陽光と少女
父が初めてその少女を連れてきた時、アノルトは王宮の中庭で二人の弟の喧嘩を仲裁していた。
最初はこの年頃の少年らしく、武術の教師から習ったばかりの投げ技を掛け合って遊んでいたのだが、いつの間にやら本気になり、そのうちに取っ組み合いに発展したのだった。
二人の王子、セラムとサークは同い年であって双子ではない。母親が違うのだ。だからといって仲が悪いわけでは決してないが、年が同じで体格も似通っているぶん、一度喧嘩になるとなかなか勝負がつかなかった。
植栽を薙ぎ倒して地面に転がって、頭を押さえつけたり腕を掴み上げたり、終いには肩に噛みついたり――激しく揉みあう二人の間に割って入ったのが、しばらく黙って見ていた長兄アノルトだった。
唯一正妃の子であり、彼らより一歳年上の十一歳であったアノルトは、弟たちの襟首を引っ掴んで立たせ、それぞれ逆方向へ突き飛ばした。
「いい加減にしないか二人とも!」
彼は年に似合わぬ大人びた口調でそう窘め、各々を順番に睨みつけた。
「だって兄上、セラムが!」
「先に殴ったのはサークだろ!」
口を尖らせてお互いを非難し合う弟たちに向かって、アノルトはぴしゃりと言う。
「どっちが先に手を出そうが同じだ! 武術を喧嘩に使うなんて何考えてるんだ。俺たちが鍛錬してるのは、いつか戦場で父上の役に立つためだろ!」
セラムもサークも沈黙した。幼いながら、兄の言葉に揺るぎない芯を感じたからだ。
「だいたい技の型が全然身についてないじゃないか。文句があるんなら俺が相手になるぞ?」
両手を腰に当てたアノルトの表情には、翳りというものがなかった。その物腰は否応なしに父親を思い出させ、二人は項垂れた。そもそもこの長兄に武術で敵うわけがない。
「……分かったよ、兄上」
「ごめんなさい」
素直に詫びる弟たちの前で、アノルトは破顔した。セラムとサークもつられて笑う。たった一歳差ではあるが、彼らはこの長兄をとても慕っていた。
今の諍いなどすっかり忘れたような二人がお互いの服についた泥や葉っぱを払い、アノルトがやれやれと溜息をついたところへ、父はやってきた。
「賑やかだな、息子たち」
騒ぎを見ていたのかどうか、屈託のない笑みを浮かべた父の後ろに、その少女は隠れるように立っていた。
アノルトたちよりは少し年下の、七、八歳くらいの少女だった。真っ直ぐな長い黒髪と、大きな丸い目――身に着けた衣服は仕立ての良い絹製だったが、貴族の娘にしては日に焼けた肌をしていた。
王宮でこんな幼い少女を見るのが珍しくて、アノルトはまじまじと彼女を見詰めてしまった。異母妹は二人いるが、いつも後宮の母親の元で生活しているために顔を合わせることはめったにない。
少女は彼の視線に怯えたのか父の背中に隠れた。
「リリンス」
父は少女をそう呼んで、肩を抱いて自分の隣へ立たせた。
「この子はおまえたちの妹だ。今日からここで暮らすことになった」
「妹……ですか?」
「リリンス、兄様たちに挨拶をしなさい」
少女は父の手を握り締め、おずおずと顔を上げた。整った綺麗な顔立ちをしていたが、その目尻は赤く染まっている。泣いていたのか、とアノルトは思った。
弟妹たちの生母がみな異なっている事実に、アノルトは違和感を感じたことはない。父親が国王である以上そういうものなのだろうと受け入れている。
だから、王宮の外にも自分の妹がいると聞いた時も驚きはしなかった。それがつまりこの子なのだろう。
少女は戸惑ったように三人の少年を眺め、肩を震わせた。何か言おうとするのだが声が出ない様子で、指で唇を押さえる。誰でも彼女を抱き締めてやりたくなるような、いたいけな仕草だった。
アノルトは少女の前に進み出た。怖がらせぬよう優しい表情を作るまでもなく、彼を見上げる少女の眼差しは意外としっかりしていた。初めて会う血の繋がった兄に興味を持ったようだ。
「俺はアノルト――おまえの兄だよ」
「にい……さま?」
少女はようやく声を出した。鈴を振るような、愛らしい声音だった。アノルトは少し下にある彼女の頭を撫でる。
「この二人はセラムとサークといって、やっぱりおまえの兄様だ」
弟たちは兄の後ろで、どこか照れ臭げに足元を見ている。彼らにしても、妹とはいえ同年代の少女に接した経験があまりないのだ。
そんな息子たちの様子を微笑みながら眺めて、父は少女の背中を押した――アノルトの方へ。
「リリンスはここに友達も知り合いもいない。俺も忙しくてそう一緒にいてやれないかもしれないから、この子が悲しい思いをしないように――おまえが守ってやれ」
「俺が……」
「そうだ。妹を守るのは長兄の役目だぞ」
アノルトは黙って父から託された少女を見る。
彼女は不安げに、だが明らかな好奇心の色を宿して、兄の顔を見詰め返していた。
彼がそっと手を伸ばすと、小さな手がそれを捕えた。ぎゅっと握り締めてくる指先は細く柔らかく、少し震えていた。
不思議な幸福感がアノルトを包んだ。ふんわりと暖かい光が胸の中に宿って、全身へ広がっていくような、そんな心地好さだった。陽だまり寝転んで大きく息を吸い込んだ時に似ている。
これが俺の妹――俺が守るべきもの――。
「アノルト……にいさま」
彼の妹は安心したように微笑んで、そう呼んだ。彼女が笑顔になると、そこに太陽が生まれたかと思うほど空気が輝いた。
この笑顔は守る価値がある、とアノルトは直感した。
大切にしよう。大切に守って、誰にも傷つけさせない。俺がいる限り。
初めて感じる誇らしさだった。
自分たち子供や家族や国を守っている父は、いつもこんな気持ちを抱いて戦ってきたのだろうか。
「おいで、リリンス。木槿の花を見せてあげる」
彼は妹の手を引いて、父親によく似たその顔に幸せそうな笑みを浮かべた。
オドナス王宮の中庭には午前の柔らかな日差しが降り注いでいた。
庭師が朝の灌水を終えたばかりで、大粒の水玉がきらきらと熱帯植物の葉を飾りつけている。優しい緑の中で、鮮やかな色彩の花々がほのかな香りを放っており、誰もが深呼吸したくなるような気持ちのよい場所を作り上げていた。
そんな中庭を巡る黒い石造りの回廊を、1人の少女が歩いていた。
オドナス王国第三王女、リリンスであった。腰まである真っ直ぐな黒髪と、身に纏った萌黄色の衣装が、朝の陽光にとてもよく映える。付き従う数人の侍女とともに静かな衣擦れの音を立てながら、彼女は回廊を進んでいた。
瞳の明るい大きな目と、小さく整った鼻、笑みを含んだような薄紅色の唇――今年十六歳になった王女は、可憐な顔立ちの中にも女性の艶を漂わせ始めている。
美女というにはまだ若い。が、その身分に相応しい気品と併せ、これから花の盛りを迎えてどれほど美しくなるかと期待させる美貌だった。
中庭でまだ作業をしている庭師たちが、リリンスに気づいて頭を下げる。
彼女は労うように微笑んで軽く手を上げた。王族は使用人の挨拶になど応じなくてよい立場なのだが、彼女は子供の頃から誰に対しても気さくだ。
しかも、
「ふう、もうお腹いっぱい。今朝は食べ過ぎちゃった」
などと、じつに砕けた口調で侍女に話しかける。沈黙していると少々近寄りがたいほどの気品があるのに、おどけると別人のように雰囲気が柔らかくなった。
侍女たちはもう慣れっこになっているものの、彼女の気取りのなさはしばしば周囲の人間を戸惑わせるほどだった。
今朝リリンスは父王とともに朝食を摂り、その帰りだった。
特別なことがない限り食事は各々で食べることが多かったのだが、今日は父に訊きたいことがあって同席したのだ。多忙な父を捕まえようと思ったら、メシ時を狙うしかない。
しかし――質問に対する父の答えに、彼女は釈然としていない。いつも明るいその表情が、今は少し沈んで見えた。
命の源ともいえるアルサイ湖の畔に建つ王宮は、新鮮な水と贅沢な日光に育てられた緑の茂る中庭を中心に、回廊で繋がれた平屋建ての宮殿で構成されている。建物の数は五十棟を超え、そのどれもに深い青色の彩色が施されていた。開放的な文化を好むこの国に相応しい、明るく美しい装飾である。
その中でひときわ大きく、波のような紋様が描かれた棟は風紋殿と呼ばれ、王宮の最も奥まった部分に位置した。国王の執務と居住のために用いられる、この王宮の要ともいえる場所だ。王女であるリリンスの住まいも、その中にあった。
リリンスらは極めて静かに穏やかに自室へ向かっていたのだが、回廊の分岐点へ差しかかった時、ばたばたとやかましい足音が響いてきた。
歩みを止め、視線を巡らすと、分かれた回廊の奥から二人の女官が走ってきていた。
「姫様ぁ! 姫様、お待ちを!」
女官たちは甲高い声でリリンスを呼び止め、全力疾走で近づいてくる。
その向こうに繋がる棟は、風紋殿と並んで立つ白く瀟洒な宮殿だ。この王宮にあって、極端に立ち入りが制限される特殊な場所――国王の妻たちの居所、後宮である。
女官たちのあまりの慌てぶりに、警戒した侍女のキーエがリリンスの前へ出た。
「何ですかあなた方は? 無礼ですよ」
さすがに険しいキーエの声に、二人は慌てて立ち止まった。小さく縮こまって頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 今姫様のお部屋に伺おうとしていたところで……」
「ここでお会いできて幸運でしたわ! 姫様、お呼び止めした非礼ををお許し下さいませ。畏れ入りますが、これから後宮へお越し頂けませんでしょうか?」
息を切らせつつ懇願する二人の女官に、リリンスは見覚えがあった。国王妾妃の侍女で、確かそれぞれ別々の女についていたはずだ。
ピンとくるものがあって、リリンスは肯いた。
「何か揉め事ね?」
「は……はい」
「分かったわ。案内して」
キーエが苦い顔をしたが、リリンスは気にせずに女官たちの後をついて行った。