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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第二章 動き出す世界
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手紙の行方

 王女の浴室は広く豪奢なものだった。

 面積は居間の三分の一ほどで、その床と壁には、一枚一枚に模様の入った薄紅色のタイルが貼られている。中央に一人用にしてはゆったりとした陶器の浴槽が設置され、天井から吊り下げられた数基の燭台の灯りに照らされていた。壁に作り付けの棚には色とりどりの硝子瓶が並べられて、その中身は薔薇や茉莉花の香油だった。


 砂漠の都市でありながらこうやって毎日沐浴ができるのは、ひとえにアルサイ湖の豊富な水量のおかげだった。浴槽に張られた温かい湯の中で、リリンスは大きく伸びをする。

 細い首と華奢な手足、小ぶりな胸の膨らみ、引き締まった腰と丸みを帯びた臀部――柔らかな曲線で造形された肉体は、女のなまめかしさを備えるにはまだ若いが、内側から生命力が溢れ出すように瑞々しい。きめ細かく張りのある肌が、温められて薄く染まっていた。


「もう少しお湯を足しますね」


 キーエが声をかけて、手桶から熱い湯を浴槽に注いだ。他にも二人侍女が付いていて、リリンスの髪を洗ったり爪を磨いたり、かいがいしく世話をしている。普段リリンスは自分のことは自分でやりたがるのだが、今夜は何だか疲れてしまって、彼女らにすっかり任せていた。


 サリエルとのやり取りを思いだすと、彼女は今さらながら恥ずかしくて堪らなかった。あんな馬鹿なことを口走ってしまって、穴があったら入りたい気分だ。我ながらトチ狂っていたとしか思えない。

 リリンスは掌で湯を掬って何度も顔にかけた。


 でも、おかげで気が付いた。迷いの晴れない本当の理由。この国を出る前に想いを告げるべき人は――。


「姫様、今日はどの香油になさいますか?」

「あ、ええと、カミツレにする」

「かしこまりました。どうぞ」


 浴槽の隣に木製の台があった。人ひとりが寝そべるのにちょうどいい大きさのそれに、キーエが木綿の敷物を広げて待っている。リリンスは立ち上がって、侍女の差し出した浴布で身体を拭いながら浴槽から出た。

 彼女が裸のまま台の上で俯せになると、キーエは棚から黄色い硝子瓶を取って、香油を両手に垂らす。それから慣れた手つきで王女の背中を揉みほぐし始めた。


「うう、気持ちいいー」


 呻くような声を上げるリリンスに、古株の侍女は苦笑する。


「姫様はとてもお綺麗ですわ――お顔もお身体も。どこへ出しても恥ずかしくない女性です。自信を持って下さいませ」

「ど、どうしたの急に?」

「ご結婚を不安に思われているようでしたので。大丈夫、私もお供しますから、何も心配はいりませんよ」


 リリンスは顔を捻じ曲げてキーエを見た。


「一緒にアートディアスに来てくれるの?」

「当然です。筆頭女官の私が輿入れに同行しなくて、誰がするというんです?」

「でも……キーエだってオドナスを出るのは寂しいでしょ? こっちに好きな人いないの? 結婚だってしなくちゃいけないし……」

「相手なら向こうで見付けますわ。金髪碧眼の殿方なんて素敵じゃありませんか」


 キーエはリリンスの腿から膝にかけての筋をぐっと指で押した。血の巡りがよくなり新陳代謝が促進される、入浴後の大事な手入れである。


「キーエ……ありがとうね」

「その代わり、ひとつだけ約束して下さいませ」


 彼女の声に力が籠った。同時に手の動きも強くなり、リリンスは悲鳴を上げた。


「あいたたたた……ちょ、痛いって」

「もう二度と、私に隠し事をしないこと。私はいつだって姫様の味方です。姫様をお助けします。ですから、キーエにだけはどんなことでも話して下さい」


 黙って王宮を抜け出したばかりか、楽師にあのような爆弾発言をしたことに臍を曲げているのか、キーエの手つきはいつもより乱暴だった。肉やら筋やらツボやらをぐいぐいと押され、リリンスは目を白黒させた。


「わ、分かった! 分かったわよ。キーエには全部話す!」

「本当ですか?」

「本当よ。さっそく相談があるの」


 首筋を押さえて起き上ったリリンスは、輝くような裸を隠そうともせず、腕をぐるぐると回した。あちこち痛かったが、驚くほど身体が軽かった。確かに血行はよくなったらしい。カミツレの甘い香りが肌に染み込んでいた。

 他の侍女が手桶に湯を汲んできて、リリンスの身体から香油を洗い流す。柔らかい浴布に包まれながら、彼女はためらいがちにキーエを手招いた。


「ええとね……」


 こそこそと耳打ちをされ、彼女の言葉を聞いたキーエは、丸い顔に優しげな笑みを浮かべた。





 ティンニーは胸に白い封筒を抱えて、足早に回廊を歩いていた。

 彼女が主人から預かった大切なものだった。中には手紙が入っていて、赤い封蝋で丁寧に封がされていた。


 まだ夜の浅い時刻だ。中庭に生い茂った植栽のせいで視界に入って来ないが、地平の低い位置には月が顔を出しているはずだった。今夜は満月である。

 一日の業務を終え、王宮に勤める役人たちはそれぞれの職場から退出して帰途についている。昼間に比べて夜間の人口は少なくなるが、それでも多くの勤め人たちが回廊を行き交っていた。

 咎められるような心配はなくとも、ティンニーは何となく彼らから封筒を隠しつつ、目的地へ急いだ。


 手紙の届け先は、国王侍従のナタレであった。


「必ず本人に渡してね」


 ティンニーの仕える第三王女リリンスは、そう念を押して手紙を彼女に託した。昨夜浴室でキーエと何やら相談をして、ああでもないこうでもないと熱心にしたためていたものだ。

 ナタレは出勤停止が明けて、今日から出仕している。

 今夜は泊まり勤務ではないことはすでに確認済みで、帰るところを狙って手紙を渡すようにと言いつけられた。顔の割れた他の侍女では目立ってしまうため、いちばん新入りのティンニーが使者に選ばれたのだ。


 ちゃんと会えるかしら――ティンニーは緊張して封筒を胸に押し当てた。


 ナタレは今頃、国王侍従の詰所にいるはずだった。夜勤の同僚に引き継ぎ事項の申し送りをしてから退勤することになっている。部屋の前で待っていれば捕まえられるだろう。詰所は風紋殿の端にあって、ティンニーも場所は知っていた。


 人の流れと逆方向へすたすたと進んでゆく。顔を見知った者には出会わず、だからといって彼女を気にするような者もいなかった。


 この手紙は、たぶんナタレに宛てた王女の恋文だと、彼女も感付いていた。

 待ち合わせ場所がどうとか、キーエとそんな会話をしているのが耳に入った。どこかに呼び出すつもりなのかもしれないと思うと、彼女はますます緊張する。

 王女はあの少年に恋をしている。口には出さないが侍女全員が知っていた。結婚話が本格的になる前に、せめて想いを伝えさせてあげたいとティンニーも思う。でも――。


 数日前の、アノルトとキーエのやり取りを思いだして、ティンニーは足を止めた。

 今後このような不祥事があれば、いくら長く仕えた君とはいえ、他の侍女ともども王宮を去らねばならなくなる――リリンスの兄は穏やかに、だが毅然とそう宣告していた。もちろん彼に王宮の女官の人事権があるわけではない。だがまた王女が何かやらかせば、侍女たちは監督不行き届きを問われて只では済まないだろう。


 ティンニーは二ヶ月前に王宮に入ったばかりで、リリンスと同じ十六歳である。

 王女付きの侍女はみな比較的若く、職場の雰囲気はよかった。何より主人である王女が明るい。下っ端のティンニーにも気さくに言葉をかけ、朗らかによく笑う。不遜だと分かってはいても、彼女は友達に抱くような親しみをリリンスに感じてしまっていた。他国への輿入れに同行するか、と訊かれると困ってしまうが、今の仕事はとても楽しかった。


 彼女は立ち止まったまましばし逡巡する。風紋殿の奥から出てくる役人や女官たちが訝しむほど忙しなく、きょろきょろと視線を巡らせた。

 この仕事を追われたくない。姫様はとても好きだけど、好きだからこそ、我儘を言わずにアートディアスへ嫁いでほしい。だって王女なんだから。

 ようやく意を決すると、若い侍女は封筒を強く抱えて駆け出した。行こうとしていた侍従の詰所ではなく、別の方向へ向かってである。





 夜の礼拝堂は冷ややかな静寂に包まれていた。

 王宮内にある建造物ではあるが、中央神殿に倣って造られたその建築様式は他の建物に比して明らかに異質である。細かな浮彫の美しい石壁は重厚で、それらに囲まれた堂内は広々としている。十数本の円柱に支えられた天井は非常に高かった。

 そして最も奥まった場所にある祭壇の真上には天窓が開けられ、円く夜空を切り取っていた。満月の夜半には金色に輝くアルハ神の姿が望める。


 今日はその満月。月に一度の礼拝が執り行われ、昼間は大勢の人々が集まった。特に今月は多くの王族が王宮に滞在しているので、いつにも増して人出の多い行事となった。そんな中でもユージュ神官長は相変わらずで、緊張したふうもなく祈祷の言葉を朗誦していたのだが。


 日の暮れた今、日中の人いきれが嘘のように静まり返った礼拝堂に、大きく取った窓から白々と月光が差し込んでいる。座席が片付けられて、滑らかな石床に落ちた柱の影は長く、青い。

 白と青だけで彩られた世界に、たったひとつ点る茜色の灯があった。礼拝堂の最奥、祭壇の前に蝋燭が置かれて、周囲をほんのりと照らしている。

 その傍らに座っているのはリリンスであった。

 祭壇はそこだけ床が一段高くなっており、礼拝堂全体を見渡せるようになっている。彼女はその床に腰掛けて、足をぶらぶらと揺らしていた。


 ナタレは来てくれるだろうか――少し心配だったが、自分でも驚くほど平静だ。腹を括ってしまえば、別に怖くはなかった。

 この前のことを謝って、それから気持ちを伝える。あなたが大好きだと。

 リリンスは首飾りにそっと触れた。その赤い石は蝋燭の光を吸収したかのように深く輝いている。いつもより念入りに梳かした黒い髪も、薄く化粧を施した愛らしい顔も、ささやかだが暖かい炎に照らされていた。


 もうずっと前からリリンスはあの異邦の王子が好きだった。強くてひたむきな眼差しに惹かれていた。

 実質の人質であるナタレは重い鎖のような苦悩と孤独を抱えているはずなのに、劣等感に汚されることがなかった。彼女は彼を心から尊敬し、同時に心配してもいた。もう少し自分を甘やかしてもいいのに――私なら清廉すぎるその心を解してあげられるかもしれないと、そう感じた。

 わざと無理を言ったりからかったり、考えてみればこの二年間、真面目な彼をずいぶん困らせてしまった。けれどそうした時に彼が見せる呆れた表情や照れ笑いに、なぜだか胸がときめいた。優等生の彼が自分だけに素顔を晒してくれるような気がして、嬉しくてたまらなかった。


 とはいえ、想いを告げて何かが変わるなどと期待してはいない。

 自分はアートディアスに嫁ぎ、ナタレは故郷に帰る――その運命は覆らないと、リリンスは諦めに近い思いを抱いていた。ただその前に、自分は確かに恋をしたのだという証がほしいのだ。


 いつか好きな人ができたら胸を張って好きだと言いなさい――かつて母はリリンスにそう言った。

 臆することなく想いは打ち明けられる。でも、その人と幸せになることはとてもできそうにない、と言ったら母はがっかりするだろうか。自分を叱るだろうか。

 リリンスは母の顔を思い出して、それが毎朝鏡の中に見る顔とそっくりなことに気付いて、苦笑いした。


 仕方がないよ、あなたたちの娘に生まれた代償だもの。


 気持ちを聞いてくれればそれでいい。そして願わくば、俺もあなたが好きです、とその一言がもらえれば。

 宝石のように大切な記憶を抱いて、迷わずに自らの道を歩んでいける。


 ふわり、と空気が流れて、蝋燭の炎が揺らめいた。

 リリンスは顔を上げる。礼拝堂の入口から、長い人影が伸びていた。

 胸の高鳴りが期待なのか不安なのか、彼女には分からなかった。





 その夜に起こったことをリリンスが冷静に思い返せるようになったのは、ずいぶん後になってからだ。

 辛かったのか悲しかったのか、それとも腹が立ったのか、彼女はしばらく自らの感情に向き合うことができなかった。できることなら何もなかったことにして、すべて忘れて、心の奥深くへ沈めてしまいたかった。

 しかしその夜を境に彼女の運命は動き出して、否応なしにひとつの方向へと向かっていってしまった。以前のような無知で純粋で幸福な少女には、もう戻れるはずがなかったのだ。


 母親を亡くした時に子供時代が終わったとすれば、あの夜が彼女にとって少女時代の終わりだった。


次話より第三章に入ります。恋愛タグが詐欺にならないよう頑張ります。

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