誘惑
嫁に行きます――父にそう威勢よく言い切ってはみたものの、リリンスは何とも気持ちの悪い胸のモヤモヤを感じていた。
相手はアートディアス帝国の皇太子、オドナス王国の王女と同格かそれ以上であり、文句のつけようがない。将来的には皇后の座が約束されている。そういった意味では、セファイドの娘たちの中でリリンスが一番の出世頭になるだろう。
しかも、
「アートディアス皇太子のファビアン様は、金色の髪と青い目の美男子だという噂ですわよ。お優しくてご聡明で、すでに皇帝の片腕として政務に携わっておいでとか。ご結婚なさったら外交の場にもお姿を現されるんじゃないかしら。そのようなお方をご夫君に持てるなんて、お幸せですわね!」
などと、先日会った妾妃たちは騒ぎ立てていた。
もちろん彼女らが直接彼の国の皇太子を見ているわけがない。又聞きの又聞きの又聞きだ。過分に話が盛られている可能性は高い。リリンスはあまり期待していなかった。
第一、これは国家と国家の結婚であり、皇太子と王女という役割が振られた人間同士であれば個性はどうでもいいのだ。そんなことは百も承知なのだが。
「浮かないお顔ですね、姫様。お腹でも壊されましたか?」
テーブルの向こうで、サリエルは紙札を混ぜながら微笑む。その声は優しげで、本気で心配しているのかからかっているのか、リリンスには判断がつきかねた。
「それとも夕食を食べ過ぎたとか?」
「もうっ、年頃の乙女に何てこと言うのよ」
リリンスが抗議すると、侍女たちがくすくすと笑った。実際、若いリリンスの食欲は常に旺盛である。
彼女はさらに文句を言おうとして、すぐに肩の力を抜いた。この澄まし返った楽師を言い負かせるはずがないと諦めたのだ。それに、白く長い指が札を配る様は優雅で、純真な彼女はあっさりと見惚れてしまった。
今夜また王女の私室に招待されたサリエルは、一曲披露した後、遊戯の相手を務めている。リリンスは王宮の流行には敏感で、当然マティエもお気に入りだ。
配られた手札をじっくりと吟味し、リリンスは妙な唸り声を上げた。
彼女の父親から相当な金額を巻き上げたサリエルは、そんな彼女を和やかに見詰めて山札に手を伸ばした。二人で遊ぶ場合は使う枚数と役の種類が少ない。そのぶん早く勝負が決する場合が多かった。
「体調が悪いんじゃないの。ちょっと……忙しくなると思っただけ」
サリエルの捨てた札を確認し、リリンスも山札から一枚引きながらぼそっと言った。
輿入れまで残された時間は約一年。その間にアートディアスの言語と風習と歴史を頭に叩き込み、行儀作法を身に着けねばならない。
王族としての教育を受けたリリンスは、周辺諸国についてすでにひと通り学んではいる。だがアートディアス宮廷に馴染んで暮らしていけるだけの知識が、さらに必要になるだろう。皇太子妃教育のための使節団が、おそらく先方から送られてくるはずだった。
「ねえ、サリエルはアートディアスに行ったことある?」
自分の手札を吟味するのもそこそこに、リリンスは問いかけた。今夜は遊戯に集中できなかった。
「ええ、旅の途中で何度か滞在しました」
「どんな所? やっぱりオドナスとは違う?」
「そうですね、広い国ですから地方によってまったく環境が異なりますが、帝都は大陸有数の大河の畔にあります。薔薇色の石で作られた城壁と街並みがとても綺麗な都ですよ。冬になると雪が降りますから、みな毛皮を着ていてます。そのぶん春になると花が咲き乱れて……季節がはっきりと移ろうのは、この国と違うところです。姫様は驚かれるかもしれませんね」
「住んでいるのはどんな人たちなの? 西方からのお客様はここでもよく見かけるけど」
「オドナスと同じく、多民族国家です。ただ人種はほぼ北方系で、白い肌の人間が多いですね。国民性は質実剛健――打ち解ければ親切で温かい人たちです」
「女の人たちはどんな服を着ているの? 食べ物は? 美味しいものはある?」
「姫様」
次から次へと質問の出てくるリリンスを、サリエルは笑って押し止めた。
「私がアートディアスにいたのはもうずいぶん昔のことです。あてにはなりませんよ」
ずいぶん昔ってこの人はいったい何歳なんだろうと、リリンスはこれまで何度も抱いたことのある疑問を反芻する。美しい楽師の外見はせいぜい二十歳代半ばといったところで、どう見ても三十歳にはなるまい。けれど彼の語る旅の知識と経験は、とてもその年数に収まるとは思えなかった。それに何よりもこの静かな物腰――リリンスには、国王や将軍より年上に見えることもあった。
しかし、なぜかそれを問い質すことができないでいるのだった。これまでずっと。
「ですから、皇太子がどんなお方なのかも存じ上げません」
「そんなこと訊かないわよ。噂話を聞いても仕方ないし」
リリンスは軽く首を振り、
「私ね、皇太子がどんな人でも別にいいの。そりゃもちろん、気が合って尊敬できて……好きになれる人ならいちばんいいけど、贅沢は言わないわ」
と、明るく乾いた様子で言う。
「好きになれない人と一生を共にするのですか?」
「恋愛感情がない方が、相手のことを冷静に見詰められるんじゃない? 私はあくまでも外交のために嫁ぐんだから。そうねえ、夫は多少ボンクラがいいかも。上手く操ったら面白そうよ」
「姫様がそういう女性だとは思えませんね、私には」
サリエルは優しい眼差しでリリンスを見詰めた。自分のささやかな強がりをあっさりと見抜かれたようで、彼女は唇を歪める。
「あなたはどんな相手にも心を開いて歩み寄ろうとするお方です。決してご自分を偽らず、他者を丸ごと受容できる懐の深さをお持ちだ。優しいだけではない、それは紛れもない強さです。だから、誰もがあなたを好きになるんです」
歯の浮くような称賛の言葉も、彼の口から出ると真実に聞こえる。リリンスはくすぐったくなって、視線を手札に落とした。
「……夫となる方とも、きっと愛情を築けますよ」
「うん……そうなれるといいな……」
呟いた声は、細く頼りなげだった。
オドナスを背負って、国の代表として遠い国へ行く。そこで顔も知らぬ夫と娶され、子を産み、両国の和平に尽力しながら一生を送る。
まさに王女に生まれた身に相応しい、理想的な人生だと思った。王族の特権と引き換えに果たさなければならない責任だと、今までずっと望んできたことだ。結婚相手の皇太子だって、よっぽどでない限りは、まあ許容できる自信はあった。サリエルの言う通り、そのうち夫婦の情愛のようなものも育つのだろう。
アートディアスに嫁ぐことには異存はない。課せられた役目を全うすると腹を括っている。それでいて、リリンスの胸の中にはやはり晴れない霧が漂っていた。
王都の賑わいが脳裏に鮮やかに甦る。屋台で食べた焼肉の味や、通りを行き交う人々の話し声、広場を埋め尽くす露店と、キラキラした宝石の輝き――そして、隣を歩いていた少年のぎこちない微笑み。
そのすべてが儚く、とんでもなくかけがえのないものに思えて、リリンスは切なくなってしまうのだった。
あの泣きたくなるくらい楽しかった時間は、日差しの中で全身が解れるような解放感とともに、ただの思い出になってしまうのだろうか。一生、心の中に封じ込めておかなくてはならないのだろうか。
「物思いに耽っているところを申し訳ありませんが、上がりです」
サリエルの勝利宣言でリリンスは我に返る。心ここにあらずの小娘に勝つことなど、彼にとっては赤子の手を捻るようなものだっただろう。リリンスは開示された彼の手札をまじまじと眺めて、再び唸った。
「駄目だわ、今日は勝てる気がしない」
「もうおやめになりますか?」
「こんなもん賭けてるから緊張感がないのよ」
リリンスは手元に置いた銀皿から緑色の玉をひとつ取って、サリエルの皿に移した。宝石ではない。賭金の代わりは、小山のように積まれた色鮮やかな飴玉だった。
「姫様は現金をお持ちじゃないでしょう。お菓子で満足しておくのが賢明ですよ」
サリエルは再び札を混ぜながら苦笑する。自分が物凄く子供扱いされた気がして、リリンスはテーブルに手をついて身を乗り出した。
「分かったわ、じゃあ次は賭けるものを変えましょう」
「何を賭けます?」
「私。私を賭けるわ」
さすがに意味を図り兼ねて、サリエルは眉を寄せる。
リリンスは恥じらうでもなく怯むでもなく、畳み掛けた。
「私を好きにしていいわよ。その代わり、私が勝ったらあなたを頂く」
「頂くとおっしゃられましても……どういう意味ですか?」
「そういう意味よ」
彼女は声を小さくして、テーブルに頬杖をついた。皿の上の飴玉を弄びながら、
「私ね、王宮に来てからずっと箱入りだったから、その……経験がないのね、男の人と」
「まあ……そうでしょうね普通は」
「王女なんだから、ピカピカの処女のままで嫁ぐのが当然だって分かってるの。でもそれじゃあんまり……理想的すぎて」
何と表現していいのか迷って、リリンスは言い淀んだ。
恋も知らずに結婚して、夫となった男だけを愛し――それも幸せなのだろうが、何か悔しかった。自分で選択したとはいえ、定められた一生にほんの少し逆らいたい。そうしないと、重すぎる役割の中に飲み込まれてしまいそうで空恐ろしかった。
「せめて最初の人は……自分で決めたい。一度だけ相手をしてくれない?」
後ろめたさの欠片もなく真っ直ぐに見詰めてくる黒い瞳を、銀色のそれが迎えた。リリンスの素振りは誘惑というにはあまりにもひたむきだった。
サリエルは小さく息を吐いて、札を配り始めた。
「……どうして、私を?」
「あなたのこと大好きだもの、私。サリエルになら、初めてをあげてもいい。この国での思い出にしたいの。口も堅いし」
「後腐れもなさそうだし?」
「そうね。誰にも知られずに、迷惑もかけずに済みそう」
リリンスは自らの言葉に高揚したのか、わずかに頬を染めている。愛らしい美貌に純粋な欲望のようなものが宿って、対峙する者を思わず肯かせてしまいそうな情熱を醸し出していた。
部屋の隅に控えた侍女たちがざわつき始めた。主人の突拍子のなさには慣れていても、さすがに放ってはおけない事態だ。キーエは後輩たちを無言で窘め、サリエルの出方をじっと窺っている。
「間違えておいでですね、姫様」
彼はゆっくりと首を振った。
「男女の情交というものは、姫様が思っているほど重要ではありませんよ。行為に気持ちが伴ってなければ、思い出になんてなりません」
「どうして? 私はあなたが好きよ。そう言ってるじゃない」
「お父様やお兄様を好きなのと同じに、でしょう?」
リリンスは口をつぐんで俯いた。確かに、彼らを慕う気持ちとどこが違うのかと問われれば答えることができなかった。
彼女の前にはすでに十一枚の紙札が揃っている。
「アートディアスに行く前に、ご自身の気持ちにけじめをつけたいのは、別の誰かに対してではありませんか? 姫様がお望みならば、もちろんお相手は務めます。けれど私ではたぶん、代わりにはなれません」
サリエルの穏やかな口調は、背伸びした小娘を馬鹿にするふうでも、子供をあやすふうでもなかった。ただ誠実に彼女の想いに答えている。一時の思いつきで誤魔化すのではなく、本当の心に向き合えと叱咤している。
リリンスの頬がさらに赤くなった。今度は額から顎まで、顔が丸ごと朱に染まった。
「ご、ごめんなさいっ……」
彼女は悲鳴のような声で詫びながら、テーブルの紙札を混ぜっ返した。
「変なこと言っちゃった! 自分で決めた結婚なのに気持ちの整理がつかなくて、サリエルなら甘えても受け入れてくれると思って……卑怯だったわ。お願い、今の忘れて!」
汗まで掻きながら、さきほどの大胆な誘いかけが嘘のように焦っている。年相応の恥じらいで、もうまともにサリエルの顔が見られない。
「ごめん、ほんとにごめん、サリエル……呆れた?」
「いえ……姫様らしいなと」
「あなたの言う通りよ。どうなるかは分からないけど……心残りのないようにする。そして堂々とアートディアスに行くわ」
十六歳の王女は迷いながらも、自らに言い聞かせるように告げた。
その顔から動揺が薄れ、意思が固まって行く様は、向かい合うサリエルにもよく分かった。
安心したのかどうなのか、変わらず端整な微笑を浮かべる楽師へ、
「でもね、あなたを好きなのは本当よ。お父様さえ許してくれれば、アートディアスへ連れて行きたいくらい」
「光栄です」
軽口に対しても礼儀正しい返答に満足したのか、彼女は飴玉を一粒口に放り込んで笑った。




