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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
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手の中の思い出

 しんと静まり返った礼拝堂には、生ぬるい水のような光が満ちていた。だいぶ傾いた日差しが、西側の窓から浅い角度で入ってきている。

 青い闇と白い月光だけで彩られた夜の堂内は底知れぬ深さを感じさせたが、大理石の床の模様から高い天井の端まで明瞭に見渡せる昼間は、すべての構造がひどく現実的に晒されていた。

 やはりここは月神を祀る場所、日のあるうちは空虚なのだ。


 そんな礼拝堂の床で、何やらごそごそと動く人影がひとつあった。

 祭壇に近い場所で四つん這いになり、顔を床面に擦りつけるような姿勢をとっているのは若い娘だった。

 明るい橙色に染められた絹の衣服の裾が汚れるのも構わず、膝で移動しながら床を丁寧に手でなぞっている。小動物を思わせるつぶらな小さい目、拗ねたように引き結んだ唇、痩せた手足――ティンニーであった。

 彼女はあどけない甘さの残った顔をしかめて、床の上を這いずっていた。何かを必死に捜しているようだ。服装や髪形には人一倍気を遣う方なのだが、綺麗に編み込んだ頭髪が乱れることなど今は気にしていなかった。


「ああもう……やっぱりないわ……誰かに持ってかれちゃったのかな……」


 祭壇付近をひと通り探し回って、ティンニーはぺたりと座り込んだまま呟いた。掃除が行き届いているとはいえ、床をなぞっていた掌は黒く汚れている。

 礼拝堂の壁沿いには、同じような木製の椅子がずらりと並べられていた。人が多く集まる際にはそれらを堂内に配置して席を作る。その下はまだ捜していなかったと思い至り、ティンニーは這ったまま、まず西側の壁に向かって進んだ。

 西日が差し込んでいるから窓辺はとても暖かい。ティンニーは膝の痛みを我慢しながら、椅子の足の間に頭を突っ込んで調べ始めた。


 一脚一脚、丁寧に椅子の下を探っていって、太い石柱の脇に差しかかった時だった。


「姐ちゃん、何か捜し物?」


 頭上からいきなり声が降ってきて、ティンニーは反射的に身を起こした。椅子の座面に衝突することは免れ、鼻先が触れ合うほどの距離に見知らぬ男の顔があった。

 年の頃は彼女よりも二つ三つ上だろうか。いわゆる美男子ではないが、愛嬌のある顔立ちの若者だった。太い眉に垂れ気味の目尻、張った小鼻と厚い唇を、円い輪郭が取り囲んでいる。

 部品の形は今イチだけど配置は悪くないわね――年頃のティンニーは初対面の若者を冷静に見定めた。

 それからようやく自分の置かれた状況を把握した。彼は椅子三脚を並べて、その上に寝そべっていた。石柱の陰に隠れていて気付かなかったのだ。ティンニーはその椅子の下を調べていたらしい。


「あ、あなた誰? こんな所で何してんの?」


 膝立ちのまま距離を取る彼女に、若者は人懐っこい笑みを見せた。少し眠そうである。


「昼寝。ここ日当たりがええやろ? めっちゃ気持ちようて。姐ちゃん、お尻の形がかっこええなあ」


 ティンニーは思わず腰を押さえて身を竦ませた。か細い手足をしていても、彼女の胸や臀部は意外とふくよかなのである。寝そべった男の鼻先で四つん這いになっていたのかと気付くと、恥ずかしくなった。


「失礼な奴ね! これでも私はリリンス王女付きの女官なのよ!」


 声が高い天井に響いて、ティンニーは口を押さえた。もうすぐクビになるんだけどね、とはさすがに付け足せない。すると若者は、おお、と声を上げて起き上がった。


「姫様んとこの侍女さんか。こんなに可愛いらしい子がおったとはなあ。あ、俺はフツいいます。姫様とは仲良うさせてもろてるんやけど」

「馴れ馴れしい口利かないで。私、あなたなんて見たことない」

「まあ俺が姫様と会うのは王宮の広間とか……学舎とかやし。あんた、姫様の部屋から出してもらえんのやな。下っ端やろ」


 若者――フツは茶色い髪に指を突っ込んで頭を掻いた。不躾なくせに嫌味のない口調だった。彼の持つ緩い雰囲気のせいかもしれない。


「下っ端で悪かったわね」

「いやいや、俺も留学生の居残りで、学舎の手伝いさせてもろとる半人前やから、偉そうに言えへんわ。今日もな、教官と一緒に、学生の王宮見学の引率やねん」

「引率フケて昼寝してるくせに」

「昨夜飲み過ぎてもうて」


 目を擦るフツを、ティンニーは呆れて眺めた。同じ元留学生でもナタレとはえらい違いだと思った。


「も、いいわ。私ここで捜さなきゃいけない物があるの。ほっといてくれない?」

「手伝うで。大事な物なんか?」


 フツが椅子から下りて同じように膝をついたから、ティンニーはさすがに慌てた。


「いいわよ、そんな……」

「二人で捜した方が早いやろ。背中の下でごそごそされたら落ち着いて寝てられへんわ。侍女さん、名前は?」

「ティンニー……です」

「へえ、可愛い名前やな」


 彼は悪戯っぽく笑った。本心なのか下心があるのか、ティンニーにはよく分からない。


「で? 何を捜せばええの?」





 夕食の後、リリンスは寝室の鏡台の前に座った。

 何本も灯された燭台からの光で室内は明るい。ほぼ一日ぶりにちゃんと食事が喉を通って、鏡の中の自分の顔には生気が戻ったようだった。

 キーエが櫛で丁寧に彼女の髪を梳いている。リリンスが少しだけ元気になったのが分かって、彼女はとりあえず安心していた。昼間の湖畔で、リリンスと歌姫の間にどんな会話が交わされたのか彼女は知らないのだが。


 リリンスは視線を鏡台の上に落とした。

 香水の瓶や普段使いの装飾品に混じって、鈍色の細い鎖が並べられている。途中で切れてしまった首飾りは、ナタレからの贈り物だ。先についていた赤い石は、月光の下ではついに見付からなかった。

 かけがえのない時間を彼と共に過ごした証、大事な思い出――それが、アノルトにとっては我慢のならないことだったらしい。


 力任せに鎖を引き千切った兄の、ギラギラと凶暴な瞳を思い出して、リリンスは身震いした。

 思い悩んでいても仕方がない、いい加減に前に進まねば、と振っ切ろうとするが上手くいかなかった。


「姫様、明日は……」

「ええ、分かってる。お呼びが掛かるまでここで待機ね」


 鏡越しに、リリンスはキーエへ肯いて見せた。どんなことがあっても自分の傍にいてくれるこの侍女の存在が、今はとても心強い。

 明日の昼、王宮に集まった王族が大広間に召喚されているらしい。目的は考えるまでもないだろう――王太子の指名が行われるのだ。

 とはいえ、リリンスやタルーシアなどの女性王族は除外されていた。女に王位継承権がないと定められているわけではない。だが他にいくらでも男性の適任者のいる状況では、女性は対象から外されるのが普通だった。

 ただ会合が終わり、すべて決定した後、彼女らも広間に呼ばれて結果を聞くことになっている。おそらく同時にその場でリリンスの婚姻が正式発表されるのではないかと、王宮内ではそんな推測が囁かれていた。


 アノルトと顔を合せるのが、リリンスは気まずかった。父から何の沙汰もないので、兄の申し出は一蹴されたのだと思う。兄はどんな思いで自分を見るだろう。


 ふと、部屋の入口の方が騒がしくなった。居間へと続く戸口に吊るされた間仕切り布がふわりと揺れ、侍女の一人が顔を覗かせた。


「失礼いたします。キーエさん、ティンニーが姫様に用があると……」


 侍女は当惑した様子で告げる。具体的な事情は伏せられていたが、ティンニーが王女付きを外されたことは周知されていた。

 キーエが返事をする前に、再び間仕切り布が持ち上がって、当のティンニーが勢いよく入って来た。


「ティンニー! あなたは!」

「ごめんなさいキーエさん! 私どうしても姫様に……」


 ティンニーは身を縮こまらせて深く頭を下げる。いつもあれこれ気にしている髪型は乱れ、服の裾には汚れがついていた。

 キーエは軽く息を吐いて、来訪を告げた侍女を下がらせた。椅子に腰掛けたリリンスは、目を丸くしてティンニーを眺めている。

 ティンニーは意を決したようにリリンスの前へ進み、床に膝をついた。


「姫様、申し訳ございません。あのお手紙をアノルト殿下にお渡ししたのは私です」

「うん……聞いたわ」

「お許し頂けるとは思っていません。ここを辞めることにも異存はありません。でもこれを……せめてこれをお返ししたくって」


 彼女は懐から白い手巾を取り出して、リリンスに差し出した。その指先も黒く汚れている。

 手巾に包まれていたのは赤い石だった。菱形の台座に埋め込まれた、小さな柘榴石だ。

 リリンスは石を見て、それからティンニーに視線を戻した。大きな黒瞳が、緊張した侍女の表情を映して揺れている。


「これ……見付けてくれたの?」

「はい。あの……大事な物なんですよね? 私のせいで……だから……これは絶対に捜さなくちゃって思って……」

「ありがとう……」


 震える手から石を受け取る。こんな小さなものを広い礼拝堂で捜すのがどんなに大変だったか、彼女の手や服の汚れを見なくてもリリンスには分かった。

 ようやく安堵の笑顔になるティンニーへ、リリンスはもう一度礼を言った。


「本当にありがとうね、ティンニー。戻ってきてよかった……これで、たぶんもう大丈夫……私、大丈夫だわ……」


 彼女はささやかな宝石を両手で包み込み、胸元で強く握り締めた。もう決して手放すまいと決心したように。

 澄んだ両目からぽろぽろと涙の滴が零れ落ち、滑らかな頬を伝った。現実感を失っていた心が、やっと息を吹き返したのだ。身体と精神が感じている痛みを、自分のものとして受け入れることができた。


 両目を見開いたまま身を震わせて泣き続けるリリンスに、ティンニーはおろおろとした。

 キーエはそんな後輩に笑顔で首を振り、リリンスの肩をそっと抱き締めた。

 




 翌日、王宮に滞在している二十名余りの王族が大広間に集められた。

 現王から数えて四親等以内の成人男子、すなわち王位継承権を持つ者たちである。彼らは背の低い椅子にそれぞれ腰を下ろし、広間の中央に楕円を作っていた。


 最も上座には国王セファイドが座す。その右隣に第一王子アノルトと王兄フェクダ、左隣に第二王子セラムと第三王子サークが座っている。以下の席順は王位継承順位通りだった。

 彼らの楕円を取り囲むように、王族以外の国宰たちが外側の円を形作って着席している。各大臣や局長級の役人、王軍幹部の面々である。上座に近い場所に、シャルナグ将軍の姿もあった。

 国王の背後には、ユージュ神官長をはじめとする中央神殿の高位神官たちが座していた。聖職者たちは輪の中には加わらず、今日の会合の立会人を務めているようだった。


 神妙な面持ちで姿勢を正している者、ひそひそと囁きを交わす者、興味深げに周囲を見回す者――様子は様々であったが、どこか高揚した雰囲気は全員に共通していた。アノルトですら、わずかな緊張に頬を強張らせている。落ち着いた物腰で背凭れに凭れているのはセファイドくらいのものであった。


 全員揃ったのを確認して、そのセファイドはおもむろに口を開いた。


「皆――遠方からの帰還、足労をかけた。召喚に応じてくれて感謝する」


 そう言って目礼する。他の者たちは丁寧に礼を返した。


「今日この場に皆を集めたのは他でもない。私の後継者、オドナスの世継ぎを正式に決定し、承認を得るためだ」


 予想通りとはいえ、多くの者が息を飲む気配がした。視線がセファイドへ、そして隣のアノルトへと集まってゆく。第一王子は怯むでもなく堂々と彼らを見返した。

 広間の壁際では、書記係の役人が国王の言葉を書き留めていた。この場での発言はすべて公式の記録として保存されるのである。


 セファイドの傍らに控えてた侍従長エンバスが、革張りの台紙に挟まれた書面を彼に手渡す。セファイドをそれを開き、中を確認して顔を上げた。


「代が変わっても、支えるべきは王個人ではなくあくまでも国だ。王のために国があるのではなく、国のために王がいる。それを心して聞いてほしい」


 そして、次期国王の名を宣言したのだった。


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