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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
29/80

伝えられない答え

 二つ、呼吸を繰り返すだけの間が空いた。煙の匂いを残した空気は、あくまでも明るく静かだ。


「……その気持ちは胸に沈めておけ。リリンスはおまえの伴侶にはなれない。あの子は妹だ、アノルト」


 再び同じ答えを得て、アノルトは両の拳を握りしめた。


「異母兄妹ならば何の問題もないはず! 現に父上と母上も……」

「だからこそだ、馬鹿者」


 セファイドの声に初めて苛立ちが滲んだ。彼は椅子から立ち上がり、大きく取った窓の方へ体を向けた。日除けの麻布を通して、柔らかな日差しが滑り込んでいる。


「おまえとリリンスでは血が濃すぎる。あの子はおまえの異母妹であると同時に、従妹でもあるんだぞ。頭を冷やしてよく考えろ」


 片親の違う兄妹、姉弟同士の婚姻が許されているとはいえ、二代続けての近親婚は普通忌避される。濃すぎる血の交わりは次代の生命力を衰えさせると、この国の人々も経験的に知っているのだ。

 アノルトにその道理が分からぬはずがない――それでもなお、彼は望んだのだ。


「ではリリンスは……やはりアートディアスへ……?」

「おまえには関係のないことだ。いいか、その想いは誰にも気取られるな。リリンスを愛しているのなら、一生口を閉ざし、兄として見守ってやれ」

「リリンスにはもう告げました」


 セファイドは振り返った。生々しい驚愕に表情が強張っている。

 大きく開かれた父の両眼に自分が映るのを見て、アノルトは――なぜか満足した。一矢報いたような気がした。


「昨夜、愛していると告げました。彼女は父上の許可を取ってほしいと、父上の判断に従うと、そう答えました」

「愚かなことを!」


 セファイドは机から離れ、アノルトに歩み寄った。

 父子の身長はほとんど変わらない。にも拘わらず、頭頂を押さえつけらるような圧力を感じて、アノルトは思わず後ずさった。明らかな怒りの気配が彼をたじろがせている。


「兄と慕っている男にそんなことを言われて、リリンスが喜ぶとでも思っているのか!?」

「リリンスを傷付けてしまったのならば……お詫びします。でも後悔はしていません。あの子を別の男に取られて、それを指を咥えて見送るなど、俺には到底できない。この気持ちは許されないことですか?」

「おまえが誰に惚れようと自由だ」


 セファイドはアノルトの肩を掴んだ。激高は一瞬で過ぎ、厳しい眼差しには冷え冷えとした色が宿っていた。


「だが勘違いするなよ。心の内で思うことと行動することはまったく違う。誰を愛そうが憎もうが罪ではないが、行動に移せば、その感情はおまえひとりのものではなくなる」


 至近距離で睨み据えられて、アノルトは何も言い返せなかった。父が怒りに任せて罵倒するのならば反論する覚悟はあった。しかしこのように凄然と語りかけられると、すべての抵抗が無駄に思えた。目を逸らさないでいることに、たいへんな気力を使った。

 幼い頃から刷り込まれた父親の絶対権力――それは暴発寸前の情熱を力尽くで捻じ伏せ、彼を動けなくさせた。

 唇を震わせるアノルトの頭髪を、セファイドは乱暴に掻き回した。頭を撫でるように、または小突くように。


「無防備におまえたちを近付けすぎた俺にも責任がある。が、何度言われようとリリンスはやれない。ほとぼりが冷めるまであの子には会うな。分かったな?」


 三度目の、確たる峻拒だった。

 父はいつだって正しい。父の判断に誤りはない――アノルトは幾多の言葉を飲み込み、項垂れるしかなかった。





 国王の決裁待ち書類の入った文箱を抱えて、ナタレは風紋殿の廊下を歩いていた。同僚数人と一緒に国王の執務室へ向かう途中である。


 今日、国王はユージュ神官長を招いていて、午後一番で面会した。国王と神官長の会談の席には侍従も衛兵も立ち入れない場合が多く、今回もその例に漏れなかった。彼らは神官長が風紋殿を後にしたのを確認して、ようやく執務室へ書類を運び始めたのだった。ここにいない侍従は、同じく待機している役人たちに午後の業務開始を告げて回っている。

 しかし、仕事の流れを阻害されて愚痴を零す者はいなかった。

 中央神殿の神官といえば、アルハ神の信託を遺漏なく読み取る能力をもち、国王に的確な助言を与える一族である。王都を潤す水路の設計や、農作物の改良や、火薬を使った武器の製造にまで彼らは係わっているのだという。その長たるユージュは、王都の祭事の統括者として人々の尊敬を集めていた。年齢にそぐわぬ落ち着きと凍てつくような知性を感じさせ、敬われながらも恐れられている、というのが正しいかもしれない。


「今この時期に陛下が神官長と密談をなさる目的は、やっぱりあれだよな」


 侍従の一人が声を潜めてそう言うと、他の一人が肯いた。


「王太子が決定したんだろう。最終的に承認するのは神殿だから、根回しだよ」

「当然アノルト殿下なんだろうけど、殿下はしばらく南部へ帰れなくなるんじゃないか」

「そうだよなあ、公表されれば各方面から謁見希望者が押し寄せるだろうし……総督職には代行を立てないと回らないかもな」

「俺たちも早めに挨拶に行っておくか。ナタレも上手くやれよ、故郷のためにもなるんだから」


 水を向けられたナタレは無言である。聞いているのかいないのか、俯いたまま唇を引き結んでいる。その両目は少し充血しているようだった。

 話しかけた侍従は彼の横顔を見て、それから小さな息をついた。今朝から彼はずっとこんな調子なのだ。


 昨夜、ナタレはほとんど眠れなかった。礼拝堂で目撃した光景、耳にした言葉が何度も何度も頭の中に蘇ってきて、それらは凶器のように彼の精神を打ちのめした。

 あの時礼拝堂へ駆けつけてよかった、とは思う。もし自分が踏み込んでいなかったら取り返しのつかないことになっていた。アノルトの行為は、ナタレにとっては完全に常軌を逸したものだった。

 とはいえ、リリンスの受けた衝撃を考えると、ナタレは居ても立ってもいられない気分になるのだった。

 昨夜何も言葉を掛けられぬまま去ってしまった自分に、怒りが湧いて仕方がない。恐怖に慄きながら必死に耐えていた彼女を、力いっぱい支えてやるべきだった――二年前、彼女が自分にそうしてくれたように。


「……馬鹿、止まれっ」


 小さく鋭く命じられ、物思いに耽っていたナタレは顔を上げた。

 広い廊下の中庭側、距離にして大股で五歩ほど先にアノルトがいた。

 同僚の侍従たちはナタレのかなり後方で立ち止まっている。ナタレだけが彼の接近に気付かずにそのまま歩き続けていたらしく、制止を命じた先輩侍従が蒼い顔をしていた。

 第一王子を無視してその横を通り抜けるなど、王宮においては許されない振る舞いだ。ナタレは足を止め、だが頭を下げるでもなくアノルトを見据えた。

 アノルトもまた立ち止まり、距離を保ったままナタレを見返した。品よく整った面差しは血色が悪く、どことなく黒ずんでいた。疲労のせいなのかもしれない。


 この先には国王の執務室がある。リリンスとの結婚を国王は認めなかったのだ――明らかに不機嫌な彼の様子からナタレはそう直感した。安堵と、その反動のような憎しみが胸の中で波打った。

 好きになるのは仕方がない。だがリリンスの信頼を裏切り、自らの欲望のままに彼女を踏み躙ろうとした行為は絶対に許せなかった。


 ――同じことをしたいと思っているくせに、だと? ふざけるな!


 中庭からの光と風に溢れた廊下に、冷え冷えとした重苦しい空気が満ちた。どんな明るい日差しでも照らせないほど深い闇を感じさせるのに、その底には凶暴に煮え滾る熱の塊が流れている。


「……その目が気に食わない。いつかのように引き倒されたいか」

「お好きなように――できるものなら」


 二人は同時に一歩踏み出した。嫉妬と蔑みと怒りと憎しみと――昨夜の礼拝堂の続きが、今ここで再現されようとしていた。


 風が、滑らかな音を運んだ。

 深い響きのその音は、どこか懐かしい旋律をなぞった。歌うように、語るように、王子たちの殺気を鎮めるように。

 艶やかに美しい音の正体を、王宮の人間ならば誰でも知っている。

 知ってはいるのに、ナタレとアノルトは思わず聴き入った。爆発寸前の感情が飲み込まれるほど、それは魔的な蠱惑に満ちていた。


「申し訳ございません! とんだご無礼を!」


 次の瞬間、ナタレは駆け寄ってきた同僚たちに両腕を掴まれ、無理やり頭を下げさせられていた。


「こいつ、今朝から具合が悪くて様子がおかしいのです。すぐに帰して休ませます!」

「どうかお許し下さい、殿下」


 ぎゅうぎゅうと頭を押さえつけられ、ナタレは身動きが取れなかった。アノルトの足先だけが見えたが、それが近付いてくることはなかった。


「その礼儀知らずをしつけ直せ」


 とだけ憎々しげに吐き捨てるのが聞こえて、足音と気配が遠ざかっていった。彼にしても、冷静になってみれば、こんな場所で国王侍従と悶着を起こすのはまずいと分かったのだ。


 第一王子が立ち去った後も、侍従たちはずいぶん長い間頭を下げていて、その間ずっとナタレは羽交い絞めにされていた。


「まったく何を考えてるんだ!? 命がいらないのか?」


 ようやくナタレを解放すると、先輩にあたる侍従は厳しい口調で叱責した。


「殿下と何があったのかは知らないが、次期国王とは上手くやれと今言ったばかりだろう。君の故郷にも累が及ぶんだぞ」

「はい……」

「もう今日はいいから帰れ。エンバス殿には僕から伝えておく」


 彼はナタレから文箱を引ったくると、強引にその背中を押しやった。

 同僚たちの困惑した、だが気遣わしげな視線を感じながら、ナタレは重い足取りで廊下を引き返した。





 美しい旋律は、中庭から流れてきていた。

 ナタレが思った通り、中庭にはサリエルがいた。白皙の楽師は花柘榴の木の下に腰を下ろし、膝に乗せたヴィオルをゆったりと奏でている。大きな音量ではないのに、どうしてあれほどはっきりと耳に届いたのかナタレは不思議だった。

 植栽の濃い緑と、灰青色の衣服を身に纏った彼の姿は、見蕩れるほど完璧に調和していた。


「さっきはありがとう」


 ナタレが声をかけると、サリエルは驚いたふうもなく顔を上げた。演奏が止まってしまったことを、ナタレは少し残念に思った。


「何が?」


 訊かれて、戸惑う。考えてみれば、ここにいるサリエルに廊下での出来事が見えていたはずがない。それなのに、諍いを止めたのは彼だと何の疑問もなく思い込んでいた。


「仕事は?」

「ああ……今日は休みになったんだ。サリエルこそ、暇そうにしてるなんて珍しいね」


 ナタレはサリエルの隣に座った。芝の上に足を投げ出すと、日光が心地よく身体を解してゆく。彼はほっとすると同時に、自分の中の憎しみがその程度のものだったのかと情けなくなった。リリンスは今頃、決して癒されない痛みに震えているはずなのに。

 サリエルはナタレの複雑な表情をちらりと見やって、再び弦に弓を滑らせた。


「姫様はご気分が優れないそうだよ。神官長との面会も取りやめになったとか」

「そう……」

「お見舞いには行かないのか?」

「俺が行っても、別に何も……」


 心中を見透かされた気がして、ナタレは胸を押さえた。いくら情報通の楽師でも、昨夜の出来事を知っているはずがない。

 サリエルはそよ風に似た静かな曲を奏でながら、小さく笑った。


「何もできないと、本当にそう思っているのかい?」

「どういう意味?」

「姫様は君と話がしたかった。君も姫様に伝えたいことがあるだろう」

「俺は……」


 ナタレは口籠る。ヴィオルの音色に誘われたのか、小鳥が賑やかに囀った。目に染みる緑光の中、人の気配はなかった。


 昨夜、リリンスの計画がアノルトに漏れることなく、自分と彼女が会えていたら――あえて考えないようにしていたことを、彼は想像した。

 リリンスが伝えたかった言葉、それに対する答え。この国を出て行く前に、確かめたかった気持ち。


「……俺はリリンス様が好きだ」


 声は震えていたがはっきりしていて、驚きすら混じっていた。長年悩み続けた難問の解答を、ひょんな所で見付けてしまったような。

 彼は自嘲気味の笑みを浮かべて、芝生をじっと見詰めた。


「姫様はいつだって太陽みたいに明るくてお優しくて、それでいて強くて……俺の弱い所を全部笑い飛ばしてくれた。この場所で、彼女の存在がどれだけ救いになったか分からない。傍にいると無条件に幸せな気分になれるんだ」

「そうだね。見ていてよく分かるよ」

「えっ……」


 思わず顔を上げて振り向くナタレを、サリエルは優しい眼差しで迎えた。自分でも認めていなかった想いをとっくに読まれていたのかと、ナタレは顔を赤くする。


「で、でも、そんな気持ちは口に出しちゃいけないって分かってる。姫様はオドナスの王女で、俺は王権すら持たない属国の……」

「君の気持ちが姫様を苦しめる? 姫様だって君のことを……」

「だったらなおさらだ!」


 彼は眉根を寄せ、短い前髪のかかる額に手をあてがった。生い茂った花柘榴の葉が、苦悩の表情に陰を落としている。


「彼女は……オドナスを背負って他国へ嫁がれる方だ。きっとそこでもみんなに愛されて大事にされるだろう。大国の皇后として幸せな一生を送られるはずだ。だから……俺なんかに気持ちを残してはいけないんだ」


 ともに過ごした時間が、彼女の中に綺麗な思い出として残るのならば、それだけで彼は十分満足だった。例えそれが少女時代の美化された記憶になり、次第に薄まって現実に飲み込まれる日が来ても構わないと思っていた。

 もしもリリンスを好きだと言ってしまって、リリンスもそれに応えたら――ナタレは空恐ろしい気がした。

 あまりの喜びに己を失って、自分が何をするか分からない。それこそ、昨夜のアノルトのように。


 ――同じことをしたいと思っているくせに。


 あの時あれほど激高してアノルトに殺意すら覚えたのは、リリンスの苦しみを慮ったからだけではないのかもしれない。一線を踏み越えリリンスを腕に抱いた彼に嫉妬したのだと思えて、ナタレは自己嫌悪に陥った。

 こういう思考に辿り着くと分かっていたから、自らの心を覗き込むのを避けていたのだ。


「姫様はオドナスを出て幸せになる。それで、いいんだよ」


 昂ぶった血流を深呼吸で鎮めて、ナタレは呟いた。もうこれ以上、思い悩みたくはなかった。

 紅潮した頬が徐々に蒼褪めてゆく少年の横顔から視線を外して、サリエルは演奏を続けた。穏やかな旋律なのに、和音の響きはどこか物悲しい。


「君が黙っていても、なかったことにはできないと思うよ、ナタレ。少なくとも姫様には、ご自分の心と向き合うお覚悟がある」


 しばらくの沈黙の後、サリエルはヴィオルの音色に乗せるように言った。恐ろしく整った面貌はいつも通り静かで、揶揄や非難の気配は微塵もない。その静謐さは、かえってナタレを揺さぶる。


「それに……姫様が本当にこの国を出ていくかどうかは、まだ分からないしね」


 そう付け加えて、彼は白い唇に笑みを浮かべた。


「分からないって……どういう意味だ?」


 ナタレは身を乗り出したが、サリエルはそれ以上何も語らず、緩やかに弦を奏で続けた。

 こうなると楽師は決して口を割らない。彼は他者から話を引き出すのが巧みなぶん、肝心な秘密は洩らさない。

 ナタレ大きく息を吐いて、片膝を折った。別の質問になら答えてくれる気がして、


「サリエルには好きな人はいないのか? つまり……愛してる人」


 自分で口にしておいて、愛、という言葉にナタレは恥ずかしくなった。額に汗が滲む。

 演奏が止まった。

 サリエルの穏やかな表情に変化はない。返事もまた、さり気なかった。


「いるよ」


 淡々とした答えに戸惑うナタレの前で、彼は続けた。


「私にすべてを与えてくれた、とても大事な人だ。私にとってその人は、世界の全部と同じと言ってもいい。愛という言葉ではとても表現できないよ」

「その人は、今どこに?」

「私の故郷に、ずっといる。けれど、その人との約束を果たすまで私は帰れないんだ」


 その約束をナタレは訊いてみたかったが、サリエルは答えないと思った。蒼天を見上げる横顔があまりにも美しくて、そして寂しげで、彼は魂ごと吸い込まれる感覚を覚えた。

 遥か遠く離れながら、これほどまでに強い想いを語れる相手がいることを、ナタレは羨ましく感じた。

 その羨望の念がサリエル自身に向けられたものなのか、あるいはその相手に対するものなのか、自分でも測り兼ねた。

ノロケる楽師殿。ナタレの決死の告白が霞む……。

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