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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
23/80

待ち人

 あの時も、真っ先に彼女を見付けたのは兄だった。

 肩を揺さぶられて眠りから覚めた幼いリリンスの前に、安堵の笑みを浮かべたアノルトの顔があった。


「こんな所で寝ていると風邪を引くよ」


 王女が自室から急にいなくなったと聞き、侍女たちとともに王宮中を探し回っていたアノルトは、怒りや非難などおくびにも出さずに優しく声をかけた。リリンスは瞼を擦る。頬にはっきりと涙の跡が残っていた。

 夕映えの時刻を迎えた中庭の東屋を、涼やかな風が吹き抜ける。屋根から垂れ下がった満開の白いクレマチスが、甘い芳香を漂わせて揺れる。心地よい気温ではあったが、敷物の一枚も敷かずに木製の長椅子で眠っていては、確かに鼻風邪を引きそうだった。

 アノルトはその場に膝をついて、リリンスの華奢な手を握り締めた。すでに剣を扱う彼の掌は硬い皮膚に覆われていた。


「ほら、指が冷たいじゃないか。どうしたんだ? 誰かに苛められたのかい?」


 リリンスは慌てて首を振る。本当は、一緒にスンルー語の勉強をしていた二人の異母姉たちに、リリンスったらこんな簡単な単語も知らないのね、今まで誰も教えてくれなかったのね、オドナス語はちゃんと読み書きできるのかしら、などと棘のある言葉を投げつけられ、いたたまれなくなってその場を逃げ出してしまったのだ。しかしそれを打ち明けるのは告げ口のようで何だか嫌だった。


 市中で暮らしていた頃のリリンスなら、友達の意地悪には怯まずに立ち向かっていった。下町育ちだったから子供同士の取っ組み合いは日常茶飯事で、その代わり喧嘩の後はけろりとして笑い合うのが普通だった。


 だがここでは――リリンスは自らの肩を抱き締めるような仕草をする。彼女に暴力を振るう人間は誰もいない。みな礼儀正しく上品で、その慇懃な態度のまま、恐ろしく冷たい言葉を吐く。

 国王の庶子である彼女を直接攻撃はしなくとも、快く思わない者たちは多かった。周囲から向けられるうっすらとした蔑みを、リリンスは敏感に感じ取っていた。


「リリンス?」


 気遣わしげに首を傾げるアノルトに、彼女は項垂れたまま呟いた。


「……私はリラよ。リリンスなんかじゃない」


 声は弱々しく喉に貼りついて、両目からぼろぼろと涙が零れた。


「ここはもう嫌……家に帰りたい……お母さんに会いたい……!」


 愛らしい顔をくしゃくしゃにしてそう繰り返し、肩を震わせる。母を亡くしてからいったいどれほどの涙を流しただろうか。

 アノルトは当惑して、泣きじゃくる妹を前にしばし途方に暮れたが、やがて彼女の隣に腰を下ろした。妹を守るのは長兄の務めだ――父のその言葉を思い出しながら。


「もう泣くな。何も心配しなくていいよ」


 握ったままの手はやはり冷たい。そこに体温と血流が戻るように、彼は一生懸命に皮膚を擦った。


「おまえのことは兄様が守ってやる。おまえを傷付けたり泣かせたりする奴は、俺がみんなやっつけてやる。な? 俺がずっと傍にいるから」

「ずっと……?」

「そう、ずっとだ」


 アノルトが微笑むと、リリンスはさらに顔を歪ませて、彼の胸にしがみついてきた。父に似た優しい兄の温もりに安心したのか、嗚咽を隠すことなく泣き続ける。

 アノルトもまた、妹の体温に得も言われぬ幸福感を覚えていた。何と温かく柔らかく愛おしい存在なのか――この子を傷付ける奴は許さない。自分が守りたい。その役目を誰にも譲りたくない。


「リリンス、よく聞いて」


 彼はリリンスの顔を覗き込み、涙に濡れた頬を拭った。リリンスは鼻を啜り上げながら、キラキラした大きな瞳で兄を見返す。


「俺は将来、父上の後を継ぐ。オドナスの国王になるんだ。父上と同じように、いやもっともっとこの国をよくしたいと思う」

「兄様が王様になるの?」

「そう。リリンスもそれを手伝ってくれ。力を併せて一緒にこの国を治めよう。そうしたらもう誰もおまえを苛めないよ。みんなおまえの言うことを聞くようになる」

「一緒に……ずっと一緒に?」

「うん、だからたくさん勉強して、立派な王女になるんだよ。兄様も頑張るからおまえも頑張れ」


 力強く頭を撫でられて、リリンスはようやく笑顔になった。長兄の立場や後継者としての重責など理解していなかったが、この頼もしい少年が自分の傍にいてくれるのだと信じて、少しだけ気持ちが和らいだ。

 西日は赤みを増して、兄妹の顔を柔らかに照らしていた。クレマチスの白い花も今は同じ色に染まって見える。


「さあ、もう帰ろう。エムゼが怒っているよ」

「え……どうしよう」

「兄様も一緒に謝ってやるから」


 とりあえずは目先の危機――厳格な総女官長のお仕置きに怯えるリリンスのために、アノルトも懸命に言い訳を考え始めた。





 八日ぶりに王宮に出仕したナタレは、休んでいた間自分の業務を肩代わりしてくれていた同僚たちに礼を言って回り、彼らからの引き継ぎを受けて一日を過ごした。久々の仕事で勘が戻るまで時間がかかるかと思ったが、意外にすんなりと日常業務に戻れて違和感は感じなかった。

 ただその日一日、どこへ行っても誰に会っても、街中での乱闘について尋ねられるのには閉口した。

 第三王女に王都を引き回された事実はすでに知れ渡ってしまっている。しかも何がどう伝わってそうなったのか――王女に狼藉を働こうとした暴漢十数人を、ナタレ一人で斬り捨てたことになっていた。


「全員一撃で倒したらしいな。短剣で頸動脈をこう、スパッと」

「いや、数人分の手やら足やらがバラバラになってたって聞いたが」

「路地裏が血の海だったってな」


 王宮の役人や貴族や同僚たちまで、明らかに興味本位でそんなふうな質問を投げかけてくる。その度にナタレは丁寧に誤解を解かねばならなかった。


「何だ、じゃあ結局一人も殺してないのか」


 先輩にあたる国王侍従は心底つまらなさそうに言う。名門貴族の子息のはずだが、若いだけに取り澄ましたところがない。同じ部屋で書類を仕分けていた他の侍従たちも、同様に大きく肯いた。


「こ、殺してたら今頃ここにいませんよ」

「正当防衛だろう、そんなもの。王女をお守りしたんだ。胸を張れよ」


 どん、と背中を叩かれ、ナタレは渋い表情をした。あの日の騒ぎについては反省するばかりなので、褒められると酷く面映ゆい。


 彼と同僚たちとの関係は、最初からこのように良好だったわけではない。

 属国から人質同然に送られてきた王子が厚遇されたことは、当然のごとく反発を招いた。国王侍従の職は、貴族の子弟たちにとって将来重職に就くための第一歩である。そんな貴重な席を砂漠の果ての田舎者に奪われるなど、彼らの自尊心が許さなかったのだ。直接的な暴力はなかったにせよ、ナタレは何度も嫌がらせに近い理不尽な仕打ちを受けていた。そして彼ら以上に自尊心の高いナタレは、泣き言ひとつ言わず果敢に耐えていた。

 周囲の態度が変わったのは二年前の一件があってからだ。

 故郷の反乱を収め、国王に話を通し、王権と引き換えに同胞を守ったナタレに、同年代の侍従たちは感嘆したのだ。自分たちに同じことができるだろうかと――何より従軍経験のない彼らにとって、将軍の支援があったとはいえ実戦を経験したナタレは尊敬の対象だった。


「そういえば、王女と君を襲った窃盗団の連中、恩赦で減刑になるそうだよ」


 侍従の一人が今日仕入れたばかりの情報を教えた。


「本来なら死刑になるところを、王女が陛下に直訴なさったんだってさ。十年そこそこの強制労働で済むんじゃないかな」

「そうなんですか……」


 としかナタレには言えなかった。彼にとっては、連中が死罪になろうと何ら心は痛まない。ただリリンスは違うだろうと思え、彼女が望んだのならばそれでいいと納得できた。 

 結局のところ姫様は情け深い――ナタレは不思議と嬉しくなった。我儘でお喋りで闊達な彼女の本質は、あくまでも優しく温かい。それは彼がいちばんよく知っていた。

 きっと彼女ならどこででも愛される。遠い国へ行っても、今と同じくたくさんの人間を惹きつけるだろう。夫となる相手だって例外ではない。

 リリンスは必ず幸福になるはずだという確信はナタレを慰撫し、そしてまた少しだけ寂しい気持ちにもさせるのだった。


 数日間続いた予算会議の事後処理のため、幸いにもその日は多忙だった。ナタレは業務に追われて考え込む暇もなく、夜勤の同僚に申し送りを終えたのは、いつもより遅い時刻だった。


 侍従長に挨拶をして詰所を出たナタレは、息を吐いて大きく伸びをした。回廊へ続く廊下は夜の闇に包まれているが、登りかけた満月のおかげで薄明るい。

 フツから飲みに行こうと誘われている彼は、さてどうしたものかと考える。酒自体は苦手だが酒場の空気は嫌いではなかった。ただ、あの悪友はその後必ず遊郭に引っ張って行こうとするので、真面目な彼は少々辟易していた。


「ナタレ様! お待ちしておりました……!」


 立ち止まって逡巡する彼の前に、廊下の柱の後ろから小柄な人影が飛び出してきた。

 まだ幼さの残った顔立ちに、落ち着きなく動く細い身体――小鹿のような雰囲気の少女だった。ナタレはどこかで彼女を見た覚えがあったが、誰かは思い出せなかった。


「ええと、すいません、あなたは……?」

「いきなりごめんなさい……ナタレ様にお伝えしたいことがあって……私、姫様を裏切ってしまったんです!」


 少女は薄明かりの下でも分かるほど頬を赤くして、今にも泣き出しそうに表情を歪めた。





 涼しい外の空気とともに礼拝堂へ入って来た人物は、リリンスの姿にすぐ気付いたらしく、祭壇に向かって真っ直ぐに歩いてきた。

 リリンスは立ち上がり、目を細める。本当に来てくれたと思うと嬉しくて堪らなかった。自分の心臓の音が外に聞こえてしまいそうなほど大きく感じた。

 だがその人物の背格好は、彼女の待っていた少年のそれよりも大きいようだった。白と青との陰影の世界で顔形がはっきりと確認できたのは、ずいぶん近付いてからだった。


「兄……様?」

「こんな所で何をしているんだ?」


 蝋燭の脆弱な灯りの中で、アノルトは穏やかな表情を浮かべていた。彫像のようにも見える。

 リリンスは混乱した。兄がここへ来るとは考えてもみなかったからだ。


「ちょっと……独りになりたくて……兄様こそどうして?」

「俺もだよ。夜の礼拝堂には誰も来ないからね」


 軽く肩を竦めて周囲を見回すアノルトの態度には、責めたり訝しんだりする様子は微塵もない。ナタレを呼び出したことが伝わってしまったのか、それとも本当に偶然か、リリンスには判断がつきかねた。

 どちらにせよ、もしこの後ナタレがここに来てしまったら、とリリンスは蒼褪めた。自分との密会が疑われて、それこそ兄に何をされるか――また殺すの何のと騒ぎになるかもしれない。


「予算会議も終わったし、兄様はもうすぐドローブへ戻るのよね。寂しくなるわ!」


 彼女はわざと大きな声で言った。ナタレが近くまで来ているのならば、気付いて立ち去ってくれないかと願う。さっきまでとは正反対のことを、彼女は切実に祈った。

 対照的に、アノルトは落ち着いていた。


「いや……もうしばらく王都に留まることになると思う。別の会合があるんだ」

「別の会合……王太子の指名ね?」

「おまえも知っていたか。これだけ王族が集まって来れば分かるよな」

「兄様が指名されるんでしょう?」


 答えずに、彼はリリンスと並んで祭壇に凭れた。

 後継者に選ばれることが確実視されている長兄は、決して浮かれている様子はなかった。緊張しているのとも違う。何かを押し殺して平静を保っているように、リリンスには感じられた。いつもとは少しばかり異なったアノルトの雰囲気に、リリンスは胸騒ぎを覚える。


「何か……あったの?」

「リリンス、昔話したことを覚えているかい?」


 リリンスの声に被せるように、アノルトはぽつりと言った。


「おまえがここに来て間もない頃、中庭の東屋で話したことだ。俺が将来父上の跡を継いだら……」

「覚えてるわ。クレマチスの花がとっても綺麗な頃だったね。私が泣いちゃって……兄様が慰めてくれて……一緒にこの国を治めようって言ってくれた」


 胸に湧いたかすかな波を打ち消そうと、リリンスは務めて明るく答えた。

 甘い花の香りと、夕映えの鮮やかな色彩、泣き疲れた後の気怠さ――幼い自分を勇気づけた兄の言葉は今でも記憶に刻まれている。


「兄様は本当にお父様の跡を継ぐのね。私はオドナスを出なくちゃいけないけれど……そこで頑張るわ。どこにいても兄様を応援してます」


 彼女の本心だった。これまで支えてくれた彼にできる恩返しは、アートディアス皇太子妃として両国の和平に尽力することしかない。遠く離れていても兄妹の絆は続くのだと、そう信じていた。


 幼い頃から少しも変わらないリリンスの眼差しを受けて――アノルトは目を逸らした。穏やかに凪いだ表情がにわかに崩れ、すっきりと整った眉の間に深い皺が刻み込まれている。


「本気で言っているのか、リリンス?」

「え?」

「本気で、アートディアスへなど嫁に行くつもりなのか?」


 明らかな苛立ちの籠った声に、リリンスは当惑する。その両肩をアノルトは掴んだ。


「俺は、あの時の言葉は約束だと思っている。実現させたい――おまえと一緒に」

「兄様……?」

「おまえを守れるのは俺だけだ」


 強い力で引き寄せられて、リリンスはよろめいた。転がり込むようにアノルトの胸にぶつかる。二本の腕が彼女の華奢な背中を抱き込んだ。


「兄様? どうしたの? 苦しい……」


 リリンスは息が詰まりそうになって、懸命に顔を上げる。青い闇を背景に、揺らめく蝋燭の炎に照らし出された兄の顔は、彼女が初めて目にする表情を浮かべていた。激しい痛みに耐えるかのような、それは酷く歪なものだった。


 兄に感じた胸騒ぎはこれを隠していたからか――リリンスがそう気付く前に、アノルトは身を屈めて、彼女の唇に自分のそれを重ねた。

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