。突出した才能はないが、この子の中庸さこそがこれからの我が国に必要なものだ」

「取るに足らない個性だからこそ国を継がせると? 詭弁ですわ」

「お……お母様のおっしゃる通りです。私には統治に必要な知識が何もありません。軍事に関わることだって何ひとつ……」

「これからいくらでも学べる。もちろん俺も当分は退位しない。軍事面は兄三人に補佐させればいいだろう。ただし判断するのはおまえ――大切なのはおまえの中に育った価値観だ」


 セファイドは娘に微笑みかけた。

 必ずしも国王が最も優秀である必要はない、要は優秀な人間を従えればよい――彼の信条は何度も聞いたことがあったが、リリンスが安堵できるはずもなかった。

 タルーシアは再度リリンスを見やった。怒りを通り越して底冷えのする目だ。それから黙ったままのアノルトに向かって何か言葉を発しかけたが、すぐに夫に向き直った。


「……アルハ神の御心に背く行いです、セファイド。オドナスに女王が誕生した前例はない。そのようなことになれば必ずや神罰が下りましょう」


 ある意味、正妃の切り札であった。

 王位の継承は第一王子に――これはオドナス建国以来の伝統であり、該当者が死亡するか、セファイドが即位した時のような『血讐による継承』が発動しない限りその原則は守られるはずだった。

 その事実を思い知っているセファイドは、しかし、ゆっくりと首を振った。


「女王が即位した前例は、あるのだよ」

「何……何ですって……?」

「半年をかけて四百年分の書類を調べたら、公式記録には残っていない記述がいくつか見つかった。他の皆にはすでに説明をした」


 正妃の登場を待つまでもなく、王太子にリリンスの名を宣言した時点で、当然ながら異を唱える王族はいた。神罰を恐れる彼らに向けてセファイドは、『穴倉の番人』が黴の生えた書類の山から掘り当てた記録を掲げたのだった。


 女王の存在の痕跡を捜せ――これがセファイドがクートに命じた難題だった。クートは見事に結果を出したのだ。


「国王決裁の署名欄や議事録の承認欄に、ほんの数例、歴代国王として残ってはいない名前が記されていた。女の名だ。王太子の指名前に国王が急逝した場合や、直系に男子がいない場合、空位を避けるために臨時に即位したものと思われる。つまり短期間であれオドナスに女王はいたんだよ。意図的に記録を隠されているようだがな。神官長」


 彼は身体の向きはそのままに、背後に着席するユージュに声をかけた。


「その間、神罰が下ったという記録はあるか?」

「ございません――建国以来四百年間、一度も」

「女王の正式な即位について、神殿の見解は?」

「昨夜、アルハの神託を伺いました。私の解釈では答えは、是、と」


 ユージュはいつものように表情ひとつ変えず、淡々と告げた。

 これまで何度も神の言葉を正確に読み取って、オドナスに貢献してきたとされる女である。疑いを差し挟める者などいなかった。


 隠されていた女王即位の前例、神罰が下らなかった事実、アルハ神と神殿の承認、そして現国王の強い意向――リリンスが王太子に立つことを阻害する要素は、もう何ひとつない。

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